◻️新49『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、鶴田騒動)

2021-11-04 19:31:04 | Weblog
新49『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、鶴田騒動)

 1867年(慶応3年、明治元年)11月から1870年(明治3年)8月にかけて、当時の美作五郡の一部(竜野・鶴田藩領となっていた)で、一風変わった騒動が起きた。これを「鶴田騒動」(だづたそうどう)と呼ぶ。

 その場所というのは、旭川中流左岸に位置し、南東の端にて支流の一つ、滝谷川を吸収している。地内には、鶴田城跡があって、垪和氏(はがし)の居城があった。垪和氏は、美作国久米北条郡垪和(現在は岡山市)から発祥した国衆にして、 1524年(大永4年)、垪和為長はこの城を修築して本拠地としていた。その為長は天正年間に毛利輝元に味方していたのだが、宇喜多直家勢と交戦して敗れた。

 そこでこの両藩のうち、鶴田藩がなぜ美作の地に突如出現したかについては、幕末ならではの事情があった。その前年の1866年(慶応2年)のこと、幕府による第二次長州征伐が行われていた。
 その時、大村益次郎(おおむらますじろう)が率いる長州軍は、徳川家門(親藩)としての松平氏(甲府徳川綱重の子・松平清武が藩祖)の居城浜田城(現在の鳥取県)へと進攻した。藩主・松平武聰(第15代将軍・慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った親藩の4代目、石見国(いわみのくに)浜田で6万1千石を領していた)は、浜田口を担当していた。しかし、長州軍に攻め立てられて、ほとんど戦わずして居城を放棄して出雲国杵築(きつき、現在の出雲市大社町)、その後松江城に逃れた。一説には、この時「居城を焼失した」(角川書店「角川日本地名辞典」33岡山県、1978)。
 もはや浜田に戻れないということであり、同年暮、幕府から浜田に復帰するまでということで、蔵米2万石を給される。翌1867年(慶応3年)、元からの飛地領(とびちりょう)である美作国久米北条郡鶴田領1000石余のうち里公文中村に入り、立藩した。その後、美作五郡のうちから2万石を割いて与えられ、つごう約2万8千石となる。和田南村鶴田(たづた)と里公文中村に役所を置いたことから、「鶴田藩」と呼ばれる。
 なお、ここに鶴田とあるのは、戦後の1955年2月に新設合併にて久米郡福渡町と鶴田村が福渡町に統一される。また、1967年(昭和42年)1月になると御津郡建部町と久米郡福渡町が合併して建部町が誕生し、さらに2007年1月には岡山市、建部町、瀬戸町の1市2町が合併して、人口約70万人の新しい岡山市が誕生したことで、以来、岡山市北区に属している。

 1868年(明治元年)1月に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まった。このうち鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは幕府軍に属して参戦したものの、もはや幕府に勝ち目はなかった。この戦いの前から、いち早く朝廷側に付いていた備前藩が美作の幕領(いわゆる天領)と、佐幕側に付いている津山藩などの鎮撫の命を受け、この地に進駐した。
 このおり、美作及び旧竜野藩領にやってきた備前岡山藩の部隊は、旧竜野藩預かり所において「王政復古」を土地の人に告げる。これで、加増されていた幕府領(前述、2万7863石)は、維新政府側に立った岡山藩が鎮撫したのち播磨国(はりまのくに)竜野藩(たつのはん)領所支配に戻されたこととされる。この時、一説には、その「加増された幕府領は、維新政府側に立った岡山藩が鎮撫(ちんぶ)した時に岡山藩が出した年貢半減の触れを巡って農民騒動が起こっていた」(角川書店、前掲書)とある。
 しかして、かかる出来事に直面した農民たちは「当年之処御年貢半免、未歳末納之分も其儘にて御用捨」、つまり慶応3年分の年貢未納分は切り捨て、翌慶応4年分は半分免除と理解し、大いに喜んだという。
 ところが、同年2月に入ると、この地は再び竜野藩預かり所への支配替えになって、当該年貢の減免はご無沙汰となってしまう。さらに追い打ちをかけるかのように、河岸積みの年貢米を舟に積み込んで川を下らせるとの触れを出したものだから、美作五郡の村々は憤怒に包まれたという。同年4月に入ると、村々で、当初の備前藩の触れのとおり、年貢の減免がなるように「出訴」しようという相談が進んでいく。
 そして6日、同様の主旨にて備前岡山藩への強訴が行われた。ところが、こうした農民の団結ぶりに対し、当地村々の庄屋(村役人層)の態度は大きく異なっていた。彼らは、「小前」(平百姓層・一般農民)が自分達の批判もしていることに心外の念を強く持っていた。このまま進んでいくと、村々の勘定帳面の公開改算を目止めるようにもなっていくかも知れない、などと危ぶんだ。そこで庄屋たちは、小前たちが徒党を組んで年貢減免を要求しているとして非難するとともに、竜野藩にこの動きを取り締まるよう訴えに行く。

