□26『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(文化)

2017-01-16 09:53:22 | Weblog

26『岡山(美作・備前・備中)の今昔』建武新政・室町時代の三国(文化)

 一方、この時期の仏教界は、武家との関わりを深める中で、様々な方向性が明らかになっていく。その一つの流れに隠遁があった。例えば、寂室元光(じゃくしつげんこう)は、1290年(正応3年)、美作国の高田(現在の勝山町)に、俗姓は藤原として生まれた。早熟の天才肌で、少年の頃から大人も一目おくほどの才気活発であったと伝わる。1302年(正安4年)には出家とある。本人が望んだのだろうかは、明らかでない。その脚であろうか、京都東福寺の無為昭元(むいしょうげん)禅師に師事した。それから臨済宗鎌倉禅興寺の約翁徳倹(やくおうとっけん)禅師の門に入り、そこで「元光」の名を与えられる。1320年(元応2年)には、どのような「つて」であろうか、中国の元(げん)にわたる。その地で中峰明本(ちゅうほうみんぽん)らに師事する。「寂室」の名前は明本から与えられた法号である。
 1377年(嘉暦元年)、37歳で中国から帰国した。変わっているのはその後で、京都へ帰ればそれなりの栄達が予想できた筈だ。ところが、あくまで清貧による思想の深化を極めようとしたものか、それとも民衆とともにありたいと願ってのことだろうか、隠棲(いんせい)を通じての修行の継続を選ぶ。中国地方を遍歴して、市井の人々とも交わったと伝わる。すなわち、中国地方遍歴では、西祖寺、 明禅寺、安国寺、滋光寺、菩提寺、備前金剛寺、八塔寺、金山寺などの諸寺のほか、美作の田原村、備前の吉備中山などへも色々巡ったことがわかっている。さらに、美濃、摂津、山城、近江、伊勢、尾張、甲斐、上野などの国々を遍歴した。これらから、かなりの健脚であったのだろう。
 1360年(延文5年)には、近江(おうみ)守護の近江守護佐々木氏頼からの招聘を断り切れず、近江の愛知川上流の地に一寺の寄進を受け、永源寺(滋賀県永源寺町)の開山(かいさん)となった。その後も後光厳天皇からは京都天龍寺、将軍足利義詮からは鎌倉建長寺に招聘されたがいずれも断り、永源寺から離れようとはしなかった。およそ名誉欲とからは縁遠いところで、生きていたと言える。1367年(貞治6年)、死を悟った彼は、遺偈 (ゆいげ)(永源寺蔵・重要文化財)として後世に遺すのを希望し、「屋後の青山、檻前(らんぜん)の流水、鶴林(かくりん)の双趺(そうふ)、熊耳(ゆうじ)の隻履(せきり)、又是れ空華(くうげ)空子を結ぶ」と書いた。

(続く)

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