では、そろそろ場所を移動しまして…
こちら!
三式中戦車
三式中戦車 チヌ(さんしきちゅうせんしゃ チヌ)は、第二次世界大戦後期に登場した大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。
第二次世界大戦突入時の日本陸軍では、新鋭の機甲戦力として九七式中戦車 チハを配備していた。
太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦において、九七式中戦車は南方作戦におけるビルマ攻略戦や
フィリピン攻略戦に投入されたが、主砲(九七式五糎七戦車砲)の威力不足から
連合国軍のM3軽戦車に対し苦戦を強いられた。
そこで陸軍では、新鋭対戦車砲である一式機動四十七粍砲をベースとする、
一式四十七粍戦車砲に換装した九七式中戦車 チハ新砲塔型(新砲塔チハ)と
一式中戦車 チヘを実用化し、M3軽戦車に対抗可能となった。
しかし、第二次大戦中期頃からアメリカ軍はより強力なM4中戦車を大量に配備し始めた。
そのため、これに対抗する新鋭戦車が必要となっていたが、
四式中戦車 チトと五式中戦車 チリは開発中であり、量産はまだ先のことだった。
このような経緯から、1944年(昭和19年)5月、一式中戦車の武装を更に強化し、
試製チト1号車の試製五糎七戦車砲○新(「○新」は以前に駆逐戦車用に開発されていた
試製五十七粍戦車砲と区別するための呼称であり、
表記は○の中に新)を搭載する「新中戦車(丙)」(昭和17年度の新中戦車(丙)とは同名だが別車輌)が構想され、
最終的に三式中戦車 チヌが開発されることになった。試作車は1944年9月に三菱重工で完成し、10月に量産に移された。
早急な戦力化が要求されたため改装は必要最小限に留められていた。この措置は短期間での開発を可能としたが、
主砲を選定するに際し、当初は九五式野砲、後に九〇式野砲を選択し、これをほぼそのまま砲塔内に搭載した。
これにより砲塔の大型化や駐退復座機の砲塔外露出、水平鎖栓及び撃発装置の位置の適正化が図られていない等の不利な点が生じた。
(ウィキペディアより出典)
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大洗女子マークが…(^^;)
ガルパンファンでしょうか? 群がる皆様熱心に激写されておりました〜
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続きまして
八九式中戦車
八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)は、
1920年代後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。
日本初の国産制式戦車として開発・量産された。秘匿名称「イ号」(「ロ号」は九五式重戦車[2]、「ハ号」は九五式軽戦車)。
先の試製一号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製一号戦車は18トンという大重量であった。1925年(大正14年)から1935年(昭和10年)まで、陸軍には軽戦車と重戦車の区分しかなく、
軽戦車=ルノ-戦車に類するもの=10トン以内
重戦車=英国中型戦車に類するもの=20トン以内と決められていた。
日本は、軽戦車を主力とし、軽戦車より重い戦車は重戦車に分類し、数は少ないが軽戦車を補完する役割とし、
軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立てで、戦車隊を整備する方針であった。
そこで1928年(昭和3年)3月28日に、新たに10トン程度の軽戦車を開発することを決定し、
試製一号戦車の成果を基に1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考にして開発することになり、
同時に重戦車(後の試製九一式重戦車)の開発も決定している。
開発は陸軍技術本部第四研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決定、
8月に概略設計図面が出来上がり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。
以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。
のちの1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。
1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、
名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。1931年(昭和6年)の満州事変後、
日本製鋼所と神戸製鋼所と汽車製造株式会社[3]も生産に関わるようになった。
1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、
1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、国産戦車の6割を生産するようになる[4]。
1929年10月には東京〜青森間、660キロメートルの長距離運行試験に成功し、
同年同月に八九式軽戦車として仮制式化(仮制定)された。初期試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、
部隊の運用経験から度々改修が施され(この改修によって機動性は悪化している)、
最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えてしまった。
さらに八九式軽戦車よりも軽量な九五式軽戦車が開発されたため新たに中戦車の区分が設けられ、
1935年(昭和10年)9月13日に制式名称を八九式中戦車と改定(再分類)されている。
また、のちの九七式中戦車(チハ車)の頃からカタカナ2文字の秘匿名称(試作名称)を付すようになり
、さかのぼって八九式中戦車には甲型にチイ、乙型はチロとされた。この「チ」は中戦車、
「イ」はイロハ順で1番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に運用部隊等でチイ、
チロと呼ばれることはなかったようである。陸軍第四研究所の戦後回想録の付表では、
甲型も乙型も「チイ」と表記されており、「チロ」の命名については疑問視する声もある。
試作車が完成し仮制式化されても、試作車の改修や、日本で初めての戦車の量産故に、
すぐには量産体制が整わず、八九式軽戦車の生産は遅々として進まず、間に合わせとして、
1930年(昭和5年)に、フランスからルノーNC27軽戦車を10輌(12輌説あり)輸入したが、
装甲厚を除き攻撃力や対射撃抗堪性・走行性能など総合性能は、八九式軽戦車の方が優れていた。
生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から
1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、
乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。
八九式は軽戦車と中戦車の二面性を持つ戦車であり、のちに軽戦車としての後継として九五式軽戦車が、
中戦車としての後継として九七式中戦車が開発・採用されている。
(ウィキペディアより出典)
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後ろすがたはまさに「アヒルさん」
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戦車ご紹介で力尽きました〜〜〜
ウィキからコピペしてるだけなのに…この体たらく。
次回は、小型の火砲をご紹介します。
ひっぱっちゃってますが…よろしければおつきあいください〜〜〜
こちら!
