リートリンの覚書

日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 一・雄略天皇の出自 ・穴穂天皇の行幸 ・中蒂姫皇女の出自 ・穴穂天皇、暗殺



日本書紀 巻第十四

大泊瀬幼武天皇
(おおはつせわかたけのすめらみこと)

雄略天皇
(ゆうりゃくてんのう)

・雄略天皇の出自
・穴穂天皇の行幸
・中蒂姫皇女の出自
・穴穂天皇、暗殺



大泊瀬幼武天皇は、
雄朝津間稚子宿禰天皇
(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)
 の第五子です。

天皇が産まれて、
殿に神々しい光が満ちました。

長じて人よりまさり伉健(こうけん)でした。

三年、八月、
穴穂天皇(あなほのすめらみこと)は、
将に沐浴しようと思い、
山の宮に幸しました。

遂に楼(たかどの)に登りまして、
遊目(ゆうもく)しました。

因って、
酒を命じて肆宴(とよのあかり)をしました。

それ乃ち、
情(こころ)とけて楽しみが極まり、
間をもって言談(げんだん)しおうと顧みて、

皇后に話して、

去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)
の娘で
中蒂姫皇女(なかしひめのひめみこ)と
いいます。

更の名は長田大娘皇女といいます。

大鷦鷯天皇
(おほさざきのすめらみこと)の子、
大草香皇子(おおくさかのみこ)が娶って、
長田皇女は眉輪王(まよわのおおきみ)
生みました。

後に穴穂天皇が、
根臣の讒言を用い、
大草香皇子を殺して、
中蒂姫皇女を立てて皇后としました。
語は穴穂天皇の紀にあります。

「吾妹(わきも)、

妻を称して妹とするのは、古い俗でしょうか。

汝は馴れ親しんでいるが、
朕は眉輪王を畏れている」
といいました。

眉輪王は、
幼年で楼(たかどの)の下で
遊び戯れていて、
悉くその話を聞いていました。

既に穴穂天皇は、
皇后の膝を枕にして、
昼酔って眠り臥していました。

ここにおいて、
眉輪王はその熟睡を伺って、
刺し殺しました。



・伉健(こうけん)
強くすこやかな者
・遊目(ゆうもく)
あちこち眺めて目を楽しませること
・言談(げんだん)
はなしをすること。また、はなし



(感想)

雄略天皇は、
允恭天皇(いんぎょうてんのう)の第五子です。

天皇が産まれて、
殿に神々しい光が満ちました。

長じて人よりまさり
強く健やかな方でした。

安康天皇3年8月、
穴穂天皇は、
沐浴しようと思い、
山の宮に行幸しました。

遂に楼(たかどの)に登りまして、
あちこち眺めて目を楽しませました。

よって、
酒を命じて肆宴(とよのあかり)をしました。

そこで、
こころがとけて楽しみが極まり、
その合間に話をしようと、

振り返り皇后に話して、

皇后は履中天皇の娘で
中蒂姫皇女といいます。

またの名は長田大娘皇女といいます。

仁徳天皇の子、
大草香皇子が娶って、
長田皇女は眉輪王を生みました。

後に穴穂天皇が、
根臣の讒言を用い、
大草香皇子を殺して
中蒂姫皇女を立てて皇后としました。

語は穴穂天皇の紀にあります。

アンダーラインの原文は、
穴穗天皇、用根臣讒、殺大草香皇子

穴穂天皇は、根臣の讒言を用いて、
大草香皇子を殺した。

用いるとは、
あることをするための、
道具・手段・材料として使う、
という意味があります。

この字を使っているということは、
穴穂天皇は、根臣の讒言を利用して
大草香皇子を殺したとも取れますね。

真実はいかに。

「吾妹(わきも)、

妻を称して妹とするのは、古い俗でしょうか。

汝は馴れ親しんでいるが、
朕は眉輪王を畏れている」
といいました。

眉輪王は、
幼年で楼(たかどの)の下で遊び戯れていて、
その話をすべて聞いていました。

既に穴穂天皇は、
皇后の膝を枕にして、

昼から酒に酔って眠り臥していました。

ここにおいて、
眉輪王はその熟睡を伺って、
刺し殺しました。

眉輪王は6か7歳。
幼い子が義父を殺害する?
一人じゃ無理だよね。

気になりますね。

さて本日より、
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇の条始まります。

大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと) とも
有徳天皇(おむおむしくましますすめらみこと)とも呼ばれてた、雄略天皇。

雄略天皇はどのような天皇だったのか?
読んでいきましょう。

明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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