日本書紀 巻第二十六
天豊財重日足姫天皇 二十一
・斉明天皇七年の出来事
七年春正月六日、
御船は、西征して、
始めて海路に就きました。
八日、
御船は、
大伯海(おおくのうみ)に到りました。
時に、
大田姫皇女(おおたのひめみこ)が
女を産みました。
なお、
この女を名付けて、
大伯皇女(おおくのひめみこ)といいます。
十四日、
御船は、伊豫の熟田津(にきたつ)の
石湯行宮(いわゆのかりみや)に
泊まりました。
(熟田津、これは儞枳拕豆(にきたつ)といいます)
三月二十五日、
御船は、
還って娜大津(なのおおつ)に到ました。
磐瀬行宮(いわせのかりみや)に居ました。
天皇は、
これを改めて
名を長津(ながつ)としました。
夏四月、
百濟の福信(ふくしん)が
遣使(つかわしめ)して上表して、
その王子の糺解(くげ)を
迎えることを乞いました。
(釈道顯(どうけん)の日本世記(にほんせいき)によると、百濟の福信は、書を献(たてまつ)り、その君の糺解(くげ)を東朝(みかど)に祈ったといいます。
或る本は云う、
四月、天皇は朝倉宮に遷居したと)
五月九日、
天皇は、
朝倉橘広庭宮
(あさくらのたちばなのひろにわのみや)
に遷居しました。
この時、
朝倉社(あさくらのやしろ)の木を除いて、
この宮を作ったが故に、
神は忿(いか)り殿を壊しました。
また、
宮の中に鬼火が見られました。
これによりて、
大舍人及び諸々の近侍が
病になり死者が多くでました。
二十三日、
耽羅(たむら)が初めて、
王子の阿波伎(あはぎ)等を遣わして、
貢献しました。
(伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書は云う、
辛酉年正月二十五日、
還り越州に到りました。
四月一日、
越州から上路に従い、東に帰りました。
七日、
檉岸山(ていがんさん)の明に行き到りました。
八日、
鶏鳴(あかつき)の時に、西南の風に順(したが)い、船を大海に放ちました。海の中を迷途(めいと)し、漂蕩(ひょうとう)し、辛苦しました。
九日八夜、
やっと耽羅嶋に到ました。すぐに、嶋人の王子の阿波伎(あはぎ)等九人を招慰(しょうい)し、同じく客の船に載せて、帝朝(みかど)に献(たてまつ)ろうとしました。
五月二十三日、
朝倉の朝(みかど)に進め奉りました。耽羅が朝に入るのは、この時始まりました。
また、智興(ちこう)の傔人(ともびと)の東漢草直足嶋(やまとのあやのかやのあたいたりしま)の讒(そし)りにより、使人等は、寵命を蒙ることができませんでした。使人等は怨み、上天(あめ)の神は、足嶋(たりしま)を震死(しんし)させました。時の人は、「大倭の天の報は近い」 といいました。)
・大伯海(おおくのうみ)
岡山県邑久郡
・熟田津(にきたつ)
愛媛県松山市辺
・石湯行宮(いわゆのかりみや)
道後温泉
・娜大津(なのおおつ)
博多港
・磐瀬(いわせ)
福岡県福岡市三宅
・福信(ふくしんしん)
鬼室福信
・糺解(くげ)
余豊璋か?
・東朝(みかど)
大和朝廷のこと
・朝倉社(あさくらのやしろ)
福岡県朝倉郡朝倉町山田の麻氐良布神社(まてらめじんじゃ)
・耽羅(たむら)
済州島
・迷途(めいと)
道に迷う
・漂蕩(ひょうとう)
水にただよい動くさま
・耽羅嶋(たんら)
済州島
・招慰(しょうい)
招いてなぐさめること
・傔人(ともびと)
留学生につく後見人の役人
・震死(しんし)
雷に打たれて死ぬこと。また、感電して死ぬこと
(感想)
斉明天皇7年春1月6日、
天皇は、
西征して、
始めて海路に就きました。
8日、
天皇は、
大伯海の海に到着しました。
その時、
大田姫皇女が女の子を産みました。
なお、
この女の子を名付けて、
大伯皇女といいます。
大田姫皇女(おおたのひめみこ)は、天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘。同母妹に鸕野讚良皇女(持統天皇)。同母弟に建皇子。
配偶者は大海人皇子(後の天武天皇)
14日、
天皇は、
伊予の熟田津の石湯行宮に停泊しました。
3月25日、
天皇は、還って娜大津に到着しました。
磐瀬行宮に居ました。
天皇は、
これの名を改めて長津としました。
夏4月、
百済の福信が使者を派遣して上表して、
その王子の糺解を迎えることを乞いました。
釈道顯の日本世記によると、
百済の福信は書を献上して、
その君の糺解をミカドに祈ったといいます。
或る本は云う、
四月、天皇は朝倉宮に遷居したと
5月9日、
天皇は、
朝倉橘広庭宮に遷居しました。
この時、
朝倉の社の木を斬りはらい、
この宮を作ったので、
故に、神は怒り殿を壊しました。
また、
宮の中に鬼火が見られました。
このため、
大舍人および諸々の近侍が
病になり死者が多くでました。
23日、
耽羅が初めて、
王子の阿波伎らを派遣して、
貢献しました。
前回の伊吉連博徳の書
伊吉連博徳の書は云う、
辛酉年1月25日、
帰り越州に到着しました。
4月1日、
越州から出発して、
東に帰りました。
7日、
檉岸山の明に到着しました。
8日、
午前2時頃に、
西南の風にしたがい、
船を大海に乗り出しました。
海の中を道に迷い、
水にただよい、
辛苦しました。
9日8夜、
やっと耽羅嶋に到着しました。
すぐに、
嶋人の王子の阿波伎ら9人を
招いてなぐさめ、
同じく客の船に同乗して、
ミカドに献上しようとしました。
5月23日、
朝倉の朝廷に進め奉りました。
耽羅が朝廷に入るのは、
この時始まりました。
また、
智興の従者の東漢草直足嶋の讒言により、
日本国の使者らは、
天子の寵命を
受けることができませんでした。
使者らは怨み、
あめの神は、
足嶋を感電死させました。
時の人は、
「大倭の天の報は近い」
といいました。
明日に続きます。
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ありがとうございました。
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