おととい晩の文章、たしかにおかしかった。『共同幻想論』を全共闘だけが20万部も読んだのか。そんなことはない。
下記の通り訂正しました。
×この難解で孤独な書が全共闘闘争のバリケードのなかで20万部も読まれたというのは、それだけで思想的事件だったともいえよう。
○この難解で孤独な書が20万部も売れ、全共闘闘争のバリケードのなかでも「読まれ」たというのは、それだけで思想的事件だったともいえよう。
以下は余録)。
谷川雁が闘争中の大学に講演に行くと、立看板のスローガンは吉本語で埋め尽くされていたという。
実際に吉本で読まれていたのは、詩集と情況論だったのではないか。『吉本隆明ヴァリアント』には、叛旗派の連中がまとめた講演集が再録されていた。
三島も絶賛したあの文体には、叛逆のエロスをかき立てる効果はある。
しかし、本当に「読まれて」いたのだろうか。
『情況』でのマルクーゼ批判を思い出す。根源的快楽=エロスの解放の「思想」は、いざ実際に「行動」に移されると、貧しい肉体の惨めな集団の、公開オナニーか集団ペッティングのごときものにすぎなかった。
この思想が負わねばならない悲劇=喜劇は、「教祖」といわれた自分への戒めでもあり、責任の取り方でもあったのだろう。吉本は全共闘の書くものを「あの文章は自分たちの運動を台無しにするものだ」と厳しく批判していた。
政治的言語の再生が急務であるのはまちがいない。どこを見回しても、誰に届くかも知らない、継ぎ継ぎ狂ったパッチワークばかりだ。
「フロイト?ケロイド?鍵を叩いて
全部全部笑っちゃおうぜ
さっさと踊っていなくなれ 」
(ハチfeat.初音ミク)
(吉本講演会のチケット半券が、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』にはさんであった。夏目漱石に関する講演会。私にとって吉本隆明とは詩人であり、それ以外ではない。最初に読んだのは朔太郎論、はじめて買ったのも『吉本隆明詩集』、そしてベストは『記号の森の伝説歌』である)
下記の通り訂正しました。
×この難解で孤独な書が全共闘闘争のバリケードのなかで20万部も読まれたというのは、それだけで思想的事件だったともいえよう。
○この難解で孤独な書が20万部も売れ、全共闘闘争のバリケードのなかでも「読まれ」たというのは、それだけで思想的事件だったともいえよう。
以下は余録)。
谷川雁が闘争中の大学に講演に行くと、立看板のスローガンは吉本語で埋め尽くされていたという。
実際に吉本で読まれていたのは、詩集と情況論だったのではないか。『吉本隆明ヴァリアント』には、叛旗派の連中がまとめた講演集が再録されていた。
三島も絶賛したあの文体には、叛逆のエロスをかき立てる効果はある。
しかし、本当に「読まれて」いたのだろうか。
『情況』でのマルクーゼ批判を思い出す。根源的快楽=エロスの解放の「思想」は、いざ実際に「行動」に移されると、貧しい肉体の惨めな集団の、公開オナニーか集団ペッティングのごときものにすぎなかった。
この思想が負わねばならない悲劇=喜劇は、「教祖」といわれた自分への戒めでもあり、責任の取り方でもあったのだろう。吉本は全共闘の書くものを「あの文章は自分たちの運動を台無しにするものだ」と厳しく批判していた。
政治的言語の再生が急務であるのはまちがいない。どこを見回しても、誰に届くかも知らない、継ぎ継ぎ狂ったパッチワークばかりだ。
「フロイト?ケロイド?鍵を叩いて
全部全部笑っちゃおうぜ
さっさと踊っていなくなれ 」
(ハチfeat.初音ミク)
(吉本講演会のチケット半券が、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』にはさんであった。夏目漱石に関する講演会。私にとって吉本隆明とは詩人であり、それ以外ではない。最初に読んだのは朔太郎論、はじめて買ったのも『吉本隆明詩集』、そしてベストは『記号の森の伝説歌』である)