○550『自然と人間の歴史・日本篇』日本学術会議の6委員任命拒否(2020~)と組織改正問題

2021-02-13 21:59:04 | Weblog
550『自然と人間の歴史・日本篇』日本学術会議の6委員任命拒否(2020~)と組織改正問題


 そしての政府は、同会議に対し、政府の組織から独立させるような、揺さぶりをかけるとしか言えないような挙に出ているのであろうか。
 こうした国からの独立の提案に対し、学術会議は警戒をしているようだ。2020年12月16日に政府側に提出した中間報告では、今後を巡り、①国を代表する機関としての地位②公的資格の付与③国家財政支出による安定した財政基盤④活動面での政府からの独立⑤会員選考における自主性・独立性の5要件が、引き続き必要としている。そして、現在の形態なら5要件すべてを満たすとした。
 その上で、独立するとしても「5要件を満たす制度設計が可能なのかが論点」と、政府を牽制する形だ。
 振り返ると、学術会議は、1949年に創設されて以来、そのあり方は何度も議論されてきた。近くでは2015年に科技相の元に設置された有識者会議があり方について検討し、この時は「現在の制度を変える積極的な理由は見いだしにくい」と評価しているところだ。
 学術会議は、組織を云々する話には、こうした点を踏まえるべき、したがって設置法を改正してまであり方を変えなければいけないような「明確な理由がクリアになっているのか」としており、国民不在のままこの話が進められることに疑問を投げかけている形だ。
 それにもう一つ、今回の問題がなぜ起こったのかをめぐっては、学術会議が、組織として軍事研究禁止を継続していることが、今回の政府措置の主な背景の中に含まれているのではないか。
 これに関して、同会議の検討委員会が始まったのは、2016年6月のことだった。その前年の2015年に、「防衛装備庁の委託研究制度をめぐる論議がきっかけだった」(朝日新聞、2017年3月8日付け)という。


(続く)

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♦️279の3『自然と人間の歴史・世界篇』権力の平和的移行(アメリカ、「1800年の革命」)

2021-02-13 19:40:34 | Weblog
279の3『自然と人間の歴史・世界篇』権力の平和的移行(アメリカ、「1800年の革命」)

 アメリカ合衆国憲法の下で、平和的な権力の移行が初めて実現したのは、イギリスからの独立1800年の大統領選の時だ。
 当時のアメリカでは、フェデラリスト(連邦党)とリパブリカン(国民共和党もしくは国民民主党と訳される)という2つの政治勢力が国家の将来像をめぐって争っていた。
 フェデラリストは、農業のみならず、商工業の発展を目していた、強い国家を理想としていたのかもしれない。こちらの党派の、その時のアメリカ第二代大統領は、ジョン・アダムスであった。
 一方、リパブリカンは州権を重視し、独立自営農民からなる国家作りを目指していた。ちなみに、こちらの頭目である、大統領候補トマス・ジェファーソンは、こんな主張の持ち主であった。


 「一般的にいうなら、どういう国家でも、農民以外の市民諸階級の総計が農民の総計に対する比は、国家の不健全な部分が健全な部分に対する比であり、またそれは国家の腐敗の度を測るに足るバロメーターである。耕すべき土地がここに存在するからには、わが市民が仕事台であくせくしたり、糸巻き車をくるくるまわしたりするのは、けっして見たくない風景だ。」(トマス・ジェファーソン「ヴァージニア覚書」、「原典アメリカ史」第二巻、岩波書店)

 また、こうもいうのが、口癖であったらしい。いわく、「小さな土地所有こそ、国家にとってもっともたいせつな人々である」と。これなどは、現代人からみて、まさに、破天荒な主張にも聞こえるのは、なぜなのだろうか。

 そして迎えた1800年の大統領選挙では、大いなる競り合いを演じた。互いを国家の将来にとって危険な存在とみなすかのような激しい選挙戦を繰り広げる。一説には、結果次第では連邦を離脱する州が現れうるような怪しい雰囲気であったようなのだ。