 もう一方の当事者である鶴田藩の成り行きは、もっと複雑であったろう。朝廷に対して藩地回復の哀願をしただけでは足らずに、家老小関隼人の自刃謝罪により、同年閏4月、なんとか藩主の謹慎が解け、領地も返還される旨の内意をもらうまでに漕ぎ着けた。王政復古後の1868年(明治元年)5月には、元々の6万1千石に加増される。
 かくて、この騒動のその後については、「この騒動は一旦鎮圧されたが火種は残っており、鶴田藩支配後は庄屋の不正を追及する村方騒動として激化した。当初、竜野藩は陰から農民側を応援していたが、」(角川書店、前掲書)と説明されているように、双方による争いの決着はつかないままに、同年末、鶴田藩は、維新政府から鎮圧を命じられて農民弾圧に転じた。その後、1981年(明治4年)の廃藩置県により鶴田県となる。

 その辺り、現在の久米郡久米南町出身の社会主義者、片山潜は、こう述懐している。
 「浜田藩は遠い石見の国にあったのだが、ほかの大名との戦いに敗れて、1867年、美作国にきて領主におさまったのである。美作にくると、城を築くといって農民を容赦なく徴集して、地ならしをはじめた。幸いなことにすぐ革命になった。浜田も他の大名と同じように東京に移ってしまい、築城は中止になった。藩主とともに美作にきた浜田藩士たちは住居がなかった。大きな家をもった住民は彼らに住居を提供すべしというお布命がでた。私の村にも四家族の士族が住むことになり、私の家にその一家族がきて、離れを占領した。
 村に士族が現れるとともに、村の家父長的空気のなかに、都風の風俗が激流のように流れこんできた。これはただちに、農民に悪い影響ををおよぼした。やがて隣の塩ノ内村に家が建ち、士族たちはそこへ移っていった。」 (片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)
 
 やがて明治の3年目、1869年に至って、明治新政府による差配へと移って行く。1871年(明治4年)の廃藩置県により鶴田県となるのであったが、当時のめまぐるしく移り変わる国家変革の状況下で、新しい秩序ができていない間での、地方における主導権を巡る争いが現出していたことを、現代に伝えている。

(続く)

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197○○『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の資本家(大商人の成長、三井、鴻池など)

2021-11-04 08:11:00 | Weblog
197○○『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の資本家(大商人の成長、三井、鴻池など)

 幕府草創期から歳が重なるにつれ、商業や金融業はしだいに発展の度合いをつよめつつあった。幕府による「公金(江戸)為替」においては、大坂城御金蔵を幕府財政に送金するための手段で、御用両替商が介在する。これを三井の例でいうと、井原西鶴の『日本永代蔵』にこう紹介されている。


 「商ひの道はある物、三井九郎右衛門(正しくは三井八郎右衛門・引用者)といふ男、手金の光むかし小判の駿河町と云所に、面九間の四十間に棟高く長屋作りして、新棚を出し、万(よろず)現銀売にかけねなしと相定め、四十余人利発手代を追まはし、一人一色の役目、たとえば金襴類一人、日野郡内絹類一人、羽二重一人、紗綾類一人、麻袴類一人、紅類一人、麻袴類一人、毛織類一人、此のごとく手わけをして天鵞絨一寸四方、緞子毛貫袋になる程、緋繻子、鑓印長、竜門の袖覆輪かたかたにても物の自由に売り渡しぬ。

