リートリンの覚書

日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 三十三 ・欽明天皇7年の出来事



日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 三十三

・欽明天皇7年の出来事



七年春正月三日、
百済の使人、
中部奈率己連(ちうほうなそちこれん)等が
帰国しました。

それで、
良馬七十匹と船十隻を与えました。

夏六月十二日、
百済が、
中部奈率掠葉礼
(ちうほうなそちけいせふらい)等を
遣わして、
調(みつき)を献じました。

秋七月、
倭国(やまとのくに)の
今来郡(いまきのこおり)が、
「五年の春に、
川原民直宮(かわらのたみのあたいみや)
(宮は名です)

楼(たかや)に登り、
ぞんぶんに望みますと、

すなわち、
良駒を見つけました。

(紀伊国の漁者(あま)の贄を負う草馬(めうま)の子です)

影を睨み高く鳴き、
軽く母の背を超えました。

就いて、
買い取りました。

かうこと年をかさねました。

壮におよび、
鴻(おおとり)のようにすばやく、
龍の如くとびあがり、

輩とちがい、
群を越えていました。

乗りこなすのは心に随い、
馳驟(ちしゅう)にちょうどよく、

大内丘の谷を超え渡ること、
十八丈でした」
といいました。

川原民直宮は、
檜隈邑の人です。

この年、
高麗は大乱でした。

ひきくるめて、
闘い死んだ者は二千余でした。

(百済本記は云う、
高麗は、
正月の丙午(ひのえうま)の日に、

中夫人(くのおりくく)の子を立てて、
王としました。

年は八歳。

狛王(こくおりこけ)には、
三夫人(おりくく)が有りました。

正夫人(まかりおりくく)は子が無く、

中夫人(くのおりくく)は、
世子(まかりよも)
生みました。

その舅氏が麁群(そぐん)です。

小夫人(しそおりくく)も子を生みました。

その舅氏が細群(さいぐん)です。

及び、
狛王の病が重くなってから、

細群、麁群は、

各々、その夫人の子を立てようと思いました。

故に、
細群の死者は、
二千余人でした)



・今来郡
高市郡の旧称
・草馬(めうま)
雌馬
・馳驟(ちしゅう)
馬や馬車で駆け回ること
・大内丘
檜隈大内陵の地



(感想)

欽明天皇7年春1月3日、
百済の使者、
中部奈率己連らが帰国しました。

そこで、
良馬七十匹と船十隻を与えました。

夏6月12日、
百済が、
中部奈率掠葉礼らを派遣して、
調(みつき)を献上しました。

秋7月、
倭国の今来郡が、
「五年の春に、
川原民直宮が、
楼(たかや)に登り、

ぞんぶんに見渡しますと、
そこで良駒を見つけました。
(紀伊国の漁師の贄を背負う、雌馬の子です)

影を睨むと高く鳴き、
軽く母の背を超えました。

宮は行って、
馬を買い取りました。

馬を飼い、
数年が経ちました。

壮年におよぶと、
鴻(おおとり)のようにすばやく、
龍の如くとびあがり、

仲間と異なり、
群を越えていました。

乗りこなすのは心に随い、
駆け回ることに丁度良く、

大内丘の谷を超え渡ること、
十八丈でした」
といいました。

川原民直宮は、
檜隈邑の人です。

この年、
高麗は大いに乱でした。
ひきくるめて、闘い死んだ者は二千余でした。

(百済本記は云う、
高麗は、正月の丙午(ひのえうま)の日に、

中夫人(くのおりくく)の子を
立てて王としました。
年は八歳。

狛王には、
三人の夫人(おりくく)がいました。

正夫人は子がありませんでした。
中夫人は世継の子を生みました。
その舅氏が麁群です。
小夫人も子を生みました。

その舅氏が細群(さいぐん)です。

及び、
狛王の病が重くなってから、
細群、麁群は、
各々、その夫人の子を立てようと思いました。

故に、
細群の死者は、二千余人でした。


明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


ランキングに参加中!励みになります。
ポチッとお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 神話・伝説へ  

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

最近の「日本書紀・現代語訳」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事