18『岡山(美作・備前・備中)の今昔』三国の成立と発展(平安時代中期~晩期)
律令的な人民の支配(公地公民の制)も、10世紀に入るとだんだんに崩れていった。
例えば、785(延暦4年)に出された、朝廷によるある官符の一節には、こうある。
「右、頃年の間、不課は増益し課丁は損減す。郡司等の撫養、方に乖き、課口損減し、姦詐多端にして、不課益増す。授田の日、虚に不課と注し、多く膏腴の上地を請い、差科の時、課役を規避して、常に死逃の欺妄を称す。(中略)今宜しく所部の百姓の国中に浮宕するものを検括し、厳に捉搦を加え、妄死逃走して除帳の輩を勘注せしむべし。」(後に『類聚三代格』(法令集)に収録)
奈良時代の中期、一定の条件の下で土地の私有化を認めたのが、墾田永年私財法(743年)であった。その後も、国の人民管理は、戸籍計帳を元に、一人ひとりに税や用役を課するのを建前としていた。けれどもその間、租税を逃れるための、公民の浮浪や逃亡そして偽籍(男を女と偽るなど)といった消極的な戸籍の空洞化が、止むことはなかった。それが平安時代の中期にもなると、大っぴらに空閑地・荒廃地を開墾したり占有する富裕な農民(富豪層)、院宮王臣家(有力な貴族・大寺院・皇族など)が相次いで出てくる。こうした彼らによって経営される土地のことを、「荘園」を呼ぶ。
もちろん、当該の土地を開墾したり占有するとのであるから、朝廷(天皇)の勅旨田(ちょくしでん、天皇の直営田)は除かれる。それらの土地は、原則として一定の税が課せられる輸租田なのであるから、まだ彼らの完全なる私有地とは成っていなかった、といって差し支えあるまい。尚更に、12世紀になって広く見られるようになる「不輸・不入の権」を獲得した完全な私有地としての荘園でもないのだが。彼ら、ともあれ、権門勢家たちは、こうして諸々の方法で占有下に置いた土地で、浮浪・逃亡など戸籍記載地から脱落した人民を使役することをためらわなくなっていく。
続いて、988年の尾張国からの訴えの解文(げぶみ)には、こうある。
「尾張国の郡司(ぐんじ)百姓等(ひゃくせいら)解(げ)し申す。官裁を請うの事。
裁断せられんことを請う、当国守(とうこくのかみ)藤原朝臣元命(あそんもとなが)、三箇年内非法の官物を責め取り、并(なら)びに横法(おうほう)を濫行(らんぎょう)すること三十一箇条の愁状(しゅうじょう)。
一(1)、裁断せられんことを請う、例挙(れいこ)の外(ほか)に三箇年の収納、暗に加徴(かちょう)せる正税四十三万千二百四十八束の息利(そくり)十二万九千万百七十四束四把(わ)一分(ぶ)の事。(中略)
一(3)、裁断せられんことを請う、官法の外意に任せて租穀段別三斗六升を過徴するの事。(中略)
一(4)、裁断せられんことを請う、進る所の調絹の減直、并びに精好の生糸の事。(中略)
一(7)、裁断せられんことを請う、交易(きょうやく)と号して誣(し)ひ取る絹・手作布・麻布・漆(うるし)・油・○(からむし)・茜(あかね)・綿等の事。
一(13)、裁断せられんことを請う、三箇年池溝并びに救急料稲万二千余束を充て行 わざるの事。(中略)
一()、裁断せられんことを請う、旧年用残の稲穀を以て京宅に春運せしむるの事。 (中略)
一(27)、裁断せられんことを請う、守(かみ)元命朝臣京より下向するに、毎度有官散位の 従類、同じく不善の輩を引率する事。(中略)
一(30)、裁断せられんことを請う、元命朝臣の子弟郎等、郡司百姓の手より雑物を 乞い取るの事。(中略)
一(31)、裁糺せられんことを請う、去ぬる寛和三年二月七日諸国に下し給わるる九 箇条の官符の内、三箇条を放ち知らしめ、六箇条を下知せしめざるの事。 (中略)
