♦️27の5『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争前)

2018-02-04 09:06:42 | Weblog
27の5『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争前)

 ギリシア(ギリシャ)文明、それはクレタ、ミケーネ、トロイア、ローマなどとともに西洋文明の源流の一つだと言えよう。そもそもの話は、エーゲ海沿岸からヘロポネソス半島、そして地中海に浮かぶクレタ島にかけての先史年代のギリシアの地に、人々が暮らしていた。そのことが示唆される年代としては、約2万5000年前の、後期旧石器時代にまで遡る。その頃は、今日の地質学でいうところの最終氷期の中であって、人々は狩猟中心の生活を営んでいた。
 それからまた大いなる時間が経過して、今から約1万3000年前頃からは、冷涼であった気候がだんだんに穏やかになってきた。9000年前頃になると、人々は弓矢に黒曜石製の鋭利な鏃(やじり)を使う新しい狩猟方法を開発するとともに、カヌーなどの交通手段を獲得し、これらを使って地中海世界へと行動範囲を広げつつあった。そして今から7000年前頃からの新石器時代の地層からは、小麦を主体とする農耕と、羊と山羊を飼育する牧畜とが確立され、土器の紋様もきめ細かさを増すなどの変化があった。
 紀元前3000年頃になると、エーゲ海の島々とギリシア本土で新石器時代から青銅器時代への移行があったが、紀元前2000年頃には終焉を迎えた。しかし、それと相前後して、今度はクレタ島で新たなる青銅器文化が隆盛しつつあった。これを発見したのが、英国人考古学者エヴァンスであって、20世紀初頭の発掘であり、「クレタ文明」と命名されている。そのクレタに見つかった宮殿跡の中でも、クノッソス宮殿は貯蔵庫を仕組んでいて、宗教的な権能の強い王権の下に、人々が活発な経済活動を行っていたことを示唆している。
 紀元前2000年頃、アカイア人がテッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住していった。かれらは、先住民のミノア文明を滅ぼし、ミケーネ文明を構成した。
彼らは地中海を主な舞台に活発な交易を行い、シチリアからトロイ、エジプトまで進出していた。紀元前1300年頃、「トロイア戦争」が起こった。その模様について記したものに、ホメロスが叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」(いずれも紀元前8世紀)がある。この戦いが史実であり、かつまたミケーネにかつて文明が栄えていたことを確信していたドイツ実業家シュリーマンが1872年に地下深くから宮殿跡や墓などを発掘し、この地に文明の実在したことが証明された。
 紀元前1100年頃、北方からドーリア人が南下してくる。ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタ。先住民のアカイア人はアジアに逃れた。紀元前900年、ギリシャ各地で多くの都市国家(ポリス)が興った。君主制もあれば、少数貴族による寡頭制政治、さらに最有力のポリスである国家アテネでは、民主制が始まった。
 紀元前750~480年、ポリスが地中海沿岸や黒海沿岸に活発な植民都市活動を行い、繁栄する。貨幣経済が発達し、ポリス全盛となる。成年男子に参政権が与えられ。海外に進出下ギリシア人たちは、地中海の各地でフェニキア人たちと出くわし、交渉、軋轢を繰り返す中で、フェニキアの人々のアルファベットの仕組みを採り入れることで、ギリシア語のアルファベットを確立していった。ギリシアは、ポリス(都市国家)の連合体であった。古代の民主社会とも言われるが、その社会の基本としての生産関係を規定していたのは奴隷制社会なのであった。
 そのギリシア社会の中で民主政の恩恵に浴していたのは、オイコス(家産)の家長とその家族、親族らであったろう。オイコス同士は基本的に平等で、互いに家産の運営に就き干渉しないことが尊重されていた。しかし、オイコスに共通する問題、例えば戦争の開始や他国家との協定の締結などについては、各単位毎に分散的に決定するのでは解決できない。それゆえ、これらの問題をどうするかは、各々の家長にして市民の資格を持った者らがアゴラ(広場)に集まって決める。
 アテネの場合、このアゴラには、会議場、裁判所、そして市場があった。会議場では、日常的に評議会(民会)が開かれる。これに参加する評議員は、市民の中から選ばれた500人が当たり、衆人が観ている前で議論し、最終的には投票で事を決着するという慣習が通用していた。評議員の任期は1年で、2年続けては就任できないだけでなく、一生に2度までしか務めることはできなかった。
 紀元前451年には、最有力のアテナイにおいて、政治家ペリクレス(495頃~429)が先導して市民権法がつくられる。これによって、アテナイ市民の要件は、父母ともにアテナイ人で、しかも正規の結婚によって誕生した男子であることに引き上げられる。
一説(オランダの歴史学者ブログが主唱)には、これによって「アテナイ市民全体が一つの仮想の血縁集団(ゲノス)とみなされるよう図った」(桜井万里子、木村凌二「集中講義!ギリシア・ローマ」ちくま新書、2017)のだという。市民は18歳で登録されて市民となり、その後の2年間に軍事教練を受けた後、公の世界である政治活動を行うことができていた。

(続く)

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