♦️66の1『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(アテネ民主制からペロポネソス戦争前夜へ)

2018-02-17 19:16:26 | Weblog

66の1『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(アテネ民主制からペロポネソス戦争前夜へ)

 さらに時代が下っての紀元前508年には、最有力のポリスである国家アテネにおいて、古代の民主制が始まった。クレイステネスの改革と呼ばれるこの改革の主眼は、都市部から辺境にいたる、精々1万平方キロメートルを超えない地域に住んでいる市民の間の争いを根絶することにあった。そのために、彼は新しい意味での市民団をつくった。
 まずは、アッティカと呼ばれるアテネの領域を都市部、沿岸部、内陸部の3つに分けた。それまでのアテネは、イオニア系のポリスの通例として、市民団は4つの部族からなっていた。次いで、それぞれをさらに10ずつ、つごう30に細分した。そして、都市部、沿岸部、内陸部から、それぞれからそれぞれ一つずつの小部分(これをトリッテュス、つまり3分の1と呼ぶ)を選んで一組にした。こうすることによって、全部を10の組に編成替えした。すなわち彼は、この組をもって旧来の部族からの編成替えを行ったのである。
 紀元前750~480年、ポリスが地中海沿岸や黒海沿岸に活発な植民都市活動を行い、繁栄する。貨幣経済が発達し、ポリス全盛となる。成年男子に参政権が与えられ。海外に進出下ギリシア人たちは、地中海の各地でフェニキア人たちに出くわす。彼らとの交渉、軋轢を繰り返す中で、フェニキアの人々のアルファベットの仕組みを採り入れることで、ギリシア語のアルファベットの原型を確立していった。ギリシアは、ポリス(都市国家)の連合体であった。古代の民主社会とも言われるが、その社会の基本としての生産関係を規定していたのは奴隷制社会なのであった。
 そのギリシア社会の中で民主政の恩恵に浴していたのは、オイコス(家産)の家長とその家族、親族らであったろう。オイコス同士は基本的に平等で、互いに家産の運営に就き干渉しないことが尊重されていた。しかし、オイコスに共通する問題、例えば戦争の開始や他国家との協定の締結などについては、各単位毎に分散的に決定するのでは解決できない。それゆえ、これらの問題をどうするかは、各々の家長にして市民の資格を持った者らがアゴラ(広場)に集まって決める。
 アテネの場合、このアゴラには、会議場、裁判所、そして市場があった。会議場では、日常的に評議会(民会)が開かれる。これに参加する評議員は、市民の中から選ばれた500人が当たり、衆人が観ている前で議論し、最終的には投票で事を決着するという慣習が通用していた。評議員の任期は1年で、2年続けては就任できないだけでなく、一生に2度までしか務めることはできなかった。
 紀元前451年には、最有力のアテナイにおいて、政治家ペリクレス(495頃~429)が先導して市民権法がつくられる。これによって、アテナイ市民の要件は、父母ともにアテナイ人で、しかも正規の結婚によって誕生した男子であることに引き上げられる。
一説(オランダの歴史学者ブログが主唱)には、これによって「アテナイ市民全体が一つの仮想の血縁集団(ゲノス)とみなされるよう図った」(桜井万里子、木村凌二「集中講義!ギリシア・ローマ」ちくま新書、2017)のだという。市民は18歳で登録されて市民となり、その後の2年間に軍事教練を受けた後、公の世界である政治活動を行うことができていた。

(続く)

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♦️65『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(その成り立ちと発展)

2018-02-17 19:14:47 | Weblog

65『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(その成り立ちと発展)

