記憶をなくした私 ~側頭葉てんかんを経て~

仕事で、家庭で、忙しくストレスをかかえていたある日、家に帰る駅も道も、わからなくなってしまいました。あれから10数年。

久しぶりの夢

2023年06月16日 | 日記

二度寝したら、夢を見た。

久しぶり。

バイト先メンバーと飲み会に行き

(顔ぶれが記憶にないが、どうも現実とは違ってたような)

「バイトをやめようと思う。

 来月か再来月かまだはっきり決めてないが短い間でしたがお世話になりました」

みたいなことを皆に伝えていた。

で、二次会に行って

(現実には二次会なんて行ったことないのだが)

(高そうなお店だったけどお局バイト様が個室が取れたとかで予約済)

店に入る前に、皆に、辞める時期を秋まで延ばせないかと言われてた。

忘れたけど、何かがあるからと。

二次会先でトイレに行きたかったけど、トイレが一つしかなく

皆が並んで混んでた・・というしょうもないことも覚えてた。

・・トイレ行きたくて目が覚めたんだな、きっと(笑)

バイト、いつ辞めよう、いつ言おう、と悩んでるけど、

とうとう夢にまで出てきたか。




夢を見た

2016年10月08日 | 日記
昨夜、眠くて眠くて仮眠した時に、夢を見た。

夢の中の私は、がんに罹患していて、がんが、脳とどこかに転移していると告知されていた。
 そうか。じゃあもう先は長くないな。
 脳に転移してるということは、
 意識を保てるのも長くないだろうな。
と考えていた。乱れることもなく、悲しむでもなく、冷静に。

そこで、目が覚めた。寝汗をかいていて、体が重かった。(まぁ、少ししか寝てなかったせいもあるだろうけど)

最近テレビでがん患者の方の話を見たせいかもしれない(テレビの患者さんはすっかり良くなってた)。
あるいは、職場の方の奥様ががん末期だと聞いたせいかもしれない。私が代わってあげられればいいのにと思ったけれど、そんなできもしないことを言うのは失礼でしかないので、口にはしなかったが。

夢で良かったのか、残念だったのか、どっちだろうか。

会えた

2015年06月21日 | 日記

もしかしたら、会えるかもしれない。
そん密かな望みを持ちつつ参加した同窓会。

受付を始めたら、しばらくして、あ・・・

近づいてくる。彼だ。間違いない。
久しぶり。と声をかける。
一瞬考えた風で、おっ、という顔になった。

 30年以上ぶり。皺がかなりふえてる。
 髪も、白い物が混じってる。
 あぁ、年月がたったんだ。
 そうして、普通に挨拶できた。

受付が終わり、会が始まる。
横目で様子を伺う。
もっと、話したくなった。
しばらくたったら・・・彼も、こちらを伺う気配を感じた。

・・・


顔を、見る。
どう? 元気にしてる? 声をかけてくれる。
病気してね、と話す。
大丈夫? と気遣ってくれる。
私のその後を、ちょっとだけかいつまんで伝える。
彼のことにも話を向ける。
そうか。子供は2人、もう社会人なんだ。
(奥様はどんな方なんだろう・・・)

 本当は、言葉の一字一句を、覚えていたかった。
 だけど、病気が、台詞を忘れさせる。
 イメージだけが残る。

途中、他の男子が加わる。
(もう子じゃないけどね)
同じ地方大学を、一緒に受験した仲間。
受験の後、4人で晩飯食べたよね、
と言われ、そうだったかな・・・と考える。

 彼と、もう一人は覚えてたけど・・・そっか、
 もう一人いたっけ。失礼!

 そして、私と、今日は来ていないもう一人しか受からなかった。

 あの時私が、他にも受かっていた東京の大学、
 その後彼が通うことになった大学に進んでいたら
 どうなっていただろう・・・

ま、いろいろあったな、と。

そう、全て昔話。
だから、話せるようになった。きっと。

でも、こうして会えたことで、心が少し溶けた。
解放された。

私の中で、ずっと当時のままの姿だった彼は、
若い姿のまま、美しい思い出と化していた彼は、
やっと学生服を脱いで、普通のおじさんになった。


そして、今は今の世界がある。

今、私の大事な人。会いたい。


あり得なかった人生

2012年12月29日 | 日記

あり得なかった人生のことを
思うのはやめよう。
あったかもしれないではなく、
あり得なかったのだ。


この先の人生はいらない。
先の見えない人生はいらない。
あるかもしれない人生はいらない。
何もいらないから、
この人生から自由になりたい。
解き放されたい。


自死する人の気持ちが
わかった気がする。
周りをどうこうしたり、
自分でどうこうする、
気力も、何も、なくなって、
ただ、逃げたいのだ。
逃げたと言われようが、
敗者と言われようが、
そんなことは知ったこっちゃない。

後のことは、知らない。

 


訃報

2012年07月08日 | 日記

学生時代の後輩の奥さん、私も知っている子の訃報が入ってきた。
後輩もすごくいい子で、彼女もそれにふさわしい、かわいくていい子だった。

突然倒れて、意識が戻らないまま亡くなったそうだ。
家族の嘆きはいかばかりだろう。

仲間から、弔電を打ち、供花をおくる。

その陰で、代わってあげられれば良かったのにと 思う。


新聞で、事故や事件で亡くなった人の記事を見ても、
代わってあげられれば良かったのに 
私だったら良かったのに  と思う。


「私だったら良かったのにな」と言って、夫に怒られる。


死ぬこと

2012年03月03日 | 日記

「死ねたらいいな」と時々思っている。
「死にたい」ではない。

何か、苦しまずに、不可抗力で、あるいは自然に、気づいたら死んでいた、という状態。
考えると、それって意外と?当然?難しい。簡単には死ねないわけだ。

しばらく忘れていたけれど、ずっと前にも漠然と思っていたように思う。
(あるいは昔から時々思っていたのに、病気のせいで忘れただけかもしれないけれど)

子供の頃は、30歳になる前に死にたいと思っていた。いつから思っていただろう。
病気が治り始めた頃、昔のことを思い出すために読んだ日記の中で、遅くとも中学生の頃には書かれていたように思う。
あまり人に話した記憶はなかったのだけど、ためしに大学時代に親しくしていた友人に、私がそんなことを言っているのを聞いたことがあるか聞いてみたら、あると言っていた。

夫に話したら、初めて聞いたと言っていたから、多分結婚してからは、それなりに幸せだったのだろうし、子供ができてからは、死ぬなんてこと考える暇もないくらい忙しかったのだろう。

そんなことを今さら思い出して、今、とても身近に感じているのは、間の記憶がふっ飛んだせいかもしれない。悩み多き青春期に戻ってしまったか(苦笑)。

死ねたらいいな と思いながら道を歩く。
車がこっちにぶつかってこないかな。でも車は痛いな。当たり具合によっては後がきれいじゃない。それに弾いた相手は犯罪者になってしまう。
とすると、心臓麻痺とか脳卒中とか。でも人間ドックではそんな兆候はないし、中途半端じゃ苦しいだろう。
事故にしろ病気にしろ、生き残って人の世話になるようなことになったら人迷惑だ。
かと言って、自ら何かするなんてのは痛いだろうし、苦しそうでいやだし。
・・・あー、他力本願。

それに、少し前まではいくつか泊り旅行の予約をしてたから(大人2名分、代金先払)、死ぬにしてもそれが終わってから、と思っていた。私がいないと夫一人じゃ行かないだろうし、そしたらせっかくお金払ってるのにもったいない。
ただ、旅行は夫婦で行くとして、食事の予約(これもクーポンサイトで前払)なら、まぁ私でなくても娘と行けばいいかな。
などと、変に現実的?というか、現金?だったりして。

・・・と、そんなどーでもいいことを考えながら、仕事の帰り道を歩いていたりする。


厭世感

2012年01月09日 | 日記
厭世感が消えない。

昨日は下の子2人を連れてハウスメーカーのイベントに行った。
そこでは普通に振舞っていたけど、帰ってきたら、やっぱり気持ちをそがれることがあって、ずっと気持ちが萎えている。

節約。倹約。
他の家庭ではどうなんだろう。

お風呂のお湯をがばがは使う子ども達。あんまり使うと温水器のお湯が足りなくなるから、お湯は節約しながら使いなさいと言う。シャワーを使いっぱなしにするのではなく、体を流すだけだったらお風呂のお湯を使いなさい、など。でも、子ども達は、「えー、お風呂のお湯かけるなんて汚いからいやだ」だって。浸かって、ぬくもっているお湯なのに、どうしてかけるのは汚いのだろう。私にはわからない。

暖房の温度設定も、私は節電のため少し下げる。国の省エネ設定温度の20℃。でも、いつのまにか上げられていることが多い。20℃では寒い、家の中で寒いのはいやだと。そのくらい、一枚は多くはおれば済むことなのに。

うちの子達、節約とか倹約とか、思わないのかなぁ。
過去の私が、そんな風に育ててしまったのだろうか。

些細なことなんだろうね。そんなこと、思うこと自体が病気かな。
でも、そういう小さなことでも、塵も積もれば何とやら。

携帯も、中学生のうちからネットもメールも使い放題のプランで、小遣いも結構な額で、更に交通費は別に渡していて(必要な交通だけでなくあちこち遊びに行く交通費も)。私立校に行っているのだから、必要なお金だと夫は言う。でも、私が使う携帯代や私用で使う金額よりよっぽど多い金額を、3人の子ども達は使っていると思う。
過去の私はそんなこと認めていたのだろうか。

