日本書紀 巻第二十五
天萬豊日天皇 五十
・吐火羅国と舍衞の人らが流れ着く
・西海使、吉士長丹が帰国する
・天皇崩御
夏四月、
吐火羅国(とからのくに)から
男二人、女二人、
舍衞(しゃえ)の女一人が、
風を被り、日向に流れ来ました。
秋七月二十四日、
西海の使、吉士長丹(きしのながに)等は、
百濟、新羅の送りの使いと共に、
筑紫に泊まりました。
この月、
西海使等が唐国の天子に対し奉り、
多くの文書と寶物を得たことを褒めて、
小山上(しょうせんじょう)の
大使の吉士長丹(きしのながに)に
少花下(しょうせんげ)を授けました。
封を二百戸賜りました。
姓を賜り、
吳氏としました。
小乙上(しょうおつじょう)の
副使の吉士駒(きしのこま)に
小山上を授けました。
冬十月一日、
皇太子は、
天皇が病疾(びょうしつ)となったと
聞いて、
乃ち、
皇祖母尊(すめみおやのみこと)、
間人皇后を奉じ、
あわせて皇弟、公卿等を率いて
難波宮に赴きました。
十日、
天皇は正寝で崩じました。
なお、
南庭で殯(もがりや)を起(た)てました。
小山上(しょうせんじょう)の
百舌鳥土師連土徳
(もずのはじのむらじつちとこ)に、
殯宮の事をつかさどらせました。
十二月八日、
大坂磯長陵
(おおさかのしながのみさざき)に
葬りました。
この日、
皇太子は皇祖母尊を奉じて、
倭河辺行宮(やまとのかわらのかりみや)に
遷り居ました。
老者(おいひと)は語って、
「鼠が倭の都に向かったのは、
遷都の兆であった」
といいました。
この歲、
高麗、百濟、新羅が、
並びに遣使(つかわしめ)して
弔を奉りました。
・吐火羅国(とからのくに)
メコン川下流のドヴァラヴァティ
・舍衞(しゃえ)
釈迦 (しゃか) 在世のころ、中インドにあった国。舎衛城の南に祇園精舎 (ぎおんしょうじゃ) があった
・老者(おいひと)
老人
(感想)
(白雉5年)
夏4月、
吐火羅国から男二人、女二人、
舍衞の女一人が、
風に吹かれて、
日向に流れ着きました。
秋7月24日、
西海の使の吉士長丹らは、
百済、新羅の送使いと共に、
筑紫に入港しました。
この月、
西海使らが唐国の天子に対面し奉り、
多くの文書と宝物を得たことを褒めて、
小山上の大使の吉士長丹に
少花下を授けました。
食封を二百戸授けました。
姓を授け、
呉氏としました。
小乙上の副使の吉士駒に
小山上を授けました。
冬10月1日、
皇太子は、天皇が病気となったと聞いて、
すぐさま、
皇祖母尊、間人皇后を奉じ、
あわせて皇弟、公卿らを率いて
難波宮に赴きました。
10日、
天皇は正殿で崩じました。
なお、南庭で殯宮をたてました。
小山上の百舌鳥土師連土徳に、
殯宮の事をつかさどらせました。
12月8日、
大坂磯長陵に葬りました。
この日、
皇太子は皇祖母尊を奉じて、
倭河辺行宮に遷り居ました。
老人は語って、
「鼠が倭の都に向かったのは、
遷都の兆であった」
といいました。
この歲、
高麗、百済、新羅が、
並びに使者を派遣して弔を奉りました。
本日で孝徳天皇の条終了です。
最後まで読んでみますと、
素晴らしい改革を次々と興し、
いい政治を行った方だと思いました。
しかし、
急激な改革のせいでしょうか?
家族や臣下に見放され
寂しい晩年を迎えてしまいました。
可哀想ですね。
さて、
明日からは斉明天皇の条を
読んでいきたいと思います。
また、
お付き合いいただけたら幸いです。
それでは、また。
最後まで読んで
いただきありがとうございました。
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