幸福の芽 happy sprout みろく maitri Ⅱ

《心の時代へのパラダイムシフト》自分の心をつかんで幸せになりませんか。幸福の芽を探して一歩前に出てみませんか。

心の浄化の方法論 1

2012-05-13 13:03:00 | みろく神示

今年初めに「心の浄化」ということを書きました。

1/7のブログに宗教的なものと社会一般的なものと
両方の方法論と書きました。
このうちの社会一般的なものとして
「神道の心の浄化の方法論」について心を清める、
清らかな心で生きるというものがあると思いますと
書きました。

私はもう長い間静かに祈りをあげる時にその前に
どうしても手を洗いたくなります。
祈りの前にまず手を清めたくなる、無条件に
そうしたいと思うということがあります。

神仏の前で祈る時にまず聖なる心、清々たる心に
なるよう祈る前に合わせる手を清める。
そして祈り「心を清める」このことは
簡単なことではありません。
自分の心は今現在清らかか、まず自分の心に
問うてみることが大切です。
そして引っ掛かりを取り除く努力を
していくことが大切です。
これ自体極めていくということはたいへんな努力が
必要と思います。
自分のことばかり考えている心では
引っ掛かりがでてきます。
和の心、執れのない心を作る、心を磨いていく、
心を清めていくということになります。

ひとりひとりの心は神仏がみておられています。
この世界観が神仏と人との本来の姿なのです。

この世に在ってもあの世に還っても
心はそのまま存在します。
その心に在る仏性(神性)は永遠の時の流れの中で
神仏の光を放って向上し続けているのです。
永遠の時を生き続けています。

社会一般的な心の浄化で逆に言いますと
神仏が無いと言い、
仏性(神性)に反して生きていれば心が曇り、
本来のその人の光がわからないほどに
なってしまうということもあります。

日本語のきたない言葉を使えば
「ばれなきゃ何をしてもいい」ということで
悪事を続ける。
心は見えないからと
「何を思ってもいい、考えてもいい」ということで
心の発するところが全く違うところにあり
表面だけ繕うということになると思います。
また悪いことを思っても行っても
相手のせいにして責任をとらない、
全て相手のせいにすればいいそういう行動を
するということがあると思います。

そのような心は神仏の心に合わず心が曇り、
「和」がくずれやがて周りの人も自分も
苦しむことになるでしょう。

心を清める、心の浄化についてもう一段
宗教的な道を求めるという意味で
「心の浄化の方法論2」を書きたいと思います。

神仏と書いているのは神道と仏教の悟りの道と
合っているところがあるという意味を含めています。







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