母は愛情過多の人だった。
一人娘の私を一生懸命の育ててくれていたのは、今、私が一人息子の母をさせてもらっているから、少しはわかっているつもりだ。
好きなだけ習い事をさせてくれて、両親は働きづめだった。
私の自営の両親の仕事を手伝うのは、当たり前のようにしていたが、私の息子は、自分は母親とは違うから、と押し付けがましく感じるようだ。
事実そうかもしれない。
息子に手伝ってもらうことを無言で強いているのかもしれない。
これは大いに反省するところだ。
朝の6時過ぎから、夜中の11時くらいまで、仕事をしていた両親だったから、家事は小学生の頃からやるのが当然だった。小学2年生の時、掃除機のかけ方を主婦並みに出来ていたので、担任の女教師の驚愕の表情を今でも忘れない。
いい子だったのだ。小学生の時は。
高校生になって、いろいろな本を読み、自立を考えるようになっていた。
家事はもちろん続けていたが、自分の心の中で、好きな勉強をするために、家を出ようという気が強くなってきた。
自宅で勉強が出来ないことはなかったが、自営の経営状況が良くなくなって、両親の喧嘩が絶えず、家庭は暗かった。
親に黙って東京で住み込みで働きながら予備校へ行く準備をして、その機関へ自分で考えて手紙を書いた。
そして、段取りを整えてから両親に宣言した。「家を出て住み込みで働きながら、大学を目指す」
これは今考えれば、両親にとって酷だった。
父や母にとって、娘だけは裏切らないという考えだっただろうと思う。
でも、これはある意味、良かったと思う。
自分の人生を自分で切り開くということを、やっていこうとして、いろいろ調べて実行したのだから。
高校3年の時の担任の先生も私の決断と実行を、心配していたが、誰も知り合いがいない東京で、悪い人たちに翻弄されることなく、失敗を重ねながら良い青春時代を送った。
高校を卒業した4月上旬。
東京へは夜行列車で、両親と共に上京した。
上野駅のホームに降り立ったとき、寒かった。東京は都会だから暑いのだろうと着ていたワンピースは、5月上旬に着るような7分袖と薄地のジャケットだった。
ホームにある、公衆電話で住み込み先に電話をすると、その責任者の方が急いでタクシーを飛ばして来てくださった。
まさか、夜行で来るとは、思っても見なかったのだろうと、そのときのあわてふためいた様子で今なら気づく。
話が飛んだ。
そして、住み込み先の人々や住むアパートを確認した翌日、両親は、また夜行で北陸の自宅へ帰っていった。そのとき、母も私も、駅で号泣していた。
住み込み先の責任者は、後で一人娘をよく東京へ上京させたね、と驚いていた。
私を採用する際、一人娘だと想像もしなかったようだ。
こういう自分だから、一人息子が中学や高校を卒業して、自立すると言ってもおかしくはないなと覚悟している。
あの時の私の強い決断を母は許してくれた。
だから、息子が自分で生活の道を作って自分がやりたいことをやるなら、受け入れるだろうと決意する。
息子はまだ中学1年生なのだから、早すぎる覚悟かもしれないが、息子を頼りにする自分を観てしまったので、自分を励ます意味で、このブログに所信を書いた。
明日からもガンバ!
感謝
一人娘の私を一生懸命の育ててくれていたのは、今、私が一人息子の母をさせてもらっているから、少しはわかっているつもりだ。
好きなだけ習い事をさせてくれて、両親は働きづめだった。
私の自営の両親の仕事を手伝うのは、当たり前のようにしていたが、私の息子は、自分は母親とは違うから、と押し付けがましく感じるようだ。
事実そうかもしれない。
息子に手伝ってもらうことを無言で強いているのかもしれない。
これは大いに反省するところだ。
朝の6時過ぎから、夜中の11時くらいまで、仕事をしていた両親だったから、家事は小学生の頃からやるのが当然だった。小学2年生の時、掃除機のかけ方を主婦並みに出来ていたので、担任の女教師の驚愕の表情を今でも忘れない。
いい子だったのだ。小学生の時は。
高校生になって、いろいろな本を読み、自立を考えるようになっていた。
家事はもちろん続けていたが、自分の心の中で、好きな勉強をするために、家を出ようという気が強くなってきた。
自宅で勉強が出来ないことはなかったが、自営の経営状況が良くなくなって、両親の喧嘩が絶えず、家庭は暗かった。
親に黙って東京で住み込みで働きながら予備校へ行く準備をして、その機関へ自分で考えて手紙を書いた。
そして、段取りを整えてから両親に宣言した。「家を出て住み込みで働きながら、大学を目指す」
これは今考えれば、両親にとって酷だった。
父や母にとって、娘だけは裏切らないという考えだっただろうと思う。
でも、これはある意味、良かったと思う。
自分の人生を自分で切り開くということを、やっていこうとして、いろいろ調べて実行したのだから。
高校3年の時の担任の先生も私の決断と実行を、心配していたが、誰も知り合いがいない東京で、悪い人たちに翻弄されることなく、失敗を重ねながら良い青春時代を送った。
高校を卒業した4月上旬。
東京へは夜行列車で、両親と共に上京した。
上野駅のホームに降り立ったとき、寒かった。東京は都会だから暑いのだろうと着ていたワンピースは、5月上旬に着るような7分袖と薄地のジャケットだった。
ホームにある、公衆電話で住み込み先に電話をすると、その責任者の方が急いでタクシーを飛ばして来てくださった。
まさか、夜行で来るとは、思っても見なかったのだろうと、そのときのあわてふためいた様子で今なら気づく。
話が飛んだ。
そして、住み込み先の人々や住むアパートを確認した翌日、両親は、また夜行で北陸の自宅へ帰っていった。そのとき、母も私も、駅で号泣していた。
住み込み先の責任者は、後で一人娘をよく東京へ上京させたね、と驚いていた。
私を採用する際、一人娘だと想像もしなかったようだ。
こういう自分だから、一人息子が中学や高校を卒業して、自立すると言ってもおかしくはないなと覚悟している。
あの時の私の強い決断を母は許してくれた。
だから、息子が自分で生活の道を作って自分がやりたいことをやるなら、受け入れるだろうと決意する。
息子はまだ中学1年生なのだから、早すぎる覚悟かもしれないが、息子を頼りにする自分を観てしまったので、自分を励ます意味で、このブログに所信を書いた。
明日からもガンバ!
感謝
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます