『印象派の水辺』
モネ・シスレー〔画〕
赤瀬川原平〔文・構成〕
講談社刊・1998年
モネの睡蓮を初めて見たのは、
20年以上も前、15才の夏休み、上野の国立西洋美術館だった。
こんな緑と青の絵の具がグシャグシャした絵の、
どこがいいんだって思いながら、
いやいや、これが「ゲージツ」というものなのであると思うことにした。
その日、ポケットに入れていた文庫本は、
堀達雄の『菜穂子』だ。
その後はすっかり芸術とは一切無縁な荒んだ人生を送った。
モネの『睡蓮』連作に再会したのは、20代の終わりのこと、
天王山麓の大山崎山荘のことだった。
いかにも安藤忠雄なコンクリ剥き出しな地下の回廊に、
睡蓮は死美人のように静かに眠りについていた。
今度は、グシャグシャだから悪いとは、一切思わなかった。
モネは私以上に苦労していることだけは、はっきりわかった。
死んだおばあちゃんの口癖のように、
「ほんにまあ、ありがたいもの拝ませてもらって」
という気分になった。
しかしあいかわらず、どこがどうありがたいのまでは、わからなかった。
30代も後半に入ったこの春、
大山崎山荘に懲りずに出かけて、三度目の「睡蓮」体験である。
その頃、いろいろゴタゴタが続いて、
私には転地療養が必要なようだった。
最近の美術館は椅子を置いてくれてある。
あまりにも坐り心地がよく、私はぼーっとして坐っていた。
すると目の前の絵が急にゆらゆら動きだして、
水面がきらきら輝き始めた。
ついに頭がおかしくなったのかと思った。
しかし、疲れ眼が裸眼実体視を起こしたらしい。
ぼやぼやの疲れ目に、
ぼやぼや睡蓮がいくつもチラチラしていて、
そのうち、特徴のある形がピタッと重なって、
鮮明な映像が現われたのだ。
晩年のモネは、ジヴェルニーの自宅の庭を広げて大きな庭を作り、
睡蓮を植えて、「庭師モネ」による日本式庭園で連作を続けた。
赤瀬川氏はいっている。
「水辺と睡蓮とほのかな水中の様子だけをもとにして絵を描いていく
という気持ちの中に、すでに抽象絵画が生まれている」
しかしそれは画面構成だけの抽象絵画ではありえなかった。
モネのめざしたのは、あくまでも《睡蓮の池》だったのである。
「抽象絵画は表現の自由の天国であるはずなのだけど、
何故か自由の嬉しさが感じられないのはどうしてだろう。
むしろ自然描写に結びついた印象派の絵の筆触の方に、
自由の嬉しさを感じるのは何故だろうか。
自由というのは与えられると消えてしまう。
印象派の絵の筆触には、みずからそれをつかもうとする力が放つ輝きがあるのだ」
10代の終わりにみずみずしい眼で田園風景をとらえた、
最初期の風景画「ルエルの眺め」(1858)から、
「印象派」の名の由来になった「印象、日の出」(1873)を経て、
「睡蓮」(1916)に至るまでのモネの軌跡を追いながら、
セザンヌのモネ評に思い至らずにはおれない。
「これは眼にすぎない――だが、何という眼だろう!」
もちろん、赤瀬川氏もいうように、
今も河もあり海もあり、緑もあり、
印象派のようにイーゼルを立てることも可能だろう――。
しかし「グローバル化」された現代の人間は、
水と緑を素直に讃美する資格を失っている。
モネの絵がわかったのではない――私にも「見えた」のだ。
EVさんの立体視や、ウォーリー君と同じように、
「見えた」からといって、別にどうってことはないのだった。
しかしそのとき、私の目に見えていたのは、
晩年は視力障害を抱えていたモネの見た睡蓮と、
同じ睡蓮であることは、間違いのないことだったのである。
水際だつ自然は、ことばよりも雄弁に、
まだ見ぬ未来を指差している。