 殊更俄目見えの熨火目、いそぎの羽織などは其使をまたせ数十人の手前細工人立ちならび、即座に仕立てこれを渡しぬ。

 さによって家栄え毎日金子百五十両づつならしに商売しげるとなり。世の重宝是ぞかし。此の亭主を見るに、目鼻手足あって、外の人にかはった所のなく、家職にかはってかしこし。大商人の手本なるべし。」(「日本永代蔵」)

 ここにある三井の店の繁盛ぶりは有名であったが、その飛躍的発展を導いたのが、三井八郎兵衛高利による、例えば「万現銀売にかけねなしと相定め」と紹介するような、奇抜な商法なのであった。西鶴が、これを駆使している三井流商売の有り様を、「大商人の手本なるべし」と最大級に持ち上げ、事細かに述べていて、なかなかに興味深い。

 その高利は、1622年(元和8年)、松阪の酒屋であり質屋である店の8人兄弟の末子として生まれた。1652年(承応2年)、屋敷地を本家とは別に購入して独立し、金融業と商業を手掛ける。金融業では、大名やその家中に対する貸付にとどまらず、農村に対する抵当をとっての貸付にも手を染めた。商いでは、米の売買を行う。

 52歳からの高利は、江戸と京都への呉服の出店を決意する。1673年(延宝元年)に店を開いた時、掲げた暖簾の名前は、「越後屋八郎右衛門」であった。高利は、店前売という新しい販売を始めた。その取引は、現金売りであり、薄利多売をめざすものとなる。商売繁盛のため、京都の仕入店も拡張されていく。

 1683年(元和3年)頃、その三井が江戸市中に配った木製の引札(現代で言う広告ちらし)には、こう書かれていた。


「駿河町(するがちょう)越後屋八郎右衛門申上げ候。今度私工夫を以て、呉服物何に依らず、格別下直(げじき)に売出し申し候間、私店え御出で御買下さるべく候。尤(もっと)も手前割合勘定を以て売出し候上は、一銭にても、空直(そらね)申上げず候間、御直(おね)ぎり遊ばされ候ても、負けは御座なく候。勿論代物は、即座に御払下さるべく候。一銭にても延金(のべきん)には仕らず候。以上」(「稿本三井家史料」)

 この文中に「空直(そらね)」とあるのは、相場よりずっと高くつけてある値段なので、「御直(おね)ぎり遊ばされ候ても、負けは御座なく候」、つまり値引きはしないとこう公約した。続いて「一銭にても延金(のべきん)には仕らず候」とあることから、代金は現金で行い、後日の代金決済にはしないことも宣言した。


 1687年(貞享4年)になると、三井は江戸の従来の呉服店の向かい側に綿店を新設した。関東一円で綿や木綿、それに絹織物を買い集め、これまだ薄利多売で活発な商いを行う。1691年(元禄4年)になると、大坂に呉服店を開店した。

 1683年(天和3年)、江戸の呉服店の隣に、三井の江戸両替店を開く。1686年(貞享3年)には、高利は家族を引き連れ、松阪から京都に住まいを移した。1689年(元禄2年)、彼は江戸の本両替仲間への加入が認められる。これは、大坂でいえば十人両替に当たるもので、これで特別の格式の両替商に就任したことになる。彼は、その勢いに乗って京都、そして大坂へと商売の拠点を拡充していくことになる。

 1691年(元禄4年)の彼は、大坂高麗橋一丁目に、江戸両替店の出店としての、大坂両替店を開設するに至り、ここに中継地としての京都を挟んで、東西に両替商としての商売の体制が整ったことになる。

 この両替屋の商売の相手先は、主に幕府の勘定方と諸藩であった。武士階級からは、公金為替を請け負うようになっている。これは、天下の台所である大坂から消費地であり、政治の中枢である江戸への送金を頼まれるものだ。
 大坂の両替店では、幕府から依頼された送金用の金銭、つまり幕府の大坂での公金を渡されると、江戸に取引のある問屋商人に貸し付ける。その際には、複数の手形に分割して貸し付けるのだ。両替商は、その商人からは「確かに受け取りました」という支払い用の為替手形を受け取る。この支払用の手形は、「下為替」(したかわせ)と呼ばれる。
 両替商は、それを江戸に送って、江戸では、彼らと取引のある江戸の商人から代金を取り立て、その現金をもって大坂の両替商に代わって幕府に納付するのである。これだと、江戸から大坂への商品代金の送金と、大坂から江戸へ向かっての公金輸送とが、うまい具合に相殺されることになっている。