以前の条の事、憲法の貴きを知らんがために言上すること件の如し。(中略)望み請ふらくは、件の元命朝臣を停止せられ、改めて良使を任じ、以て将(まさ)に他国の牧宰(ぼくさい)をして治国優民の褒賞を知らしめんことを。(中略)仍(よ)りて具(つぶさ)さに三十一箇条の事状を勒(ろく)し、謹みて解す。
永延(えいえん)二年(988年)十一月八日、郡司百姓等」(『尾張国解文』)
ここに守(かみ)某とあるのは、受領(ずりょう)と略称される地方の国司(こくし)をいい、「郡司百姓等」は地方の有力農民を指す。これらの項目について、調べの上、「官裁」(太政官における裁定)をお願いするとの「解」(上申文書)なのだ。例えば7条目に「交易」云々とあるのは、正税で地方の産物を買い、中央に送る制度によるのだといって、生産者から作物を騙し取っていたことを告発したもの。これらからは、律令制の下、上級貴族なり寺社なりの土地・人民の私的支配に対する、地方の富裕農民層の抵抗が読み取れる。
このような状況に鑑みて、施政者の側からは、色々と立て直しが試みられる。
902年(延喜2年)に公布された、荘園整理の推進のために出された「太政官符」には、こうある。時の政権積む最高担当者は、菅原道真を失脚させて実権を握ったばかりの左大臣、藤原時平であった。
「太政官符す
将に勅旨開田ならびに諸院諸宮及び五位以上の、百姓の田地舎宅を買い取り、閑地荒田を占請するを停止すべきの事。
右、案内を検ずるに、このごろ勅旨開田遍く諸国に在り。空閑荒廃の地を占むると雖(イエド)も、これ黎元の産業の便を奪ふなり。新之(しかのみならず)新たに庄家を立て、多く苛法を施す。課責尤(もっと)も繁く、威脅耐え難し。且(か)つ諸国の奸濫(かんらん)の百姓、課役を遁(のが)れんがために、ややもすれば京師(とも)に赴きて好みて豪家に属し、あるいは田地をもって詐りて寄進と称し、あるいは舎宅をもって巧みに売与と号し、遂に使に請ひて牒を取り封を加え○(ぼう、境界を示す標識)を立つ。国司矯○(きょうしょく、偽り)の計と知ると雖も、而(しか)も権貴の勢いを憚(はばか)りて口を鉗(つぐ)み舌を巻き敢えて禁制せず。○(これ)に因りて、出挙(すいこ)の日、事を権門に託して正税を請けず、収納の時、穀を私宅に蓄へて官倉に運ばず。賦税の済(な)し難き、斯(ここ)に由らざるは莫(な)し。加以路遺(しかのみならずろい)の費す所、
田地遂に豪家の庄となり。○○(かんこう)の損なふ所、、民烟(みんえん)長(とこしな)へに農桑の地を失ふ。終(つい)に身を容(え。)るに処なく、還りて他境に流冗(るじょう)す。(中略)
宜しく当代以後、勅旨開田は皆悉(ことごと)く停止して民をして負作せしめ、その寺社百姓の田地は各公験(おのおのくげん)に任せて本主に還し与うべし。且(か)つ夫(そ)れ百姓、田地舎宅をもって権貴に売り寄するは、蔭贖(おんしょく)を論ぜず、土浪を弁ぜず、杖六十に決せよ。もし符の旨に乖違(かいい)して嘱を受けて買い取り、ならびに閑地荒田を請占するの家あらば、国須らく具に耕主ならびに署牒の人、使者の名を録して早速に言上すべし。(中略)但し元来相伝して庄家たること券契分明にして、国務に妨げ無き者はこの限りにあらず。よりて須らく官符到る後百日の内に弁行し、状をつぶさにして言上すべし。延喜二年(902年)三月十三日」(『類聚三代格』)
ここの下段で「宜しく当代以後、勅旨開田は皆悉(ことごと)く停止して民をして負作せしめ、その寺社百姓の田地は各公験(おのおのくげん)に任せて本主に還し与うべし」云々とあるのは、朝廷が勅旨田を開くのを手始めとした。この田圃となる所以は、天皇の命令により諸国の空閑地・荒廃地などを占有し開墾することをいい、これが成るや皇室領の扱いとなるので、「不輸租」の特権が与えられる訳だ。これからは、勅旨田の開田は一切やめて人民に賃租形式で耕作を請け負わせる、つまり律令そもそもの班田収受法の復活を目指そうとの、「上から目線」での政策者の意図するところが窺える。
