日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 三十六
・百済の使者、帰国する
・百済に詔する
・百済に在る王人、帰国する
十年夏六月七日、
将德久貴(しょうとくこんくい)、
固德馬次文(ことくめしもん)等が、
帰国を請いました。
そこで詔して、
「移那斯(えなし)、麻都(まつ)が、
陰で私的に高麗に遣使したということは、
朕はまさに虚実(いつわりまこと)を問う、
遣わそう。
乞うところの軍は、
依願のとおりに停する」
といいました。
十一年春二月十日、
遣使して百済に詔し、
(百済本記は云う、
三月十二日辛酉(かのととり)に、
日本の使人、
阿比多(あひた)は、
三舟を率い、都下に至りました)
「朕は、
施德久貴(せとくこんくい)、
固德馬進文(ことくめしんもん)等が
たてまつった表の意が、
一つ一つ、
教示するのは、
まるで掌中を見るが如く。
情(こころ)を具にして欲しいと思う。
冀うは、
抱するところを尽くし思っている。
大市頭(だいしづ)が帰ってのち、
常の如く、
異なることがなく、
今、審(つまび)らかに報じようと思う。
故の遣使である。
また朕が聞くところによれば、
奈率馬武(なそちめむ)は、
王の股肱(ここう)の臣である。
上に納(い)れ、
下に伝えて、
甚だ、
王の心に協(かな)い、
王を佐(たす)けている。
もし国家が無事で、
長く官家(みやけ)となり、
永く天皇を奉じようと思うのなら、
よろしく、
馬武を大使として、
朝に遣わすがよい」
といいました。
重ねてい詔して、
「朕は、
北敵が強暴だと聞く。
故に矢・三十具を賜う。一処を防げ」
といいました。
夏四月一日、
百済に在る日本の王人が、
まさに帰国しようとしました。
(百済本記は云う、
四月一日庚辰(かのえたつ)に、
日本の阿比多(あひた)が還ったと)
百済王聖明は、
王人に語って、
「任那の事は、
勅を奉じて堅く守ります。
移那斯(えなし)、
麻都(まつ)の事は、
問おうが問うまいが、
ただ勅に従うだけです」
といいました。
よって、
高麗の奴・六口を献じ、
別に王人に奴・一口を贈りました。
(みな爾林(にりむ)を攻めて、捕らえた奴です。)
十六日、
百済は
中部奈率皮久斤
(ちうほうなそちひこんこん)、
下部施德灼干那(かほうせとくやくかんな)
等を遣わし、
狛(こま)の虜・十口を献じました。
・股肱(ここう)
自分の手足のように信頼している忠義な家来。腹心
(感想)
欽明天皇10年夏6月7日、
将德久貴、固德馬次文らが、
帰国を請いました。
そこで詔して、
「移那斯、麻都らが、
陰で私的に高麗に使者を派遣したことの、
朕は、
偽りか真実かを問う使者を派遣する。
乞うところの軍は、
依願のとおりに停止する」
といいました。
欽明天皇11年春2月10日、
使者を派遣して百済に詔し、
(百済本記は云う、3月12日辛酉に、日本の使者・阿比多は、三隻の舟を率い、都下に到着しました)
「朕は、
施德久貴、固德馬進文らが
奉った表の意が、
一つ一つ教示することは、
まるで掌中を見るがようだ。
こころを具にして欲しいと思う。
願わくは、
抱懐するところを尽くそうと思っている。
大市頭が帰ってのち、
常のように、
異なることがなく、
今、
つまびらかに報じようと思う。
故の遣使である。
また朕が聞くところによれば、
奈率馬武は、
王の信頼している忠義な家来である。
上に納(い)れ、
下に伝えて、
甚だ、
王の心に協力し、
王を助けている。
もし国家が無事で、
長く官家(みやけ)となり、
永く天皇を奉じようと思うのなら、
よろしく、
馬武を大使として、
朝廷に派遣するがよい」
といいました。
重ねて詔して、
「朕は、北敵が強暴だと聞く。
故に矢三十具を与える。一処を防げ」
といいました。
夏4月1日、
百済に在る日本の王人が、
まさに帰国しようとしました。
(百済本記は云う、
4月1日庚辰に、日本の阿比多が帰国したと)
百済王聖明は、
王人に語って、
「任那の事は、
勅を奉じて堅く守ります。
延那斯、麻都の事は、
問おうが問うまいが、
ただ勅に従うだけです」
といいました。
よって、
高麗の奴隷を六口を献上し、
別に王人に奴隷、一口を贈りました。
(みな爾林を攻めて、捕らえた奴隷です。)
16日、
百済は
中部奈率皮久斤、
下部施德灼干那らを派遣し、
中部奈率皮久斤、
下部施德灼干那らを派遣し、
狛(こま)の捕虜、
十口を献上しました。
百済関係のお話は、
正直…クドイ。
明日に続きます。
読んで頂き
ありがとうございました。
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