『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』。最初の鐘…『諸行無常』次の鐘…『是生滅法』次の鐘…『生滅滅巳』最後の鐘…『寂滅為楽』
『あること』について論理で理解ができているとしても、やれるかどうかは別の話し。
5億年という長い歳月をかけ、ソフトが洗練された。そのソフトは、自分の身体に持っている。
あっちに歩こうと思えば歩ける。その時に右足をどの辺りに置いて、次に左足を…、と考えて歩いていたら、足はもつれる。
あたかも簡単にやっている日常動作も、理屈にして説明するとなると、大変である。
理屈でわかっていなくても、できること。理屈でわかっていても、できないこと。
相手のプログラムを、こちらも含んでいて、なおかつプラスαがある。であれば、破れることはない。
対象をどう取り出すかによって、『わかり方』と『使い方』とにわかれる。
仮に『声の見方』がはっきりとしていなければ、『声は大切』なんて言えるわけがない。しかし、『その見方』がよくわからない。
『動きを視る』うえで、関節に注目することで視えてくるのが『動きの方向』。
『どう理解するか』を考えるとき、『構造』と『機能』から視ると、わかってくる面がある。
身体の中にある構造を『外に写し出す』ということが、無意識におこなわれている。