 ギリシア(ギリシャ)文明、それはクレタ、ミケーネ、トロイア、ローマなどとともに西洋文明の源流の一つだと言えよう。そもそもの話は、エーゲ海沿岸からヘロポネソス半島、そして地中海に浮かぶクレタ島にかけての先史年代のギリシアの地に、人々が暮らしていた。そのことが示唆される年代としては、約2万5000年前の、後期旧石器時代にまで遡る。その頃は、今日の地質学でいうところの最終氷期の中であって、人々は狩猟中心の生活を営んでいた。
 それからまた大いなる時間が経過して、今から約1万3000年前頃からは、冷涼であった気候がだんだんに穏やかになってきた。9000年前頃になると、人々は弓矢に黒曜石製の鋭利な鏃(やじり)を使う新しい狩猟方法を開発するとともに、カヌーなどの交通手段を獲得し、これらを使って地中海世界へと行動範囲を広げつつあった。そして今から7000年前頃からの新石器時代の地層からは、小麦を主体とする農耕と、羊と山羊を飼育する牧畜とが確立され、土器の紋様もきめ細かさを増すなどの変化があった。
 紀元前3000年頃になると、エーゲ海の島々とギリシア本土で新石器時代から青銅器時代への移行があったが、紀元前2000年頃には終焉を迎えた。しかし、それと相前後して、今度はクレタ島で新たなる青銅器文化が隆盛しつつあった。これを発見したのが、英国人考古学者エヴァンスであって、20世紀初頭の発掘であり、「クレタ文明」と命名されている。そのクレタに見つかった宮殿跡の中でも、クノッソス宮殿は貯蔵庫を仕組んでいて、宗教的な権能の強い王権の下に、人々が活発な経済活動を行っていたことを示唆している。
 紀元前2000年頃、アカイア人がテッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住していった。かれらは、先住民のミノア文明を滅ぼし、ミケーネ文明を構成した。
彼らは地中海を主な舞台に活発な交易を行い、シチリアからトロイ、エジプトまで進出していた。紀元前1300年頃、「トロイア戦争」が起こった。その模様について記したものに、ホメロスが叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」(いずれも紀元前8世紀)がある。この戦いが史実であり、かつまたミケーネにかつて文明が栄えていたことを確信していたドイツ実業家シュリーマンが1872年に地下深くから宮殿跡や墓などを発掘し、この地に文明の実在したことが証明された。
 紀元前1100年頃、北方からドーリア人が南下してくる。ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタ。先住民のアカイア人はアジアに逃れた。紀元前900年、ギリシア各地で多くの都市国家(ポリス)が興った。初めのうちは、君主制もあれば、少数貴族による寡頭制政治もある、といった政治形態が現れた。数ある都市国家の代表格として取り上げられるアテネでは、ペイシストラトス一族の独裁制が敷かれた。
 歴史家トゥキュディデスが「彼らは独裁者においても人を凌ぐものでありたいと日頃から努力を惜しまなかったし、アテネ市民から僅かな税を徴収するだけで、町のたたずまいを美しく飾り、立派に戦争をやってのけ、神々に対する捧げものも欠かさなかった」(「歴史」)と、やや好意的に評した。アテネの中心地にはアゴラ(広場)が設けられており、人びとが集まった。そこには祭壇があるばかりでなく、劇や運動競技が催されたり、アゴラには不可欠の施設である泉場も設けられており、市民に談笑や議論、憩いの場を提供した。

(続く)

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○334『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズム前夜の全国各地の様子(農村)

2018-02-17 10:21:36 | Weblog

334『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズム前夜の全国各地の様子(農村)

 昭和前期の社会主義者・猪俣津南雄(いのまたつなお)は、昭和恐慌・満州事変から日中戦争の間の1933年(昭和8年)1934年(昭和9年)にかけて、2府16県(北は青森から西は岡山まで)にわたり昭和恐慌下の農山漁村を踏査し、農村の数十カ所を取材した。その時の状況を『踏査報告窮乏の農村』(岩波文庫としての初版は、1934年)としてファシズムの迫る中世に問うた。
 そこに「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た〔子供〕を〔間引〕(カッコ部分は初版は伏せ字)した廉で、一小隊ほども法廷に立たされた」というくだりがある。
 併せて、この本には、次のような新生活への息吹を感じたことへの述懐も含まれる。彼は、そんな苦しい現状の報告にあっても、これら農村の生活に希望を見出すことを諦めていなかった。
 「これは私が今度の旅行で確認し得た極めて平凡で最も重要なことの一つだが、・・・・・彼らの最大関心は「文化生活」にある。彼らは、もっと人間らしい生活をしたいという欲求で一杯だ。私は、信州で、越後で、能登で、大阪で、東北各地で、それを確かめた。」
 明治に入ってからの間の小作地率の変化は、つぎの通り。1873年の農地に占める小作地の割合(小作地率)は27.4%、自作地の割合(自作地率)は72.6%。1883~84年の同比率は、それぞれ35.9%と64.1%。1892年のそれは、40.2%と59.8%。1903年は43.6%と56.4%。1912年になると、45.4%と54.6%。1922年には46.4%と53.6%。1932年になると、47.5%と52.5%で、猪俣が農村視察に入った頃の数字である。これまではほぼ一本調子で漸増してゆく。対英米戦争開始の年である1940年になると45.9%と54.1%となって、小作率が少し下がるのであった(『近代日本経済史要覧』)。
 このような高率の小作料がまかり通っていた理由については、諸説がある。その一つは、経済外的な強制を持ち出すもので、例えば、富塚良三氏によりこういわれる。
 「わが国における明治以来から戦前までの寄生地主制のもとでの高率現物小作料は、「諸関係の力」と法的規定によって強制される「生産物地代」の一つの変容形態であるとみることができよう。それが「半封建的」と規定されたのは、まさにこの理由による。半封建的な高率現物小作料と低賃金のうえに、したがって高い搾取率を武器として、高度な独占資本主義が急速に発展していったのである。」(富塚良三「経済原論」有斐閣、1976)