モネ・シスレー〔画〕
赤瀬川原平〔文・構成〕
講談社刊・1998年
モネの睡蓮を初めて見たのは、
20年以上も前、15才の夏休み、上野の国立西洋美術館だった。
こんな緑と青の絵の具がグシャグシャした絵の、
どこがいいんだって思いながら、
いやいや、これが「ゲージツ」というものなのであると思うことにした。
その日、ポケットに入れていた文庫本は、
堀達雄の『菜穂子』だ。
その後はすっかり芸術とは一切無縁な荒んだ人生を送った。
モネの『睡蓮』連作に再会したのは、20代の終わりのこと、
天王山麓の大山崎山荘のことだった。
いかにも安藤忠雄なコンクリ剥き出しな地下の回廊に、
睡蓮は死美人のように静かに眠りについていた。
今度は、グシャグシャだから悪いとは、一切思わなかった。
モネは私以上に苦労していることだけは、はっきりわかった。
死んだおばあちゃんの口癖のように、
「ほんにまあ、ありがたいもの拝ませてもらって」
という気分になった。
しかしあいかわらず、どこがどうありがたいのまでは、わからなかった。
30代も後半に入ったこの春、
大山崎山荘に懲りずに出かけて、三度目の「睡蓮」体験である。
その頃、いろいろゴタゴタが続いて、
私には転地療養が必要なようだった。
最近の美術館は椅子を置いてくれてある。
あまりにも坐り心地がよく、私はぼーっとして坐っていた。
すると目の前の絵が急にゆらゆら動きだして、
水面がきらきら輝き始めた。
ついに頭がおかしくなったのかと思った。
しかし、疲れ眼が裸眼実体視を起こしたらしい。
ぼやぼやの疲れ目に、
ぼやぼや睡蓮がいくつもチラチラしていて、
そのうち、特徴のある形がピタッと重なって、
鮮明な映像が現われたのだ。
晩年のモネは、ジヴェルニーの自宅の庭を広げて大きな庭を作り、
睡蓮を植えて、「庭師モネ」による日本式庭園で連作を続けた。
赤瀬川氏はいっている。
「水辺と睡蓮とほのかな水中の様子だけをもとにして絵を描いていく
という気持ちの中に、すでに抽象絵画が生まれている」
しかしそれは画面構成だけの抽象絵画ではありえなかった。
モネのめざしたのは、あくまでも《睡蓮の池》だったのである。
「抽象絵画は表現の自由の天国であるはずなのだけど、
何故か自由の嬉しさが感じられないのはどうしてだろう。
むしろ自然描写に結びついた印象派の絵の筆触の方に、
自由の嬉しさを感じるのは何故だろうか。
自由というのは与えられると消えてしまう。
印象派の絵の筆触には、みずからそれをつかもうとする力が放つ輝きがあるのだ」
10代の終わりにみずみずしい眼で田園風景をとらえた、
最初期の風景画「ルエルの眺め」(1858)から、
「印象派」の名の由来になった「印象、日の出」(1873)を経て、
「睡蓮」(1916)に至るまでのモネの軌跡を追いながら、
セザンヌのモネ評に思い至らずにはおれない。
「これは眼にすぎない――だが、何という眼だろう!」
もちろん、赤瀬川氏もいうように、
今も河もあり海もあり、緑もあり、
印象派のようにイーゼルを立てることも可能だろう――。
しかし「グローバル化」された現代の人間は、
水と緑を素直に讃美する資格を失っている。
モネの絵がわかったのではない――私にも「見えた」のだ。
EVさんの立体視や、ウォーリー君と同じように、
「見えた」からといって、別にどうってことはないのだった。
しかしそのとき、私の目に見えていたのは、
晩年は視力障害を抱えていたモネの見た睡蓮と、
同じ睡蓮であることは、間違いのないことだったのである。
水際だつ自然は、ことばよりも雄弁に、
まだ見ぬ未来を指差している。