203の4『自然と人間の歴史・日本篇』陽明学(佐藤一斎)の発達(18~19世紀)
佐藤一斎(さとういっさい、1772~1859)は、江戸時代中期からの儒学者だ。武家の生まれ。幼少から読書を好み、礼法や書道、それに武芸にも優れていたという。
1790年(寛政2年)の19歳にして、美濃国(みののくに)岩村藩との関係で、藩主松平乗保の近習となる。
とはいえ、それ以前から、前藩主松平乗蘊の第三子で、一斎の父がその烏帽子親となった4歳年長の松平衡()まつだいらまもる)と仲がよくて、儒学をともに学んでいたとも。
そのうちに、井上四明らの門に出入りしていたが、1791年(寛政3年)には、早々職を辞す。
それからは、中井竹山と林錦峯について儒学を学ぶ、そしての22歳の時には、幕府公認の家柄、大学頭林信敬に入門する。
その年、この信敬が没し、嗣子がなかったため、幕命によって衡が林家第8代の大学頭をつぐと、一斎は、その衡すなわち林述斎の門人となった。一斎と述斎は仲がよくて、34歳の時の一斎は、林家の塾長になっている。
なお、岩村藩との関係では、55歳の時、老臣の列に加えられる。
その後も、林家の門人という私的な立場にいて、林述斎が没した年の1841年末(天保12年)に70歳で幕府の儒臣となる。「おかみ」に招かれての栄誉というべきか。
そうして、昌平黌(しょうへいこう)の官舎に移る。それからは、将軍はじめ諸大名にまねかれて講義をしたようだ。
その儒学は陽朱陰王と評された。朱子学を奉ずる林家の塾に籍をおいたものの、陽明学への関心はその前から強くあり、こちらの方が本命だあったようなのだ。
佐藤一斎(さとういっさい、1772~1859)は、江戸時代中期からの儒学者だ。武家の生まれ。幼少から読書を好み、礼法や書道、それに武芸にも優れていたという。
1790年(寛政2年)の19歳にして、美濃国(みののくに)岩村藩との関係で、藩主松平乗保の近習となる。
とはいえ、それ以前から、前藩主松平乗蘊の第三子で、一斎の父がその烏帽子親となった4歳年長の松平衡()まつだいらまもる)と仲がよくて、儒学をともに学んでいたとも。
そのうちに、井上四明らの門に出入りしていたが、1791年(寛政3年)には、早々職を辞す。
それからは、中井竹山と林錦峯について儒学を学ぶ、そしての22歳の時には、幕府公認の家柄、大学頭林信敬に入門する。
その年、この信敬が没し、嗣子がなかったため、幕命によって衡が林家第8代の大学頭をつぐと、一斎は、その衡すなわち林述斎の門人となった。一斎と述斎は仲がよくて、34歳の時の一斎は、林家の塾長になっている。
なお、岩村藩との関係では、55歳の時、老臣の列に加えられる。
その後も、林家の門人という私的な立場にいて、林述斎が没した年の1841年末(天保12年)に70歳で幕府の儒臣となる。「おかみ」に招かれての栄誉というべきか。
そうして、昌平黌(しょうへいこう)の官舎に移る。それからは、将軍はじめ諸大名にまねかれて講義をしたようだ。
その儒学は陽朱陰王と評された。朱子学を奉ずる林家の塾に籍をおいたものの、陽明学への関心はその前から強くあり、こちらの方が本命だあったようなのだ。
その証拠に、一斎の門下には、佐久間象山、横井小南、中村正直、山田方国などの面々がズラリと並んでいて、そこからの系統を含めると、さながら「山の如し」か。とりわけ、佐久間象山の門下には、吉田松陰がいるのを忘れてはなるまい。
学風については、例えば、こうある。
いわく、「少にして学べば壮にして為すことあり。壮にして学べば老いて衰えず。老にして学べば死して朽(く)ちず。」(「言行四録」)
また、始祖・王陽明(おうようめい)の中心概念としての「知行合一(ちごうごういつ)」のすすめとしては、こういう。
「心の官は則ち思うなり。思うの字(じ)は只だ是(こ)れ工夫の字のみ。思えば則ち愈(いよいよ)実なり。その篤実なるよりして之を行(こう)と謂(い)い、其(そ)の精明(せいめい)なるよりして之を知と謂う。知行(ちぎょう)は一の思うの字に帰(き)す。」(「言行四録」)
変わったところでは、次のような下りを紹介しておこう。
「世に一種の心学と称する者あり。女子、小人に於いては寸益(すんえき)無きに非ず。然(しか)れども要するに郷愿(きょうげん)の類たり。士君子にして此(これ)を学べば、則(すなわ)ち流俗(りゅうぞく)にしずみ、義気(ぎき)を失い。尤(もっと)も武弁の宜(よろ)しき所に非ず。人主(じんしゅ)誤って之れを用いば、士気をして怯懦(きょうだ)ならしめむ。殆ど不可なり。」(「言行四録」)
これなどは、かなりの程度断定口調によるもので、学者としてわざわざここまでいうのは、色々あって黙視できなかったのであろうか。見られるように、商人出身の石田梅岩が唱える心学を通俗平凡なものとしている、ならば比較相対としての、「士君子」の歩む道はそれほどに尊いのだろうかと、勘ぐってみたくもなろう。
概して、一斎によるかような論難は、当時の社会的風潮を、考慮しようとも、多分に「いただけない」。岬龍一郎氏も、その著書の中で、「学問は決して武士だけのものではなく、難しいから正しいというわけでもない」(「現代語抄訳ー言行四録」PHP研究所、2005)とされているところだ。思うに、一斎にはこのような場合、その道の大家として泰然自若を装っていれば、それはそれでよいのではないだろうか。
(続く)
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「世に一種の心学と称する者あり。女子、小人に於いては寸益(すんえき)無きに非ず。然(しか)れども要するに郷愿(きょうげん)の類たり。士君子にして此(これ)を学べば、則(すなわ)ち流俗(りゅうぞく)にしずみ、義気(ぎき)を失い。尤(もっと)も武弁の宜(よろ)しき所に非ず。人主(じんしゅ)誤って之れを用いば、士気をして怯懦(きょうだ)ならしめむ。殆ど不可なり。」(「言行四録」)
これなどは、かなりの程度断定口調によるもので、学者としてわざわざここまでいうのは、色々あって黙視できなかったのであろうか。見られるように、商人出身の石田梅岩が唱える心学を通俗平凡なものとしている、ならば比較相対としての、「士君子」の歩む道はそれほどに尊いのだろうかと、勘ぐってみたくもなろう。
概して、一斎によるかような論難は、当時の社会的風潮を、考慮しようとも、多分に「いただけない」。岬龍一郎氏も、その著書の中で、「学問は決して武士だけのものではなく、難しいから正しいというわけでもない」(「現代語抄訳ー言行四録」PHP研究所、2005)とされているところだ。思うに、一斎にはこのような場合、その道の大家として泰然自若を装っていれば、それはそれでよいのではないだろうか。
(続く)
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