日本書紀 巻第二十六
天豊財重日足姫天皇 十七
・賀取文ら、帰国する
・道顯の日本世記
・伊吉連博徳の書
秋七月十六日、
高麗の使人の
乙相賀取文(おつそうがすもん)等が、
帰国しました。
また、
覩貨羅人(とからのひと)の
乾豆波斯達阿(げんづはしだちあ)は、
本土(もとのくに)に帰りたいと思い、
送使に請い求めて、
「願わくは、
後に大国の朝したいと思っています。
その表(しるし)として、
妻を留めます」
といいました。
乃ち数十人とともに、
西海之路(にしのうみつじ)に入りました。
(高麗の沙門(ほうし)の道顯(どうけん)
の日本世記はいう、
七月に云々。
「春秋智(しゅんしゅうち)は、
大将軍の蘇定方(そていほう)の
手を借りて、
百濟を挟撃ちして滅ぼしました。
或るいは、
百濟が自ずと亡んでしまったと。
君の大夫人(はしかし)の
妖女(たわめのこ)が
無道で国柄をほしいままにし、
賢良を誅殺したので、
故に、
この禍を召いたともいいます。
慎まなくてはならない、
慎まなくてはならないことです。
その注はいう、
「新羅の春秋智は、
願ったが、
内臣の蓋金を
得ることはできませんでした。
故に、また、
唐に使いをして、
俗の衣冠を捨て、
天子に媚び請いて、
禍を隣国に投じて、
意と行いを構えたのである」と。
伊吉連博徳
(いきのむらじはかとこ)の書は云う、
「庚申年八月に、
百濟はすでに平された後、
九月十二日、
客を本国に放しました。
十九日、
西京を出発しました。
十月十六日、
還り東京に到り、
始めて阿利麻(ありま)等五人と
あい見ることができました。
十一月一日、
将軍の蘇定方(そていほう)等のために、
捉えられた百濟王とその以下、
太子の隆(りゅう)等、
諸々の王子十三人、
大佐平(だいさへい)の
沙宅千福(さたくせんふく)、
国弁成(こくべんじょう)以下三十七人、
あわせて五十ほどの人が、
朝堂(みかど)に進め奉り、
急ぎひきつれて、
天子の元に急ぎ向かいました。
天子は、
恩勅をかけ目の前で放ちました。
十九日、
労いを賜りました。
二十四日、
東京より出発しました)
・覩貨羅人(とからのひと)
トカラ人
・本土(もとのくに)
故郷の国
・沙門(ほうし)
法師
・春秋智(しゅんしゅうち)
新羅の武烈の諱
・阿利麻(ありま)
東漢直阿利麻
(感想)
(斉明天皇6年)
秋7月16日、
高麗の使者、乙相賀取文らが帰国しました。
また、
覩貨羅人の乾豆波斯達阿は、
故郷の国に帰りたいと思い、
送使を請い求めて、
「願わくは、
後にまた、
大和朝廷に来朝したいと思っています。
そのしるしとして、
妻を留めます」
といいました。
そして、
数十人とともに、
西海の路に入りました。
(高麗の法師の道顯の日本世記はいう、
7月に云々。
「新羅の王、春秋智は、
唐の大将軍の蘇定方の手を借りて、
百済を挟撃ちして滅ぼしました。
或るいは、
百済は自ずと亡んでしまったと。
君主の大夫人の妖女が
人としての道に背き、
国権を欲しいままにし、
賢良の臣を誅殺したので、
故に、
この禍を召いたともいいます。
慎まなくてはならない、
慎まなくてはならないことです。
その道顯の自注はいう、
「新羅の春秋智は、
百済征討の援軍を願ったが、
高句麗の内臣の蓋金の同意を
得ることができませんでした。
故に、また、唐に使いをして、
新羅の風俗の衣冠を捨て唐服を着て、
天子に媚び請いて、
禍を隣国に投じて、
百済討滅の意と行動を構えたのである」と。
伊吉連博徳の書は云う、
前回の伊吉連博徳の書
以下は、その続きです。
「庚申年8月、
百済がすでに平定された後、
9月12日、
客を本国に出発させました。
19日、
長安を出発しました。
10月16日、
もどり洛陽に到着し、
始めて阿利麻ら5人と
会うことができました。
11月1日、
将軍の蘇定方らに、
捕らえられた、
百済王とその以下、
太子の隆ら、諸々の王子13人、
大佐平の沙宅千福、
国弁成以下37人、
あわせて50ほどの人が、
朝堂(みかど)に進め奉り、
急ぎひきつれて
天子の元に急ぎ向かいました。
天子は、
恩勅をかけ、
目の前で釈放しました。
19日、
労いを賜りました。
24日、
洛陽より出発しました)
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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