昨日の続きの聖書ネタです。
聖書の中には、「求めよ、さらば与えられん」と、
「与えよ、さらば与えられん」という箇所がそれぞれあります。
私が読んだものは共同訳(口語訳)なので、こんなカッコよく書いていませんが(笑)
新約聖書は基本的にキリストの言動をまとめているものですが、キリストの没後ずいぶん経って成立しているため、その間は口伝えでしょうから、多少の変換はあったと思われます。
そのため(?)学者さんたちによる編集作業というのは今でも行われているものらしいのですが、その中で淘汰されずに両方が残るということには、意味があると思うのです。
そしておそらく、古代のヨーロッパ人たちは、与えることと求めることが同じニュアンスを持つ言葉だったのではないか、という気はします。
それは無意識でも同じことだからです。
求めるということは、ゲットしたいという気持ちです。
ゲットしたいという気持ちがあれば、誰かがゲットさせたいと思うわけです。
誰かが与えたいと思えば、誰かが与えられるわけです。
主語があいまいな場合、どちらがどちらの気持ちでいるのか微妙になることが結構あります。とくに宗教は多くの場合「崇拝対象との一体化による陶酔感」があることも多く、キリスト教の聖体拝領などはそのわかりやすい例でしょう。
神と一体化し、内なる神を意識の上に登らせたとき、与えるものも与えられるものも同じ自分であると言えます。
聖書と離れて、脳は、自分と他人を区別できない部分があります。
だから誰かが辛い目に合っていると、自分が同じ目にあっているように胸が痛み、
小説やドラマで主人公目線で楽しんだりできるという訳なのです。
そういう目線に立てば、相手に与える行為は、自分が与えられる行為であります。
与えらた喜びを感じたいならば、誰かに与えるとよいでしょう。
そしてその喜び満ちた感情が、返報性の法則(してもらったらお返しをしたくなるという心理学上の法則)に似たシステムによって誰かから与えられる素地を作るでしょう。
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