日本書紀 巻第二十一
泊瀬部天皇
(はつせべのすめらみこと)
崇峻天皇
(すしゅんてんのう)
・出自
・物部大連の兵士ら驚愕する
・物部大連の謀
・蘇我馬子、二人の皇子を誅殺する
泊瀬部天皇は、
(はつせべのすめらみこと)
天国排開廣庭天皇
(あまくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の
第十二子です。
母は、小姉君(おあねのきみ)といいます。
(稲目宿禰(いなめのすくね)の娘です。すでに上文に見えます)
二年夏四月、
橘豊日天皇
(たちばなのとよひのすめらみこと)
が崩じました
五月、
物部大連の軍衆(いくさ)が、
三度、驚駭(とよむ)しました。
大連ははじめから、
余の皇子たちをすて、
穴穂部皇子(あなほべのみこ)を立てて
天皇にきめようと思っていました。
今に至り、
遊猟(かり)を因(よすが)に、
替え立てることを謀ろうとして、
密かに人を穴穂部皇子のもとに使にやり、
「願わくは、
皇子とまさに淡路で
馳猟(かり)をしましょう」
といいました。
計りはもれました。
六月七日、
蘇我馬子宿禰等は、
炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)
を奉じて、
佐伯連丹経手(さえきのむらじにふて)、
土師連磐村(はじのむらじいわむら)、
的臣真嚙(いくはのおみまくい)に詔して、
「汝等は、
兵をととのえ、
速やかに往って、
穴穂部皇子と
宅部皇子(やかべのみこ)を誅殺せよ」
といいました。
この日の夜半に、
佐伯連丹経手等は、
穴穂部皇子の宮を囲みました。
ここにおいて、
衛士(いくさひと)が、
先に楼(たかどの)に登って、
穴穂部皇子の肩を撃ちました。
皇子は、
楼の下に落ちて、
かたわらの室に、
にげ入りました。
衛士等は、
燭をともして誅しました。
八日、
宅部皇子を誅しました。
(宅部皇子は檜隈天皇(ひのくまのすめらみこと)の子で、上女王(かみつひめ)の父です。未詳)
穴穂部皇子とうるはしでした。
故に誅しました。
・軍衆(いくさ)
兵士
・驚駭(とよむ)
=きょうがい・おそれおどろくこと。驚愕。けいがい
(感想)
崇峻天皇は、
欽明天皇の第十二子です。
母は、
小姉君といいます。
(稲目宿禰の娘です。すでに上文に見えます)
用明天皇2年夏4月、
用明天皇が崩じました。
5月、
物部大連の兵士が、
三度、騒ぎました。
大連は初めから、
他の皇子たちを排除して、
穴穂部皇子を立てて
天皇にしようと思っていました。
今に至り、
狩を理由に、
天皇を穴穂部皇子に
替え立てることを謀ろうとして、
密かに使者を穴穂部皇子のもとに派遣して、
「願わくは、
皇子と淡路で狩をしましょう」
といいました。
しかし、
計りはもれました。
6月7日、
蘇我馬子宿禰らは、
後の推古天皇を奉じて、
佐伯連丹経手、
土師連磐村、的臣真嚙に詔して、
「お前たちは、
兵を整え、
速やかに行き、
穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺せよ」
といいました。
この日の夜半に、
佐伯連丹経手らは、
穴穂部皇子の宮を囲みました。
ここにおいて、
衛士が、
先に楼(たかどの)に登って、
穴穂部皇子の肩を撃ちました。
皇子は、
楼の下に落ちて、
かたわらの室に、
逃げ入りました。
衛士らは、
灯をともして誅しました。
8日、
宅部皇子を誅しました。
(宅部皇子は宣化天皇の子で、上女王(かみつひめ)の父です。未詳)
穴穂部皇子と仲がよく、
故に誅しました。
本日より
日本書紀 巻第二十一 泊瀬部天皇
読んでいきたいと思います。
お付き合いいただけたら幸いです。
さて、
崇峻天皇が天皇に即位するまでに
争いが勃発していますね。
仏教を重んずるわりには、
蘇我氏。
殺生しまくりです。
なんだかなぁ。
さて、
権力争いの行方はいかに。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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