○○103『自然と人間の歴史・日本篇』平氏と源氏

2017-01-15 21:30:35 | Weblog

103『自然と人間の歴史・日本篇』平氏と源氏

 平安後期になると、力を伸ばしてきた武士の中で、より大きな集団となる者たちが現れる。朝廷を守る実力となり、そのいじらしいほどの朝廷への忠勤、切磋琢磨の中で、しだいに桓武平氏と清和源氏が2大勢力となっていく。1051年(永承6年)、奥州の安部氏が反乱を起こした。朝廷からこれの鎮圧に向かったのが、源頼義(みなもとよりよし)であって、1062年(康平5年)までの12年の間に安部氏の軍と戦った。これを「前九年の役」と呼ぶ。それからややおいた1083年()、今度は、奥州の安部氏の旧領を領有していた清原氏と、陸奥守、源義家(みまもとよしいえ)との間で、戦端がひらかれた。1089年(寛政治元年)までの5年間にわたる戦いで、源氏の勢力の台頭が明らかになった。これを「後三年の役」と呼ぶ。彼らは、東国を中心に、地味ながらも堅い主従の絆を広げていく。
 これに対する平家は、桓武天皇の流れを汲む平氏は、世渡りがうまかった。平正盛(たいらのまさもり)は、1097年(承徳元年)、所領の伊賀国の鞆田村(ともだむら)、山田村の田畑・屋敷地都合二〇町ばかりを時の白河上皇(天皇在は1072年~86年)に関係する六条院という寺に寄進するなどで院に取り入り、院北面のの武士として白河法王の近臣になる。それからの正盛は、法王の御願寺の造営を請け負うなど、股肱の働きをもって法王に使えるのだった。その忠勤の過程で、伊勢を基盤とした平氏台頭の基礎固めが進んでいく。その子の平忠盛(たいらのただもり)の代になると、平氏の勢力は西国の、特に海道筋を中心に勢力を広げていく。彼は、父に継いで白河上皇の寵愛を得て、播磨、伊勢、備前などの国主を歴任するに至った。また、海賊討伐にも功があり、平氏は瀬戸内海の交通の要衝及びその周辺国において確固たる地位を築くに至る。鳥羽上皇にも取り入り、院別当の官職を得る。そして1132年(長承元年)には、鳥羽上皇の御願による得長寿院を造営、その功により、内裏(だいり)の清涼殿(せいりょうでん)への昇殿を許されるまでに出世する。

(続く)

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○○106『自然と人間の歴史・日本篇』平安文化の中の女性と民衆(絵巻など)

2017-01-15 20:30:21 | Weblog

106『自然と人間の歴史・日本篇』平安文化の中の女性と民衆(絵巻など)

 国宝『伴大納言絵巻(ばんだいなごんえことば、とものだいなごんえことば)』上巻・中巻・下巻」は、出光美術館に所蔵されている。『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』と並んで四大絵巻物の中でも、当時の世情のやるせない、策略と陰謀に包まれる雰囲気を伝える傑作とされる。この絵巻の構図が珍しいのは、平安時代の貴族など体制側に属する人々と、市井に生きる人々、つまり人民大衆とを一つの連続的に登場させ、その対比でもって画面を際立たせていることにある。

 時は、866年(貞観8年)旧暦閏3月10日の夜、応天門(おうてんもん)が炎上したのが発端だ。原因は放火とされる。公では、大宅首鷹取(おおやのおびとたかとり)の告発をきっかけとして、事件は大納言・伴善男(とものよしお)らの犯行ということで決着した。絵巻の終わりの部分である、彼が逮捕・連行される場面から考えると、ライバルに罪をなすりつけて、左大臣の地位を手にいれようとの企てだとみられたようでもある。しかし、伴大納言の犯行の動機が不明であるなどがあり、その真偽(しんぎ)は藪の中にあった。

