○203の4『自然と人間の歴史・日本篇』陽明学(佐藤一斎)の発達(18~19世紀)

2021-02-11 20:35:44 | Weblog
203の4『自然と人間の歴史・日本篇』陽明学(佐藤一斎)の発達(18~19世紀)


 佐藤一斎(さとういっさい、1772~1859)は、江戸時代中期からの儒学者だ。武家の生まれ。幼少から読書を好み、礼法や書道、それに武芸にも優れていたという。
 1790年(寛政2年)の19歳にして、美濃国(みののくに)岩村藩との関係で、藩主松平乗保の近習となる。
 とはいえ、それ以前から、前藩主松平乗蘊の第三子で、一斎の父がその烏帽子親となった4歳年長の松平衡()まつだいらまもる)と仲がよくて、儒学をともに学んでいたとも。
 そのうちに、井上四明らの門に出入りしていたが、1791年(寛政3年)には、早々職を辞す。
 それからは、中井竹山と林錦峯について儒学を学ぶ、そしての22歳の時には、幕府公認の家柄、大学頭林信敬に入門する。
 その年、この信敬が没し、嗣子がなかったため、幕命によって衡が林家第8代の大学頭をつぐと、一斎は、その衡すなわち林述斎の門人となった。一斎と述斎は仲がよくて、34歳の時の一斎は、林家の塾長になっている。
 なお、岩村藩との関係では、55歳の時、老臣の列に加えられる。
 その後も、林家の門人という私的な立場にいて、林述斎が没した年の1841年末(天保12年)に70歳で幕府の儒臣となる。「おかみ」に招かれての栄誉というべきか。
 そうして、昌平黌(しょうへいこう)の官舎に移る。それからは、将軍はじめ諸大名にまねかれて講義をしたようだ。
 その儒学は陽朱陰王と評された。朱子学を奉ずる林家の塾に籍をおいたものの、陽明学への関心はその前から強くあり、こちらの方が本命だあったようなのだ。

 その証拠に、一斎の門下には、佐久間象山、横井小南、中村正直、山田方国などの面々がズラリと並んでいて、そこからの系統を含めると、さながら「山の如し」か。とりわけ、佐久間象山の門下には、吉田松陰がいるのを忘れてはなるまい。

 学風については、例えば、こうある。

 いわく、「少にして学べば壮にして為すことあり。壮にして学べば老いて衰えず。老にして学べば死して朽(く)ちず。」(「言行四録」)

 また、始祖・王陽明(おうようめい)の中心概念としての「知行合一(ちごうごういつ)」のすすめとしては、こういう。

「心の官は則ち思うなり。思うの字(じ)は只だ是(こ)れ工夫の字のみ。思えば則ち愈(いよいよ)実なり。その篤実なるよりして之を行(こう)と謂(い)い、其(そ)の精明(せいめい)なるよりして之を知と謂う。知行(ちぎょう)は一の思うの字に帰(き)す。」(「言行四録」)


 変わったところでは、次のような下りを紹介しておこう。

 「世に一種の心学と称する者あり。女子、小人に於いては寸益(すんえき)無きに非ず。然(しか)れども要するに郷愿(きょうげん)の類たり。士君子にして此(これ)を学べば、則(すなわ)ち流俗(りゅうぞく)にしずみ、義気(ぎき)を失い。尤(もっと)も武弁の宜(よろ)しき所に非ず。人主(じんしゅ)誤って之れを用いば、士気をして怯懦(きょうだ)ならしめむ。殆ど不可なり。」(「言行四録」)
 
 これなどは、かなりの程度断定口調によるもので、学者としてわざわざここまでいうのは、色々あって黙視できなかったのであろうか。見られるように、商人出身の石田梅岩が唱える心学を通俗平凡なものとしている、ならば比較相対としての、「士君子」の歩む道はそれほどに尊いのだろうかと、勘ぐってみたくもなろう。
 概して、一斎によるかような論難は、当時の社会的風潮を、考慮しようとも、多分に「いただけない」。岬龍一郎氏も、その著書の中で、「学問は決して武士だけのものではなく、難しいから正しいというわけでもない」(「現代語抄訳ー言行四録」PHP研究所、2005)とされているところだ。思うに、一斎にはこのような場合、その道の大家として泰然自若を装っていれば、それはそれでよいのではないだろうか。

(続く)


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203の3『自然と人間の歴史・日本篇』心学の発達(石田梅岩とその弟子たち、18~19世紀)

2021-02-11 18:37:30 | Weblog
203の3『自然と人間の歴史・日本篇』心学の発達(石田梅岩とその弟子たち、18~19世紀)


 石田梅岩(1685~1744)は、江戸時代中期の、亀岡(現在の京都府亀岡市)の生まれ。後の自身が、「父の名は浄心といい、その教育は厳しくただしかった」と記す。幼くして自立心が養われたのは、間違いあるまい。そのためか、生家近くの遊び場所だった八幡神社の神官や春現寺の禅僧からも学ぶ。

 11歳で京都に丁稚奉公に出る。よく働いたものの、15歳の時に奉公先が倒産し、やむなく亀岡に帰る。実家にいるときも課題を見つけて勉強を続けた模様。

 23歳で再び京都に奉公に出る。その頃であろうか、「神道を介して、人の人たるべき道を説きたい」という志を立てたらしい。


 その後の宝永の大火で京都市中が灰燼に帰すと、梅岩は世を正そうと辻に立ち説法を始める。商人たちは、その主張にだんだんに関心を示していったという。


 そして迎えた1729年(享保14年)には、京都車屋町通御池上ル所東側(現在の二条御池駅東側)の借家にて私塾を開く。
  
 その学風は、自身の体験に根ざしたものであった。例えば、こうある。

 「商人の買利天下お召しの禄なり。それを汝、独り売買の利ばかりを欲心にて道なしと云い、承認を憎んで断絶せんとす。」(「都鄙(とひ)問答」)
 また、儒教の教えから「仁義礼智信」を選び、これを生活の指針として常に心掛け、いうなれば、それを商人道に置き換えて商売を実施すべきであると説く。

 みられるように、大した度胸であるというほかはあるまい。身分に厳しい江戸時代でありながら、わけても商人の立場を肯定し、その社会的役割を表舞台に出したことでは、時代の最先端を歩いた人物として、特筆に値しよう。

 そのうちに弟子も育ってきて、手島堵庵(てしまとあん)や中沢道二(なかざわどうじ)らによって、その主張は寺子屋などを通じて京都、大坂の外にも広められていく。さらには、幕府や諸藩の中にも支持が広まることで、19世紀初め頃になると、庶民道徳の一典型を成していくのであった。
 ただし、それはもちろん封建秩序の域を出るものではなく、時代が幕末の動乱期にさしかかるにつれ、半ば近くに衰退していったようである。


(続く)

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