リートリンの覚書

日本書紀 巻第七 大足彦忍代別天皇 十三 ・酒折宮にて ・吾嬬国の地名の由来 ・山の神と一箇蒜 ・道案内をする白狗


日本書紀 巻第七 
大足彦忍代別天皇 十三


・酒折宮にて
・吾嬬国の地名の由来
・山の神と一箇蒜
・道案内をする白狗



蝦夷をすでに平定して、
日高見国(ひだかみのくに)から引き返し、
西南、常陸(ひたち)を経て、
甲斐国(かい)に至り、
酒折宮(さかおりのみや)いました。

時に、
擧燭(ひともし)て、食を進めました。

この夜、歌を以て、従者に問い、

新治(にいはり)に 
筑波(つくは)を過ぎて
幾日たったでろう

といいました。

諸々の従者は答えることができませんでした。

時に、秉燭者(ひともしのもの)がいました。
王の歌の末に続けて歌い、

日々 並べて 夜には九夜
日には十日を

といいました。

即、秉燭者の聡さを誉めて、
あつく賜物をしました。

この宮に居て、靫部(ゆきべ)
大伴連の遠祖武日に与えました。

日本武尊は、
「蝦夷の凶悪な首領は、皆その罪に伏した。

ただ信濃国(しなののくに)
越国(こしのくに)だけが、
王化に従っていない」
といいました。

則、甲斐から北の武蔵(むさし)
上野(かみつけ)を巡り、
西の碓日坂(うすひのさか)まで至りました。

時に、日本武尊は、
いつも弟橘媛を顧みる情がありました。

故に、
碓日嶺(うすひのみね)に登り、

東南を望んで三度、嘆いて、
「吾、嬬者(つまは)や」
といいました。

故に、
山の東の諸国を吾嬬国(あづまのくに)
呼ぶようになったのです。

そこで、道を分けて、
吉備武彦(きびのたけひこ)を越国に派遣して、
その地形と険易、
及び人民が従順かどうかを視察させました。

日本武尊は、信濃に進み入りました。

この国は、
山は高く谷は幽(ふかくて)く、
翠嶺(すいれい)(よろず)重なり、
人は杖をたよりに、
登るのに難渋しました。

岩は嶮(けわ)しく石坂は曲がりくねり、
長峰は数千。

馬も手綱(たづな)をとどめて
進みませんでした。

然るに、
それなのに日本武尊は、
煙をひらき、霧を凌いで、
遥かに大山をこえました。

山の頂にたどりついて、
空腹を覚えて、山中にて食事をしました。

山の神が王を苦しめようと、
白鹿と化けて王の前に立ちました。

王はこれをあやしんで、
一箇蒜(ひとつひる)を以て、

白鹿を弾き、
そして、眼に当ててこれを殺しました。

ここで、王は忽然に、道を失い、
出る所が分からなくなりました。

時に、白狗(しろいぬ)が自然と現れ、
王を導く状況になり、
犬に随って行くと、
美濃に出ることができました。

吉備武彦が越から出てきて、遇いました。

是より先、
信濃坂(しなのさか)を越える者は、
多く神気を得て、瘼臥(おえふす)ました。

白鹿を殺してから後、
この山を越える者は、

蒜を噛み砕き、
人及び牛馬に塗ると、
自然と神気にあたらなくなりました。



・日高見国(ひだかみ)
北上川流域

常陸(ひたち)
茨城県

甲斐国(かい)
山梨県

・酒折宮(さかおりのみや)
甲府市酒折

秉燭(ひょうそく)
油皿の一種。中央にほぞのようなものがあり、それに灯心を立てて点火するもの。
手に灯火を持つこと。

・信濃国(しなののくに)
長野県

越国(こしのくに)
北陸

・武蔵(むさし)
東京・埼玉

上野(かみつけ)
群馬県

・碓日坂(うすひ)
群馬・長野県の境の碓氷峠

・翠嶺(すいれい)
みどりの山の峰

・一箇蒜(ひとつひる)
鱗茎が一個のニンニクの類

・信濃坂(しなのさか)
長野県下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市の境の神坂峠

・瘼臥(おえふす)
気力を失って倒れ伏す。魔力のため、力を失って倒れ伏す



感想

日本武尊は、
蝦夷をすでに平定して、

日高見国から引き返し、
西南、常陸を経て、甲斐国に到着し、
酒折宮いました。

時に、火をともして、食事をしました。

この夜、歌を詠い、従者に問いかけ、

新治に 筑波を過ぎて
何日たったでろう

といいました。

諸々の従者は答えることができませんでした。

その時、秉燭者がいました。
王の歌の末に続けて歌い、

日々 並べて 夜には九夜
日には十日を

といいました。

そこで、
秉燭者の聡さを誉めて、
あつく賜物をしました。

この宮に居て、
靫部を大伴連の遠祖武日に与えました。

日本武尊は、
「蝦夷の凶悪な首領は、
皆その罪に伏した。

ただ信濃国、越国だけが、
王化に従っていない」
といいました。

そこで、
甲斐から北の、武蔵、上野を巡り、
西の碓日坂まで行きました。

その時、日本武尊は、
いつも弟橘媛を顧みる情がありました。

こういうわけで、
碓日嶺に登り、
東南を望んで三度、嘆いて、
「吾、つまはや」
といいました。

こういうわけで、
碓日山の東の諸国を
吾嬬国と呼ぶようになったのです。

そこで、二手に分かれて、
吉備武彦を越国に派遣し、

その地形と険易、
及び人民が従順かどうかを視察させました。

日本武尊は、信濃に進み入りました。

この国は、
山は高く、谷は深く、
みどりの山の峰が数多く重なり、
人は杖を頼りに、
登るのに難渋しました。

岩は険しく石坂は曲がりくねり、
長い峰は数千連なり、
馬は手綱を止めて進みませんでした。

それなのに日本武尊は、
煙をひらき、霧を凌いで、
遥かに大山を越えました。

山の頂にたどりついて、
空腹を覚え、
山中にて食事をしました。

山の神が王を苦しめようと、
白鹿と化けて王の前に立ちました。

王はこれをあやしんで、
一箇蒜をもちい、

白鹿を弾き、
そして、眼に当ててこれを殺しました。

ここで、
王は忽然に、道を失い、
出る所が分からなくなりました。

その時、
白狗が自然と現れ、
王を導く状況になり、
犬に随って行くと、
美濃に出ることができました。

吉備武彦が越から出てきて、
合流しました。

これより以前、
信濃坂を越える者は、

多くの神気に当り、
気力を失って倒れ伏しました。

白鹿を殺してから後、
この山を越える者は、

蒜を噛み砕き、
人及び牛馬に塗ると、
自然と神気にあたらなくなりました。

今日はここまでです。
明日に続きます。

読んで頂きありがとうございました。


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