258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城、上野の戦い(戊辰戦争前編、1868)
まずは、戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、1868年(慶応4年/明治元年)1月に勃発した、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、1869年(明治2年)の「箱館戦争」(五稜郭の戦いとも)にて終結するまでの1年以上にわたり行われた。
広い意味でいうと、旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とする「新政府軍」との間で争われた一連の戦争のことだ。なお、戊辰戦争という名称は、鳥羽・伏見の戦いが起こった年の干支が、旧暦の「戊辰」の年だったことに由来する。
1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府第15代征夷大将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上した。その本質は、資産と武力を保持しつつ一旦退くことで面目を回復し、やがて新政府を牛耳ろうとねらったものといえよう。
同年12月9日には、王政復古の大号令が発せられた。もう天皇を頂点とする王政の国に復帰したのであるから、徳川の世は終わった、というのである。
その後、徳川慶喜は京都から大坂へと退く。その一方で、幕府の軍勢は大坂から京へと進軍した。そのため、京の伏見では、幕府軍と薩摩藩を中核とする新政府軍の勢力が拮抗することになり、一触即発の緊張が高まっていた。
明けて1868年1月27日(慶応4年1月3日)、伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれた。現在の城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の西方、鴨川にかかる小枝橋のたもとにて、両軍の戦いの幕が切っておろされた。
双方の戦力については、新政府軍の5千に対し、旧幕府軍は1万5千であり、かなりの数の開きがあったものの、統率力は前者の方が上回っていた。
後者だが、先陣は会津、桑名藩、旧幕府からの歩兵隊、それに新撰組などであったという。しかし、後続の各藩からの兵隊は、各藩寄せ集めの程にて、横の連携は充分ではなく、士気も盛んとは言いにくい状態であったようだ。
双方の戦力については、新政府軍の5千に対し、旧幕府軍は1万5千であり、かなりの数の開きがあったものの、統率力は前者の方が上回っていた。
後者だが、先陣は会津、桑名藩、旧幕府からの歩兵隊、それに新撰組などであったという。しかし、後続の各藩からの兵隊は、各藩寄せ集めの程にて、横の連携は充分ではなく、士気も盛んとは言いにくい状態であったようだ。
あくる1月28日、幕府軍の戦線は、伏見桃山からは南西側の淀(京都市伏見区淀、現在の京阪本線淀駅の西南方向にある)付近まで後退した。当初は優勢だった幕府軍は劣勢に傾いていった。
1月29日には、そもそも幕府軍本営のあった淀城からして、城主(譜代の淀藩・稲葉氏)不在のところ、留守役の家臣たちはこのまま幕府軍に付いてよいものか、新政府軍に付くか、日和見(ひよりみ)の状態に陥っていた。
同1月29日、鳥羽と伏見で敗北した旧幕府軍は淀城に入ろうとしたものの、淀藩から入城を拒否されてしまう。それというのも、1月4日には尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」と、また三条実美からの出頭命令も受けていたので、国家老たちは、日和見(ひよりみ)を決め込んだのだ。
1月29日には、そもそも幕府軍本営のあった淀城からして、城主(譜代の淀藩・稲葉氏)不在のところ、留守役の家臣たちはこのまま幕府軍に付いてよいものか、新政府軍に付くか、日和見(ひよりみ)の状態に陥っていた。
同1月29日、鳥羽と伏見で敗北した旧幕府軍は淀城に入ろうとしたものの、淀藩から入城を拒否されてしまう。それというのも、1月4日には尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」と、また三条実美からの出頭命令も受けていたので、国家老たちは、日和見(ひよりみ)を決め込んだのだ。
そんな中での1月30日、新政府軍側から皇軍であることを示す「錦の御旗」がひるがえった。先に旧幕府軍が大阪城に退いたのを知った朝廷の岩倉具視(いわくらともみ)らは、薩摩・長州側の勝利であると認識、彼らの側を官軍、旧幕府軍を賊軍と断定の上、急遽もしくは前々からの示し合わせであろうか、「錦の御旗」を官軍に与える。
そのことにより、日和見だった各藩は雪崩を打つように新政府軍側に恭順していく。かかる情勢が支配的となって幕府軍は敗走、大坂城に退く。
徳川慶喜は城内に立てこもって戦う、と諸藩の兵たちを鼓舞したのもつかの間、夜陰に紛れてか自軍を置き去りにし、大阪湾天保山沖合いに停泊、控えていた幕府の戦艦・開陽丸に乗船し、江戸へと逃れた。
これにびっくり仰天したのが旧幕府軍で、総大将が真っ先に戦線を離脱したのに、一朝に崩壊してしまったのは致し方あるまい。かくして、鳥羽・伏見の戦いは、急転直下、終結し、旧幕府軍は散り散りになっていく。
そのことにより、日和見だった各藩は雪崩を打つように新政府軍側に恭順していく。かかる情勢が支配的となって幕府軍は敗走、大坂城に退く。
徳川慶喜は城内に立てこもって戦う、と諸藩の兵たちを鼓舞したのもつかの間、夜陰に紛れてか自軍を置き去りにし、大阪湾天保山沖合いに停泊、控えていた幕府の戦艦・開陽丸に乗船し、江戸へと逃れた。
これにびっくり仰天したのが旧幕府軍で、総大将が真っ先に戦線を離脱したのに、一朝に崩壊してしまったのは致し方あるまい。かくして、鳥羽・伏見の戦いは、急転直下、終結し、旧幕府軍は散り散りになっていく。
