このところ、言葉の使い方について考えさせられることが多いです。たとえば、ネット上にあふれる言葉、あるいは感染症の流行にともなって行政から伝えられる言葉の中には、人びとを息苦しいところに追いつめたり、無用に惑わせたりするものがしばしば見られます。思慮深さを欠いたり、自らの認識のありようへの省察を欠いた言葉のあやうさを感じることが多くなりました。
言葉について考えるときに思いうかぶことがいくつかあります。
「百人一首」に採録された和歌を読んでいると、ひとつひとつの言葉の使い方に心血を注ぐ作者たちの姿がうかんできます。和歌という文学は、形式上の制約があるからこそ細やかで濃密な表現、読者の想像力を呼び起こす表現ができたと言えるかもしれません。
漢文の授業で最初に学んだのは「国破れて山河在(あ)り」で始まる「春望」(杜甫)という詩でした。わずか漢字五文字から成る一行一行にこめられた作者の痛切な思いが胸に迫ってきたことを思い出します。今でも暗唱できる作品です。
映画「サクリファイス」(アンドレイ・タルコフスキー監督)も思い出します。主人公のまだ幼い息子はおそらく生まれつきに話すことができません。最後の場面で、父が教えたとおりに枯れた木に水やりをしていたその子は初めて言葉を発することになります。「初めに言葉ありき。なぜなのパパ」という言葉でした。人間が言葉を獲得したことの意味を考えさせられる場面でした。
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