続いて914年(延喜14年)、三善清行が、醍醐天皇の求めに応じて提出した「意見封事十二箇条」には、「中位の下から目線」でこう記される。
「臣某言す。・・・・・臣去にし寛平(かんぴょう)五年(893)に備中介(びっちゅうのすけ)に任ず。彼の国の下道郡(しもつみちのこおり)の迩磨郷(にまのさと)有り。爰(ここ)に彼の国の風土記を見るに、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の六年(660)に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍(いくさ)を率い百済を伐(う)つ。百済使を遣はして救はむことを乞ふ。天皇筑紫に行幸したまひて、将に救(すくい)の兵を出さむとす。(中略)路に下道郡に宿したまふ。
一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此郷の軍士を徴(め)したまふ。即ち勝兵(しょうへい)二万人を得たり。天皇大いに悦びて、此の邑(むら)を名づけて二万郷(にまごう)と曰(のたま)ふ。後に改めて迩磨郷といふ。(中略)而るに天平神護年中に、右大臣吉備朝臣、大臣といふをもて本郡の大領を兼ねたり。試みに此郷の戸口を計へしに、纔(わずか)に課丁(かてい)千九百余人有りき。貞観(859~877)の初めに、故民部卿藤原保則(ふじわらやすのり)朝臣、彼国の介(すけ)たりし時に、(中略)大帳を計(かぞ)ふるの次(つい)でに、其の課丁を閲(けみ)せしに、七十余人有りしのみ。清行任に到りて、又此の郷の戸口を閲せしに、老丁(ろうてい)二人・正丁(せいてい)四人・中男(ちゅうなん)三人有りしのみ。去にし延喜十一年(911)に、彼の国の介(すけ)藤原公利(ふじわらきみとし)、任満ちて都に帰りたりき。清行、迩磨の郷の戸口、当今幾何を問ふに、公利答へて日く、『一人も有ること無し』と。
意見十二箇条(中略)
一、まさに水旱を消し、豊穰を求むべき事。(中略)
一、奢侈を禁ずるを請うの事。(中略)
一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)
一、大学生徒の食□を加給するを請うの事。(中略)
一、五節の妓員を減ずるを請うの事、(中略)
一、旧に依りて判事の員を増置するを請うの事。(中略)
一、平均に百官の季禄を充て給うを請うの事。(中略)
一、諸国の少吏并びに百姓の告言訴訟に依りて朝使を差遣する停止するを請うの事。(中略)
一、諸国勘籍人の定数を置くを請うの事。(中略)
一、贖労人をもって諸国の検非違使及び弩師に補任するを停むるを請うの事。(中略)
一、諸国の僧徒の濫悪、及び宿衛の舎人の凶暴を禁ずるを請うの事。(中略)
一、重ねて播磨国魚住泊を修復するを請うの事。(中略)
延喜十四年四月廿八日
従四位上行式部大輔臣三善朝臣清行上る」(「三善清行の意見封事十二箇条」)
果たせる哉(かな)。この意見書は、律令制支配の後退を憂え、たがを締め直すことで往年の「輝き」を取り戻そうとしたのであろうか。当地(現在の倉敷市の上二万、下二万あたりか)では、課丁、すなわち調庸(ちょうよう)を負担すべき成年(17歳以上)男子がつるべ落としに減っていった。この文書においては、かくもショッキングな状況へと繋がっていった理由には掘り下げていなく、「天下の疲弊ここに極まれり、これは何とかいないといけない」という意味での、織り込み済みというなのだろうか。
(続く)
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