 一説には、当時の天皇を取り巻く太政大臣の藤原良房(ふじわらのよしふさ)、右大臣、左大臣で政敵の源信(みなもとのまこと)、大納言の政治的な対立の構図が背後にあったらしい。つまり、いわくつきの、フレームアップ(でっち上げ)であった可能性が高いと見られる。
 絵巻は事件から約300年を経過した平安時代末期に制作されたらしい。図鑑の説明によると、絵の詞書は上巻からは失われている。それでも、中巻・下巻の詞書と同じ文章が説話集『宇治拾遺物語』巻十の冒頭の「伴大納言焼応天門事」にあるとのことだ。どうやら、絵巻物で表されるストーリーは史実どおりに描かれていない、多くの脚色も含まれる。だとすると、人々に語り継がれてきた説話をもとに、作者が半ば空想で創りあげたのであろうか。中身に分け入ると、史実の一部を誇張したり、場面の創作数々あるやに伝えられる。そうとわかってはいても、いままさに朱雀門を駆けぬける人々の切迫した姿が描かれている。紅蓮の炎の状況描写とともに、朱雀門近辺と思しきところでの、風下で逃げ惑う群衆と風上で火事場見物を決め込んでいる貴族や役人との対比が観てきたようにリアルに描かれていて、当時の世の中の縮図がさらけ出されているかのような印象を与えている。

(続く)

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○○115『自然と人間の歴史・日本篇』寺社と荘園と僧兵(10~12世紀)

2017-01-15 10:41:49 | Weblog

115『自然と人間の歴史・日本篇』寺社と荘園と僧兵(10~12世紀)

 寺社と荘園の関わりについては、寄進を受けるのが常套とされていた。寄進地系荘園としての山城国上桂荘(かみかつらのしょう)の事例には、こうある。
 「寄進し奉る、所領の事。合わせて一所は山城国上桂に在り。
  四至(東西南北の境界)。東は桂河東堤の樹の東を限る。南は他領の堺(入り交わる)を限る。西は五本松の下路を限る。北は○河の北、梅津堺の大榎を限る。 
 右当所は、桂津守(かつらつもり)。桂川の船着場の管理者}建立の地なり。津守津公(つぎみ)・兼枝・則光(のりみつ)と次第知行相違なし。○(ここに)御威勢を募り奉らんが為、当荘をもって永代を限り、院の女房(にょうぼう)大納言殿御局に寄進し奉るところなり。中司職にいたりては、則光の子々孫々相伝すべきなり。後日のため寄進の状、件の如し。
  長徳三年(997年)年九月十日。玉手(たまて)則光判、玉手則安判」(出典:東寺百合文書)
 これに「桂津守」とは、代々この地を知行してきた人物をいい、また「院の女房」とは東三条藤原詮子に仕える者をいう。開発によって領主となったものの、庇護を求めてこの大納言殿御局(だいなごんおつぼね)に当地を寄進の上、自らは預所職(あづかりどころしき)なり下司職(げししき)といった現地の荘官(しょうかん)に任ぜられることによりそれまで通りの実質支配を行った。
 もう一つの寄進地系荘園として、肥後国鹿子木荘(ひごのくにかのこぎのしょう)を取り上げよう。
 「鹿子木の事。
 一、当寺の相承は、開発領主沙弥(しゃみ)寿妙(じゅみょう)嫡々相伝の次第なり。
 一、寿妙の末流高方(中原高方。寿妙の孫)の時、権威を借らんがために、実政卿をもって領家と号し、年貢四百石をもって割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職(あずかりどころしき)となる。
 一、実政の末流願西(がんさい。実政の曾孫)微力の間、国衙の乱妨(らんぼう)を防がず(防ぎきれなくなった)。このゆえに願西、領家の得分二百石をもって、高陽院内親王(かやのいんないしんのう、鳥羽天皇の娘)に寄進す。件の宮薨去の後、御菩提の為め・・・・・勝功徳院(しょうくどくいん)を立てられ、かの二百石を寄せらる。その後、美福門院(びふくもんいん)の御計(おんはからい)として御室(おむろ、仁和寺)に進付せらる。これ則ち本家の始めなり。」(出典:東寺百合文書)
 この文中「開発領主沙弥」とあるのは、在俗の僧のこと。未開墾地、つまり荒地を開発して領主になった者。「実政卿」とは、前参議大宰大弐(だざいざいに)藤原実政をす指す。この人物が当地の寄進を受けた「領家」となったのは、1086年のことであった。ところが、彼の後代が国衙(国司、朝廷の役人)からの圧力に抗し得なかったことから、
「領家の得分二百石をもって、高陽院内親王」に寄進する。この人物が死んだ後は、今度はこの200石は勝功徳院へと寄進先を変える。さらにその後には、より大きな寄る辺としての美福門院(内親王の母、得子)のはからいを頼って、御室(仁和寺、にんなじ)へまた寄進先を変える。「これ則ち本家の始めなり」ということで、東寺のものとなったという経緯が語られる。

(続く)

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