天豊津媛命
(あまとよつひめ)
懿徳(いとく)天皇の皇后
息石耳命(おきそみみのみこと)の娘です
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“二月十一日、天豊津媛命(あまとよつひめ)を皇后としました。”
懿徳(いとく)天皇の皇后です。
懿徳天皇との間に
観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしね)が
生まれています。
また一書では
母弟・武石彦奇友背命(たけしひこあやしともせ)
を生んだとあります。
泉媛
日本書紀 巻第四 の一書では
懿徳(いとく)天皇の后と伝えています。
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“別の一書では、磯城の県主・葉江(はえ)の男弟猪手(いて)の娘・泉媛”
日本書紀 巻第四 の一書では
懿徳(いとく)天皇の后と伝えています。
名前のみの登場で
詳しい活躍は記述されていません。
飯日媛
(いひひ)
日本書紀 巻第四 の一書では
懿徳(いとく)天皇の后と伝えています。
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“また別の一書では、磯城の県主・太真稚彦(ふとまわか)の娘・飯日媛(いいひひめ)と伝えています。”
日本書紀 巻第四 の一書では
懿徳(いとく)天皇の后と伝えています。
名前のみの登場で
詳しい活躍は記述されていません。
武石彦奇友背命
(たけしひこあやしともせ)
日本書紀 巻第四 の一書では
懿徳(いとく)天皇と
天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)
の第二子と伝えています。
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“また別の一書では、天皇の(同)母弟・武石彦奇友背命(たけしひこあやしともせ)を生んだと伝えています”
一書では、
大日本彦耜友天皇と天豊津媛命の
第二子であると伝えています。
名前のみの登場で
詳しい活躍は記述されていません。
世襲足媛
(よそたらしひめ)
孝昭(こうしょう)天皇の皇后。
尾張連(おわりむらじ)の
遠祖・瀛津世襲(おきつよそ)の妹です。
・別名
余曽多本毘売命
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“二十九年、春・正月三日、世襲足媛(よそたらしひめ)を皇后としました。”
孝昭天皇の皇后です。
天足彦国押人命
(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と
日本足彦国押人天皇
(やまとあまたらしひこくにおしひと)
を生みました。
渟名城津媛
(ぬなきつひめ)
日本書紀 巻第四 の一書では
孝昭(こうしょう)天皇の后と伝えています。
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“一書では、磯城の県主葉江の娘・渟名城津媛(ぬなきつひめ)。”
日本書紀 巻第四 の一書では、
孝昭天皇の后と伝えています。
磯城の県主葉江の娘です。
詳しい活躍は記述されていません。
大井媛
日本書紀 巻第四 の一書では
孝昭(こうしょう)天皇の后と伝えています。
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“一書では、倭国の豊秋狭太媛(とよあきさだひめ)の娘・大井媛と伝えています。”
日本書紀 巻第四 の一書では
孝昭天皇の后と伝えています。
倭国の豊秋狭太媛(とよあきさだひめ)の娘です。
詳しい活躍は記述されていません。
感想
今日ご紹介した方々は、
日本書紀では、
詳しい活躍が記述されていません。
正直、どんな方々だったのか…😥
ふと思ったのは、
記紀って天皇家の
家伝みたいなものかなぁ
、と思いました。
母方の祖父は
自伝を自主出版しました。
自分にも贈ってくれて、
今も大切にしています。
その自伝では、
祖父のルーツも書いてありました。
祖父の実家は、
代々毘沙門天を祀っている家系で
家系図をつけていたようです。
初代がどの様にして、
熊野から陸中にやって来て
毘沙門天を祀ったのか詳細が伝わっています。
また、本家筋が途絶え
分家筋に代わった事なども伝わっています。
しかし、
そのほかの御先祖たちは名前のみで
どの様な生き方をしていたかは、
ほぼ伝わっていません。
母方なんて、三代前位しか分からない。
紙も文字もある時代でこれですから。
文字がなかったと言われる時代。
家伝は、口伝で伝わっていたに違いない。
そうなると、
よほどの活躍がないと
子孫に伝わらなかったのではないでしょうか?
名前のみしか書かれていないのも
理解できます。
御先祖を祀り大切にしてきた一族、
天皇家。
そんな方々が御先祖をねつ造するかなぁ☹️
そんな失礼なことしないと思うけど。
まぁ、
口伝だから
多少の間違いはあるかもしれませんが…
さて、今日はこれにて。
明日も日本書紀に登場した人物を
調べていきたいと思います。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。