その後のことだが、江戸に帰った元将軍慶喜はどのようにふるまったのであろうか。一説には、こうある。
「江戸城に帰還した慶喜(よしのぶ)は、抗戦と降伏の間を揺れ動いていた。フランス公使ロッシュは、慶喜に再起を勧告した。また勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ)は、卓抜な作戦計画を立てて慶喜に献策した。すなわち、東海道を海岸沿いに東進中の天皇政府軍を優秀な海軍力で横撃して撹乱し、さらには敵軍を関東平野に誘い入れ、箱根峠を封鎖して袋の鼠にし、包囲殲滅せよとの戦略だった。
小栗の策が実行されたら、形勢は再逆転したかもしれない。したがって鳥羽・伏見戦後といえども、ただ徳川家が最終的に天下を失うかどうかは未確定だったのである。しかし、いずれも慶喜の容れるところとはならなかった。」(毛利敏彦「幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点」中公新書、2008)
小栗の策が実行されたら、形勢は再逆転したかもしれない。したがって鳥羽・伏見戦後といえども、ただ徳川家が最終的に天下を失うかどうかは未確定だったのである。しかし、いずれも慶喜の容れるところとはならなかった。」(毛利敏彦「幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点」中公新書、2008)
ともあれ、慶喜からはもはや確固たる戦意はなく、時の流れにむ身をまかせていくしかなかったのではないか。それが、時勢というものであったのだろう。
そのまま謹慎に入り、勝海舟が後の始末を頼まれた形となる。その勝は、征討軍の参謀・西郷吉之助と談判し、無抵抗での江戸開城と引き換えに慶喜の助命を求める。軍に帰った西郷の進言により、幕府側の申し出を受け入れることとし、開城が滞りなく行われた。
そのまま謹慎に入り、勝海舟が後の始末を頼まれた形となる。その勝は、征討軍の参謀・西郷吉之助と談判し、無抵抗での江戸開城と引き換えに慶喜の助命を求める。軍に帰った西郷の進言により、幕府側の申し出を受け入れることとし、開城が滞りなく行われた。
くりかえすが、德川慶喜は、新政府に対する恭順の姿勢を表し、上野寛永寺に蟄居した。
そこで、おそらくはこれに幾分かは不満を持ちながらも、慶喜を守ろうとする幕臣の一部らが寄せ集まって、上野にこもる、これを彰義隊という。
幕府により江戸市中取締の任を受けて治安維持をおこなうものの、新政府軍は潰す機会を狙っていたのだろう。いざこいが絶えなかった。
そういうことだから、慶喜が許されて上野から水戸へ移る。そこで、双方の間で戦いがおきるのだが、新政府軍は攻めあぐねる中、早期の決着をめざして、大村益次郎(村田蔵六)を呼ぶ。その大村は、元はといえば長州の村医者にして、緒方洪庵の塾に学び、宇和島藩、それに幕府に用いられていたのが、長州に呼び戻された訳だ。
そこへ持ってきて、幕府の長州征伐のおりに、石州口で幕府軍をやぶるのに大功があったのが、戦略的な思考にたけた大村に他ならない。
かくて、大村は倒幕軍の総司令官となり、彼の指揮する新政府軍が上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を開始し、わずか1日で彰義隊は壊滅した。
その時活躍したのが、山を死守する旧幕府軍に対して、本郷の高台からアームストロング砲などであった、すなわちこれは、早々の近代戦なのであったろう。
そこで、おそらくはこれに幾分かは不満を持ちながらも、慶喜を守ろうとする幕臣の一部らが寄せ集まって、上野にこもる、これを彰義隊という。
幕府により江戸市中取締の任を受けて治安維持をおこなうものの、新政府軍は潰す機会を狙っていたのだろう。いざこいが絶えなかった。
そういうことだから、慶喜が許されて上野から水戸へ移る。そこで、双方の間で戦いがおきるのだが、新政府軍は攻めあぐねる中、早期の決着をめざして、大村益次郎(村田蔵六)を呼ぶ。その大村は、元はといえば長州の村医者にして、緒方洪庵の塾に学び、宇和島藩、それに幕府に用いられていたのが、長州に呼び戻された訳だ。
そこへ持ってきて、幕府の長州征伐のおりに、石州口で幕府軍をやぶるのに大功があったのが、戦略的な思考にたけた大村に他ならない。
かくて、大村は倒幕軍の総司令官となり、彼の指揮する新政府軍が上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を開始し、わずか1日で彰義隊は壊滅した。
その時活躍したのが、山を死守する旧幕府軍に対して、本郷の高台からアームストロング砲などであった、すなわちこれは、早々の近代戦なのであったろう。
かくて、銃火に勝る新政府軍の前に敗退し、江戸幕府の実質的支配がここに終わる。
☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆
さても、作家の大岡昇平(おおおかしょうへい)は、そのエッセイ「母成峠(ぼなりとおげ)の思い出」(「太陽」1977年6月号所収)の中で、この戦争というものへの慨嘆であろうか、それとも挽歌であろうか、こう述べている。
「私の戊辰戦争への興味は、結局のところ敗れた者への同情、判官びいきから出ている。一方、慶応争間からの薩長の討幕方針には、胸糞が悪くなるような、強権主義、謀略主義がある。それに対する、慶喜のずるかしこい身の処し方も不愉快である。その後の東北諸藩の討伐は、最初からきまっていたといえる。(中略)
多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。」
多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。」
(続く)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★