(続く)

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♦️226の1『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命(17~19世紀)

2018-02-17 09:33:31 | Weblog

226の1『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命(18~19世紀)

 顧みて、産業資本は、産業革命の時まで確立されたことにはならない。その間に技術革新が徐々に全社会に浸透していく。紡績関係を拾えば、18世紀に入りイギリスはインドからの綿花を国内で加工して、外貨を稼ぐことになっていく。ジョン・ケイが飛び杼(ひ)を発明した。車の上にのせられた杼(ひ)が弾機で叩かれて経糸の間を駆け抜けるようになった。この飛杼(fly shuttle)は労働力節約のための工夫であった。おりからラダイト(機械打ちこわし)運動が烈しいときで、彼の個の発明は、機織り職人から恨みをかったという。1764年には、ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明し、これで同時に複数の糸を紡ぐことができるようになる。1769年には、アークライトが水力紡績機を発明する。1779年にはクロンプトンがミュール紡績機を発明する。ミュール紡績機においては、水力紡績機の太い糸を細い者に切り替える。
 それからは織ることをかなりの程度自動化した。動力機関として、初めて蒸気機関の採用にも道をひらいていく。1793年、アメリカのホイットニーが、綿花から綿を自動的に分離する新手の綿繰り機械を発明した。

 蒸気機関そのものは、1712年にニューコメンが発明する。それは、炭鉱の地下水をくみ出すポンプとして使われ始める。ジェームズ・ワットは、それを改善する。続いて1804年、トレビシックが初めての蒸気機関車の作成にとりかかる。 

 1814年になると、スティーブンソンが出て、蒸気機関車をつくり、彼の開発したロコモーション号が1825年に、ロケット号が1830年にイギリスの国土を走ることになっていく。そしてこれらの技術革新が波及したことで、資本家はより多くの利益を獲得できるようになっていく。

 イギリスでの産業革命は、1688年の「名誉革命」(進歩的貴族などの議会勢力が国王の専制を奪い、議会制民主主義を打ち立てる)に遅れること1世紀余のことであった。その進行は、全国レベルでの資本蓄積の本格化を意味していた。資本の蓄積には、労働力が必要となる。それは、農村部での明層の分解から多くがもたらされる。また労働力の成果を労働者から限りなく搾り取ろうとする過程でもあった。フリードリヒ・エンゲルスによる『イギリスにおける労働者の状態』は、この時の模様を写し出している。
 1833年には、労働環境と労働者の健康を守という触れ込みで、工場法が制定される。旧くは14世紀から18世紀の中葉に至るまでの諸労働法令にみられるような初期資本主義期(重商主義段階を含む)の下では、炭鉱や繊維工場では児童労働が限りなく行われていた。それというのも、その頃は「最短労働時間を規定して労働日を強制的に延長せしめようとするものであり、資本の労働支配がいまだ確立されておらず、充分な譲与労働を吸収するには国家の権力の援助が必要であった」(富塚良三「経済原論」有斐閣、1976)という。
 それが、新たに制定された法令では一変する。9歳以下の少年労働の禁止、13歳未満の労働時間を週48時間まで、さらに18歳未満は週に69時間までに限ることが規定された。これに横たわる考えとしては、労働日を延長しようとする資本の止みがたい衝動、欲望に対し一定の枠をはめ、抑制し、もって社会全体の労働力の安定供給をを確保しようとするものであり、そこでの目安は労働力の標準的な再生産である。
 その後のイギリス工場法の成り行きについては、カール・マルクスの『資本論第一巻』において、当時の資本家の強欲が工場監督官(1855年10月31日の報告)により次の如くつぶさに語られているところだ。
 「すべての事情が同じならば、イギリスの製造事業者は外国の製造事業者に比べて、一定の時間内に、ずっと大量の仕事を生み出す。それはイギリスにおける毎週六十時間の労働日と、他国における七十二時間ないし八十時間の労働日の差異をなくすほどのものである。」(カール・マルクス『資本論』第一巻)
 そのイギリスでの産業革命の後追いを、一世紀余を経た明治の日本が遅ればせながら目指すのであった。繊維は、主として生糸の生産であったが、やがて紡績や織物での近代工業化が目指される。繊維工業の発展は、運輸の発達を促していく。鉄道面では、1872年(明治5年)、イギリスから直輸入された蒸気機関車が東京と新橋の間に敷かれた線路の上を走り始める。生糸生産地と横浜港を結ぶ鉄道も、政府の殖産興業政策の要の一つになっていく。

 

(続く)

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