 さて、選挙ではフェデラリストの候補者を破って、リパブリカンを率いるジェファソン副大統領が僅差で大統領に当選した。しかも、選挙人の投票では決まらなかったため、連邦議会の投票で決まった模様だ。いわば、ひらたくいうと、ギリギリのところで、権力の座をもぎ取った訳なのだ。

 とはいうものの、そのことは、合衆国憲法は平和的な権力の移行を前提としている、というまでであって、そのことを保証しているわけではない。
 おりしも、その後のジェファソンが、彼れの権力の移行を好まない勢力により暗殺される可能性すらあったのかもしれない。そのため、フェデラリストがジェファソンの大統領就任を妨害するのを止めるために軍を投入することが検討されたというのだか、真偽のほどは定かではない。

 結局、大きな混乱のないまま、翌1801年にジェファソンが平和的に大統領に就任し、ここにアメリカの新たな一歩が踏み出された格好となった訳なのだ。

(続く)

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♦️279の9『自然と人間の歴史・世界篇』ゲイリュサックの法則(1805)、ドルトンの原子説(1803)、ゲイリュサックの法則(1808)からアボガドロの法則(1811)へ

2021-02-13 08:39:52 | Weblog
279の9『自然と人間の歴史・世界篇』ゲイリュサックの法則(1805)、ドルトンの原子説(1803)、ゲイリュサックの法則(1808)からアボガドロの法則(1811)へ

 さて、気体の状態を推し量るということでは、1805年、フランスのゲイ・リュサック(1778~1850)が、気体の化学反応一般に成り立つ法則を探していた。そして、反応物および生成物の体積を比較すると、常に簡単な整数比になるのを発見した、これをゲイ・リュサックの法則という。

 言い換えると、この法則は、気体反応に関するもので、いまある気体が反応して別の気体を生成し、その全ての体積を同じ温度で測定した時、「反応物と生成物の気体の体積の間の比は、簡単な整数の比で表される」というもの。

 これを例えると、いま2立方メートルの気体水素と1立方メートルの気体酸素からは、過不足なく反応して水を生成する。その水を通常摂氏100度以上に熱すると、気体の水蒸気になる。このような状態で、反応物である水素と酸素、生成物としての水蒸気との体積を比較すると、常に2対1対2となっている。

 次に紹介するのは、イギリスの化学者ジョン・ドルトン( 1766~ 1844) であって、1803年に原子説を発表した。その原子説とは,質量保存の法則・定比例の法則を説明するためにドルトンが提唱したものである。それによると、元素はそれぞれ固有な性質と質量とをもった微粒子、すなわち原子から成り、化合物は異なる元素の原子が一定の割合で結合してできるという。


 そして迎えた1811年には、新たな発見者が登場してくる。イタリア人物理・化学者アメデオ・アヴォガドロ( 1776~ 1856 )は、分子の存在を仮定し,現代化学の概念を築いた。

 1811 年には、論文「物質の基本粒子の相対的質量とこれらの化合比率を決定する一つの方法」をフランスの科学雑誌に掲載した。その中で、原子が整数比で結合してできた分子の概念を考え、同じ体積の気体は同数の分子を含むという仮説を提唱する。これだと、先のドルトンの原子説は否定されよう。

 具体的でいうと、ゲイ・リュサックの法則とアボガドロの法則より、先の反応例でいうところの、同温・同圧のもとでは、反応に参加する水素単体、酸素単体、水蒸気の数の比率は、2対1対2であったのを振り返ってほしい。
 ところが、ドルトンによると、水素単体とは水素原子、酸素単体とは酸素原子よことをいうのであるから、水素原子2個と酸素原子1個が反応して、水蒸気が2個生成されることになっている。なので、これをうまく説明するには、酸素原子が2つに分割されねばなるず、これはドルトンの原子説に合わない結果となるからだ。

 しかしながら、当時はまだ、彼の新説は大方に受け入れられなかったという。

 アボガドロの死後、かれの名前が輝く時がくる。 1860 年の国際化学者会議での、イタリアの化学者カニッツァーロの発表を機に、再評価される動きとなったのだ。後に、「同圧力、同温度、それに同体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれる」という整理がなされることで、アボガドロの法則と命名された。


(続く)