日本書紀 巻第七
大足彦忍代別天皇 十四
・宮簀媛との結婚
・五十葺山の荒神
・尾津浜の一本松
・伊勢神宮へ蝦夷等を献上
・日本武尊の薨去
日本武尊は、
さらに尾張にもどり、
尾張氏の娘宮簀媛(みやずひめ)を娶り、
長く留まり幾月か経ちました。
そこで、
近江の五十葺山(いぶき)に
荒神(あらふるかみ)がいると聞き、
早速、
剣を腰から外して宮簀媛の家に置き、
素手で出かけて行きました。
息吹山に至ると、
山の神が大蛇と化して道を遮っていました。
しかし、
日本武尊は、
主神が蛇に化けたとは思いもせず、
「この大蛇は、きっと荒神の使いであろう。
もし主神を殺すことができたなら、
その使者なぞ問題にするに足らないだろう」
といいました。
そこで、
蛇を跨(また)いでなおも行きました。
時に、
山の神は、雲を興し、
霰(あられ)を降らせました。
峯は霧が立ち込め、谷は暗く、
行く路もまた無く、
それで、捷遑(ししまひ)、
その場所が分からず、
跋渉(ばっしょう)しました。
そこで、霧を凌いで強行し、
かろうじて出ることができました。
それでもなお、
意識が確かではなく酔ったようでした。
そこで、
山の下の泉の側に居て、
その水を飲んだところ、
醒(めざめました)しました。
故に、
その泉を居醒泉(いさめのいずみ)と呼びます。
日本武尊は、これでも発病しました。
そうして、
どうにかして起き、
尾張に還りましたが、
宮簀媛の家には入らず、
すぐ伊勢に移り、尾津に到着しました。
昔、日本武尊が東に向かった年に、
尾津浜に留まり食事をしました。
その時、
一剣を腰から外して、
松の木の根もとに置きましたが、
すっかり忘れて去りました。
今ここに至ってみると、
剣がそのまま残っていました。
そこで歌って、
尾張に 真っ直ぐに向かって
一つ松よ
一つ松が 人であったなら
衣も着せ 太刀も佩かせるものを
といいました。
能褒野(のぼの)に到着しても、
痛みはひどいままでした。
そこで、俘(とりこ)とした蝦夷等を、
神宮に献上しました。
そして、吉備武彦を遣わして、
天皇に奏言し、
「臣は、天朝から命を受けて、
遠く東夷を征しました。
則、神恩を受け、皇威を頼りに、
叛逆者は罪に伏し、
荒神も自然と調伏しました。
是以、甲(よろい)を巻き、
戈(ほこ)を収め、
愷悌(いくさとけ)て、還ってきました。
願わくば、
いつの日か、いつの時か、
天朝に復命したいと。
しかしながら、
天命が非常に急に至り、
四頭立ての馬車が
隙に停まるのが難しいように、
是を以て、
独り曠野(あらの)に臥して、
誰とも語ることは無く、
身が死ぬことは惜しくはないのですが、
ただ、お会いできないことがもの寂しい」
といいました。
とうとう、
能褒野で崩じました。
時に年は三十歳でした。
・尾張
愛知県
近江
滋賀県
・五十葺山(いぶき)
滋賀県の伊吹山
・捷遑(ししまひ)
ひとつのところをうろうろとめぐりさまよう。進退が定まらずうろうろとする)
・跋渉(ばっしょう)
いろいろな所を歩きまわること
・居醒泉(いさめのいずみ)
坐て醒(さめ)た泉の意
・尾津
三重県桑名市多度町か
・能褒野(のぼの)
三重県の鈴鹿山脈の野登山辺りの山麓
・俘(とりこ)
捕虜
・愷悌(いくさとけ)
戦が終わり安心する
感想
日本武尊は、
さらに尾張にもどり、
尾張氏の娘宮簀媛と結婚し、
長く留まり、
幾月か経ちました。
そこで、
近江の五十葺山に荒神がいると聞き、
さっそく、
剣を腰から外して宮簀媛の家に置き、
素手で出かけて行きました。
イヤ〜、
このお話有名ですから
何度も触れる機会がありました。
その度に思うのですが…
日本武尊さんよ、
何で草薙剣置いていくかなぁ。
武器持たず素手で出かけるとは…
油断しすぎだろ
息吹山に到着すると、
山の神が、大蛇に化けて道を遮っていました。
しかし、日本武尊は、
主神が蛇に化けたとは思いもせず、
「この大蛇は、きっと荒神の使いであろう。
もし主神を殺すことができたなら、
その使者なぞ問題にするに足らないだろう」
といいました。
そこで、
蛇を跨いでなおも行きました。
この辺も納得いきませんね。
信濃の山の神は、
白鹿に化けていたし。
そう考えると蛇も怪しいと気づきそうなもの。
日本武尊の人生の後半は、
判断力が落ちていたみたいですね。
その時、山の神は、雲をおこし、
あられを降らせました。
峯には霧が立ち込め、
谷は暗く、行く路もまた無く、
それで、進退が定まらずうろうろとし、
その場所が分からず、
いろいろな所を歩きまわりました。
そこで、霧を凌いで強行し、
かろうじて出ることができました。
それでもなお、
意識が確かではなく酔ったようでした。
そこで、山の麓の側に居て、
その水を飲んだところ、
酔いが覚めました。
故に、その泉を居醒泉と呼びます。
日本武尊は、
これでも発病しました。
そうして、どうにかして起き、
尾張に還りましたが。
宮簀媛の家には入らず、
すぐ伊勢に移り、尾津に到着しました。
以前、日本武尊が東に向かった年に、
尾津浜に留まり食事をしました。
その時、一剣を腰から外して、
松の木の根もとに置きましたが、
すっかり忘れて去りました。
武器を腰から外して忘れるとは…
日本武尊。
実は、昔からウッカリ者だった?
今ここに戻ってみると、
剣がそのまま残っていました。
そこで歌って、
尾張に 真っ直ぐに向かって
一つ松よ
一つ松が 人であったなら
衣も着せ 太刀も佩かせるものを
といいました。
能褒野に到着しても、
痛みはひどいままでした。
そこで、捕虜とした蝦夷等を、
神宮に献上しました。
そして、
吉備武彦を遣わして、
天皇に奏言し、
「私は、天朝から命を受けて、
遠く東夷を征しました。
すなわち、
神恩を受け、皇威を頼りに、
叛逆者は罪に伏し、
荒神も自然と調伏しました。
これをもって、
鎧を脱ぎ、矛を収め、
戦が終わり安心して、
還ってきました。
願わくば…
いつの日か、いつの時か、
天朝に報告したいと…
しかしながら、
天命が差し迫っています。
それは、
四頭立ての馬車が隙に停まるのが
難しいように…
これをもって、
独り曠野に臥して、
誰とも語ることは無く。
身が死ぬことは惜しくはないのですが…
ただ、
お会いできないことがもの寂しい…」
といいました。
とうとう、能褒野で崩じました。
時に年は三十歳でした。
遺言は、
読んでいて悲しくなりますね。
若くして亡くなるとは、
残念なことです。
さて、今日はここまでです。
明日に続きます。
読んで頂きありがとうございました。