三式中戦車
三式中戦車 チヌ(さんしきちゅうせんしゃ チヌ)は、第二次世界大戦後期に登場した大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。
第二次世界大戦突入時の日本陸軍では、新鋭の機甲戦力として九七式中戦車 チハを配備していた。
太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦において、九七式中戦車は南方作戦におけるビルマ攻略戦や
フィリピン攻略戦に投入されたが、主砲(九七式五糎七戦車砲)の威力不足から
連合国軍のM3軽戦車に対し苦戦を強いられた。
そこで陸軍では、新鋭対戦車砲である一式機動四十七粍砲をベースとする、
一式四十七粍戦車砲に換装した九七式中戦車 チハ新砲塔型(新砲塔チハ)と
一式中戦車 チヘを実用化し、M3軽戦車に対抗可能となった。
しかし、第二次大戦中期頃からアメリカ軍はより強力なM4中戦車を大量に配備し始めた。
そのため、これに対抗する新鋭戦車が必要となっていたが、
四式中戦車 チトと五式中戦車 チリは開発中であり、量産はまだ先のことだった。
このような経緯から、1944年(昭和19年)5月、一式中戦車の武装を更に強化し、
試製チト1号車の試製五糎七戦車砲○新(「○新」は以前に駆逐戦車用に開発されていた
試製五十七粍戦車砲と区別するための呼称であり、
表記は○の中に新)を搭載する「新中戦車(丙)」(昭和17年度の新中戦車(丙)とは同名だが別車輌)が構想され、
最終的に三式中戦車 チヌが開発されることになった。試作車は1944年9月に三菱重工で完成し、10月に量産に移された。
早急な戦力化が要求されたため改装は必要最小限に留められていた。この措置は短期間での開発を可能としたが、
主砲を選定するに際し、当初は九五式野砲、後に九〇式野砲を選択し、これをほぼそのまま砲塔内に搭載した。
これにより砲塔の大型化や駐退復座機の砲塔外露出、水平鎖栓及び撃発装置の位置の適正化が図られていない等の不利な点が生じた。
(ウィキペディアより出典)
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大洗女子マークが…(^^;)
ガルパンファンでしょうか? 群がる皆様熱心に激写されておりました〜
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続きまして
八九式中戦車
八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)は、
1920年代後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。
日本初の国産制式戦車として開発・量産された。秘匿名称「イ号」(「ロ号」は九五式重戦車[2]、「ハ号」は九五式軽戦車)。
先の試製一号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製一号戦車は18トンという大重量であった。1925年(大正14年)から1935年(昭和10年)まで、陸軍には軽戦車と重戦車の区分しかなく、
軽戦車=ルノ-戦車に類するもの=10トン以内
重戦車=英国中型戦車に類するもの=20トン以内と決められていた。
日本は、軽戦車を主力とし、軽戦車より重い戦車は重戦車に分類し、数は少ないが軽戦車を補完する役割とし、
軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立てで、戦車隊を整備する方針であった。
そこで1928年(昭和3年)3月28日に、新たに10トン程度の軽戦車を開発することを決定し、
試製一号戦車の成果を基に1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考にして開発することになり、
同時に重戦車(後の試製九一式重戦車)の開発も決定している。
開発は陸軍技術本部第四研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決定、
8月に概略設計図面が出来上がり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。
以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。
のちの1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。
1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、
名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。1931年(昭和6年)の満州事変後、
日本製鋼所と神戸製鋼所と汽車製造株式会社[3]も生産に関わるようになった。
1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、
1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、国産戦車の6割を生産するようになる[4]。
1929年10月には東京〜青森間、660キロメートルの長距離運行試験に成功し、
同年同月に八九式軽戦車として仮制式化(仮制定)された。初期試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、
部隊の運用経験から度々改修が施され(この改修によって機動性は悪化している)、
最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えてしまった。
さらに八九式軽戦車よりも軽量な九五式軽戦車が開発されたため新たに中戦車の区分が設けられ、
1935年(昭和10年)9月13日に制式名称を八九式中戦車と改定(再分類)されている。
また、のちの九七式中戦車(チハ車)の頃からカタカナ2文字の秘匿名称(試作名称)を付すようになり
、さかのぼって八九式中戦車には甲型にチイ、乙型はチロとされた。この「チ」は中戦車、
「イ」はイロハ順で1番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に運用部隊等でチイ、
チロと呼ばれることはなかったようである。陸軍第四研究所の戦後回想録の付表では、
甲型も乙型も「チイ」と表記されており、「チロ」の命名については疑問視する声もある。
試作車が完成し仮制式化されても、試作車の改修や、日本で初めての戦車の量産故に、
すぐには量産体制が整わず、八九式軽戦車の生産は遅々として進まず、間に合わせとして、
1930年(昭和5年)に、フランスからルノーNC27軽戦車を10輌(12輌説あり)輸入したが、
装甲厚を除き攻撃力や対射撃抗堪性・走行性能など総合性能は、八九式軽戦車の方が優れていた。
生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から
1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、
乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。
八九式は軽戦車と中戦車の二面性を持つ戦車であり、のちに軽戦車としての後継として九五式軽戦車が、
中戦車としての後継として九七式中戦車が開発・採用されている。
(ウィキペディアより出典)
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後ろすがたはまさに「アヒルさん」
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戦車ご紹介で力尽きました〜〜〜
ウィキからコピペしてるだけなのに…この体たらく。
次回は、小型の火砲をご紹介します。
ひっぱっちゃってますが…よろしければおつきあいください〜〜〜