日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 三十七
・百済に麦種を与える
・百済、六郡の地を獲得する
・百済、援軍を請う
十二年春三月、
麦種(むぎたね)を千斛(せんさか)、
百済王に賜わりました。
この歳、
百済の聖明王は、
みずから衆(たみ)及び二国の兵を率いて、
(二国とは、新羅・任那のことをいいます)
高麗を伐りにいき、
漢城の地を獲ました。
また、
進軍して平壌(へいじゃう)を討ち、
すべて六郡の地を遂に復しました。
十三年夏四月、
箭田珠勝大兄皇子
(やたのたまかつのおおえのみこ)
が薨じました。
五月八日、
百済、加羅、安羅は、
中部德率木刕今敦
(ちうほうとくそちもくらこむとん)、
河内部阿斯比多(かふちべのあしひた)等を
遣わし、
奏して、
「高麗と新羅とが、
和を通わせて、
勢をあわせ、
臣の国と任那を滅ぼそうと
謀(はかりごと)をしています。
故に、
謹んで救いの兵を請求し、
先に不意を攻めようとおもいます。
軍の多少は、
天皇の勅のままにいたします」
といいました。
詔して、
「今、
百済王、安羅王、加羅王と日本府の臣等が、
俱(ともに)、
遣使して奏した状は、
たしかに聞いた。
また、宜しく、
共に任那と心を合わせ、
力をひとつにせよ。
そのようにすれば、
必ず、
上天(あめ)の擁護の福を蒙(こうむ)り、
また、
可畏(かしこ)き天皇の霊に頼れるだろう」
といいました。
・千斛(せんさか)
=せんごく・一石の千倍。約180キロリットル。
(感想)
欽明天皇12年春3月、
麦種(むぎたね)を千斛、
百済王に与えました。
この歳、
百済の聖明王は、
みずから民衆と二国の兵を率いて、
(二国とは、新羅・任那のことをいいます)
高麗を征伐し、
漢城の地を獲得しました。
また、
進軍して平壌を討ち、
すべて六郡の地を獲得し、
遂に回復させました。
欽明天皇13年夏4月、
箭田珠勝大兄皇子が薨じました。
5月8日、
百済、加羅、安羅は、
中部德率木刕今敦、
河内部阿斯比多らを遣わし、
河内部阿斯比多らを遣わし、
奏して、
「高麗と新羅とが、
和を通わせて、
勢力をあわせ、
臣の国と任那を滅ぼそうと
謀(はかりごと)をしています。
故に、
謹んで救援の兵を請求し、
先に不意を攻めたいと思います。
軍兵の数の多少は、
天皇の勅のままにいたします」
といいました。
詔して、
「今、
百済王、安羅王、
加羅王と日本府の臣らが、
ともに、
遣使して報告した状況は、
たしかに聞いた。
また、宜しく、
共に任那と心を合わせ、
力をひとつにせよ。
そのようにすれば、
必ず上天の擁護の福をこうむり、
また、
可畏(かしこ)き天皇の霊威に頼れるだろう」
といいました。
明日に続きます。
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