リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 三十五 ・薬猟をする ・百済国から帰化した者たち



日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 三十五

・薬猟をする
・百済国から帰化した者たち



夏五月五日、
羽田(はた)に集まり、
薬猟をしました。

ひきつづき朝に参内しました。

その装束は、
菟田の猟と同じでした。

この歳、
百済国から化来
(おおづからにまうくる)者がありました。

その面と身は、
皆斑白(まだら)でした。

もしや白癩(しらはた)のある者か、
その異なるのを気味が悪いと、
海の中の島に捨てようと思いました。

然るに、
その人が、
「もし臣の斑らな肌を
気味が悪いというのなら、

白斑な牛や馬は
国中で畜(か)ってはなりません。

また、
臣には小才(こさい)があります。
よく山岳の形を構えることができます。

臣を留めて用いたなら、
国に利があるでしょう。

何故、空しく
海島に棄てるのですか」
といいました。

ここにおいて、
その言葉を聴いて棄てませんでした。

なお、
須彌山(しゅみせん)の形
及び呉橋(くれはし)を
南庭に構えるように命令しました。

時の人はその人を名付けて、
路子工(ミチコノタクミ)いいました。

またの名は、
芝耆摩呂(しきまろ)です。

また百済人・味摩之(みまし)が
帰化しました。

「呉に学んで、伎楽の舞を得ました。」
といいました。

すなわち、
桜井に安置し、
少年を集め伎楽の舞を習わせました。

ここにおいて、
真野首弟子
(まののおびとでし)、
新漢済文
(いまきのあやひとさいもん)の二人が、
その舞を習い伝えました。

これはいま、
大市首(おおちのおびと)、
辟田首(さきたのおびと)等の祖です。



化来(おおづからにまうくる)
自ら帰化して来日する
・羽田(はた)
奈良県高取町
・白癩(しらはた)
=びゃくらい・皮膚が白くなるハンセン病をいった語。しらはだ
・小才(こさい)
ちょっとしたことをやってのける能力。わずかの才知
・呉橋(くれはし)
呉風の橋
須彌山(しゅみせん)
仏教宇宙論における世界中心的な巨山
伎楽
呉学



(感想)

推古天皇20年夏5月5日、

羽田に集まり、
薬猟をしました。

ひきつづき朝に参内しました。

その装束は、
前年の菟田の猟と同じでした。

この歳、
百済国から
自ら帰化して来日する者がありました。

その顔と身は、
みな、まだらでした。

もしや白癩のある者なのか、
その異なる容姿を気味が悪いので、
海の中の島に捨てようと思いました。

しかし、その人が、
「もし私のまだらな肌が
気味が悪いというのなら、

白斑な牛や馬は
国中で畜(か)ってはなりません。

また、
私にはわずかながら才知があります。

上手く山岳の形を構築することがでいます。

私を留めて用いたなら、
国に利があるでしょう。

何故、
空しく海島に棄てるというのですか」
といいました。

そこで、
その言葉を聴いて棄てませんでした。

なお、須彌山の形、
および呉風の橋を南庭に構えるように
命令しました。

時の人は
その人を名付けて、
路子工いいました。

またの名は、
芝耆摩呂です。

また百済人・味摩之が帰化しました。

「呉に学んで、
伎楽の舞を得ました。」
といいました。

そこで、
桜井に安置し、
少年を集め伎楽の舞を習わせました。

ここにおいて、
真野首弟子、
新漢済文の二人が、
その舞を習い伝えました。

これは今の、
大市首、辟田首らの祖先です。

おそらく、
芝耆摩呂は本国で

容姿で苦労し、
日本なら見た目で判断しないのではないか?
と思い、

日本に帰化したのではないでしょうか。

しかし、

人は、
見た目だけで判断しがちですよね。

かく言う私もですが…

人と異なる容姿。

病気なのではないか?
それがうつる病気ではないか?

ついつい、そう考えてしまいます。

一度は、
離島に追放しようとしましたが、

しかし、
本人の意見をしっかりと聞き、

留まらせ、
仕事まで任すとは、
勇気ある判断ですね。

芝耆摩呂も認められてよかったです。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございます。


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