こんにちは
豊中市政策企画部都市活力創造室の津田です
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さて、今回は古い地形図を見るのが好きという
あまり理解されない趣味を持つ私が秋に開催予定のまち歩き企画の参考にと
5月16日・23日に開催された南部連携センター・庄内公民館主催の講座
「豊中のむかしを探る - ため池・用水路を中心に」に参加しましたので
その模様を2回に分けてリポートいたします
講師は小学校校長を務められた瀧健三先生
豊中の歴史について記した「郷土のくらし」「とよなかの史跡巡り」など多くの著書があります
瀧先生からおおむね江戸時代以降の豊中の歴史について
ため池、用水路を中心に教わりました
まずは豊中の地理について確認です
(クリックで拡大します)
近世の豊中の村々の地図です
江戸時代のお話なので旧村の地名が何度も出てきます
まずはこちらの地図で位置関係を確認してください
(クリックで拡大します)
(新修 豊中市史 第3巻 自然)
豊中の地形は、全体として北部の丘陵地、中央部の台地、南部の低地の3地域に大きく分けられ
北部に高く南部に向かって標高が低くなってきています
現在は市域のほとんどが市街地になっている豊中市ですが
江戸時代は岡町など街道沿いの町場を除きその多くが農耕地でした
農業を行う上で要となるのはやはり水
必要な水をいかに確保するか(用水)
そして要らなくなった水をいかに排出するか(悪水)に
先人たちは並々ならぬ苦労をしたようです
第1回は北部の丘陵地でどのように水を活用してきたか
みていきます
北部の丘陵地では
江戸時代はミカンの栽培が盛んで
水田では上質の米が採れ、酒米として伊丹や西宮に出荷していました
北部の千里・刀根山丘陵、中部の豊中台地で活躍したのは
なんといってもため池
島熊山に降った雨水をため池に溜めて
一滴も無駄にしないように大切に使ったそうです
命の水ともいえる用水を確保するためには
村々の間で争いが起きることも
「聞き書き 水とくらし 100号」(豊中市立教育研究所)
より次のようなお話を聞きました
雨水(したり水)は月や木の葉の中を浸って「くぼみ(凹)」に溜り、そこからだんだんに溝ができ、水はその溝を伝って低い方へと流れる。分水のきわどい所にはいくつか石を置いたりして、雨水がわが村の方へ落ちるように密かに細工をして帰った。よその村の者と出会って喧嘩になってもいかんので、峰の見回りには、腕っ節の強いものを行かせた。
現在でも上野西の青池、東豊中町の三ツ池などをはじめ20か所ほど残っていますが
明治初期までは市内に100ヶ所を超えるため池がありました
文献で確認できる一番古いため池は蛍池中町にある山所池(やまんじょいけ)
戦国時代の文禄4年(1595年)からその存在を確認できます
(山所池の上に建つ第十八中学校の体育館)
ちなみに現在、山所池は半分以上が埋め立てられ
その敷地には第十八中学校が建てられました
残りの池の上には体育館が建っています
「るるぶ豊中」の中で珍十景in豊中として紹介されているのを
ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか
(埋め立て前の大池:昭和初年)
(二尾池の上に建つ市立豊中病院。柴原駅側に少しだけ池が残っている)
この山所池をはじめ、大池小学校になった大池、市立豊中病院になった二尾池
市民会館・アクア文化ホールになった芦田ケ池など
宅地化が進んで本来の役目を終えたため池は
さまざまな公共施設に姿を変え、再び重要な役割を果たしています
さて、みなさん興味がわいてきましたか?
次回は西部、南部の平野についてお送りします
乞うご期待