私の意見は言っても無視される。
夫は、よそはよそ、うちはうち、と言う。
子ども達にはそんなこと突然言い出したお母さんがおかしいと言われる。
それは、しばらく前から続いていること。
同じ年ごろの子どもがいる私の兄弟や、学校の先生をやっている義兄弟に相談したりもして、彼らは私に共感してくれたけど、何も変わっていない。
私ももう、あきらめてしまった。

でも、私は生きていてもつまらないな、家にいてもいいことないな、と思う。
その気持ちが変わらない。

年賀状

2012年01月07日 | 日記
今日は、愚痴だな。ひどく気分がダウンしている。

昨日、夫実家に行っていた下2人の子どもが帰ってきた。
下2人はまだまだガキんちょで何かと煩わしい。(自分が生んだ子だという記憶は消えているし)
帰ってくる…と思うと、仕事帰りの足も重くなった。
他に帰る家もないから、とぼとぼ帰ったけれど。

子どもたちは、夫両親が車で連れて来てくれた。(毎度、遠路はるばる迎えに来て、連れて来てくれる)

しばらくして夫が帰って来て、持ってきてくれたおせちの一部を食べ、そのうち年賀状の話になった。
我が家の年賀状は、毎年子ども達の写真を載せた年賀状。その年賀状を、義母が「うちんとこには来とらん」と言い、夫が「出してないもん。それあげるけん」と言った。
それってさ。そのあげるって言った年賀状、私が作った分の年賀状だよ。
私の年賀状と夫の年賀状は、写真は同じだけどコメントが少し違う。私のものは、私の友達用に、プライベートなことがつらつら書いてある。それを、夫が義両親にあげると言った。「自分のあげればいいじゃん」と言ったら、「俺のは残ってない」と言われておしまいだった。ちょっと印刷すればいいだけなのに。

夫両親とは仲良くしているし、病気のことも知らせてはいるけれど、私の個人的なことをつらつら書いてある友達宛の年賀状を、夫が勝手にあげると言ったのが嫌だった。それに、私はまだ年賀状を書き終えていなくて、これからまだ書かなきゃならないのに、あげたら足りなくなってしまう。
でも、義両親の前でそんなことは言えず、口をつぐんだ。

夫は仕事に行ってしまった。今晩は帰ってこない。

今日年賀状を書こうとして、その枚数が減っていて、嫌だ嫌だと思っていたら,、また鬱々とした気分になってきた。
早く死ねたらいいのになと思う。被災地の方と、代わってあげられれば良かったのにと思う。

こんなことくらいで死ねたらいいだなんて、人からは病気が入ってると思われるのだろうか。
でも、この思いは、(多分)小学生の頃からずっと根底にあるものだ。あの頃から病気だったとは思わない。時々ふっとわきあがるもの。うーん。何だろう。人生観の一種だろうか。厭世感みたいなものか。
ただ、最近頻度が増えてはいるけれど。

達観したいと思いつつ、達観できない。
私の達観って、「ま、いっか」「なるようになる」というものなのだけど。
そう思えるのは一時だけなんだ。

迎春

2012年01月01日 | 日記
年が変わった。

でも、「あけまして"おめでとう"」という気分ではないので、家ではおめでとうは言ってない。日付が変わった時、夫は子ども達に言ってたけど、私は黙ってた。朝は、「おはよう」と言われたから、「おはよう」と返した。

今年は、年賀状に「あけましておめでとう」とは書かない人も多いという、と新聞に書かれていた。被災地に配慮して、と。
一緒にしては失礼だけど、私もめでたい気分ではないのだもの。
年が変わった。明日が、今日になるのと同じ。時間だけが過ぎていってしまう。

去年の正月のことは覚えていない。年末から夫実家に行って、30日は朝から餅つきして夜は皆でレストランでDinner、31日は紅白が終わったら近所の神社に元朝参りに行って、元日の朝は義母力作のおせちを食べて、お雑煮も食べて…と、毎年恒例の年末年始。
だったはずなのだけど。全く記憶にない。

去年は病のばたばたで、年賀状も欠礼してしまった。じゃあ寒中見舞いを出そうかとか思いつつ、結局何も出さずじまいだった。さすがに2年連続欠礼は失礼なので、今年は出さなくてはと、"今"デザイン画策中。正月のうちには何とか出したいぞ。
挨拶の言葉は『迎春』。年賀状の言葉のうち、この言葉が一番好きだ。

春を迎える。

年があけてめでたくなかったとしても、春は必ず来るから。生きていれば、誰にでも来るから。