 ところで、井原西鶴は、1642年(寛永19年)に、大坂の中流町人の家に生まれた。1688年(貞享5年、元禄元年)に著した『日本永代蔵』にて、町人の心意気する持論を展開した。その「巻一 初午(はつむま)は乗て来る仕合(しあはせ)」には、こうある。

 「天道言(ものいは)ずして、国土に恵みふかし。人は実あつて、偽(いつは)りおほし。其心ンは本(もと)虚にして、物に応じて跡なし。是(これ)、善悪の中に立(たつ)て、すぐなる今の御ン代を、ゆたかにわたるは、人の人たるがゆへに、常の人にはあらず。一生一大事、身を過(すぐ)るの業(わざ)、士農工商の外(ほか)、出家、神職にかぎらず。始末大明神の御詫宣にまかせ、金銀を溜(たむ)べし。是、二親の外に、命の親なり。人間、長くみれば、朝(あした)をしらず、短くおもへば、夕(ゆふべ)におどろく。
 されば天地は万物の逆旅(げきりよ)。光陰は百代(はくたい)の過客、浮世は夢といふ。時の間(ま)の煙、死すれば何ぞ、金銀、瓦石(ぐはせき)にはおとれり。黄泉の用には立(たち)がたし。然りといへども、残して、子孫のためとはなりぬ。」

 おりしも、1683年(天和3年)には、三井高利が駿河町で「現銀掛け値なし」の商法を始めていた。それは、時代は商人文化が咲き出した頃のことである。そこで、物語の主人公はいよいよ根本道場に立ち入り、次のように言ってのける。

 「ひそかに思ふに、世に有程の願ひ、何によらず、銀徳にて叶はざる事、天が下に五つ有。それより外はなかりき。是にましたる宝船の有べきや。見ぬ嶋の鬼の持(もち)し隠れ笠、かくれ簔も、暴雨(にはかあめ)の役に立(たゝ)ねば、手遠きねがひを捨(すて)て、近道に、それぞれの家職をはげむべし。福徳は、其身の堅固に有。朝夕、油断する事なかれ。殊更、世の仁義を本(もと)として、神仏をまつるべし。是、和国の風俗なり。」 

 ここに言われているのは、生・老・病・死・苦以外のことは全部、何とでもなる、つまりうまくいくと言うのである。これは、武家支配の時代において農・工とともに下位に置かれていた商人としては、随分と思い切った発言だと言わねばならない。

 これの時代背景としては、西鶴が生まれた年より6年前の1636年(寛永13年)、幕府は中国から輸入していた永楽通宝(永楽銭)に代わるものとして、寛永通宝の鋳造が始まったことがある。この寛永通宝の流通が始められたことによって、金・銀貨を本位貨幣、銭を補助貨幣とする貨幣制度が確立していったのである。

 さて、この本には、巻五の第五「三匁五分 曙の金」において、津山の蔵合屋(ぞうごうや)という豪商のことが出てくる。蔵合屋は、津山の二階町に9つもの蔵を持っていた豪商ということになっている。同家の元は院庄で代々酒造業を営んでいたのが、森長政による城造りの際に津山市街に移ってきたらしい。いつの頃からか、藩から与えられた、津山城下町の町方の行政を担う役である。大年寄と、各町内に置かれた町年寄とある中で、大年寄の方は全部で5人のうち2人は見習いであって、蔵合家の蔵合孫左右衛門は藩政初期の大年寄の筆頭、三十人扶持を与えられたことがわかっている。


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 今度は、主に大坂で商いをした鴻池家の商売のあり方から、暫し紹介しよう。鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん、正成、1608~1693)といえば、江戸時代の大坂の豪商鴻池家の2代目当主だ。

 その前の鴻池家の始祖山中新六といえば、尼子氏の武将、山中鹿之介の長男といわれ、鹿之助が備中の阿井の渡しで討ち死した後、新六は摂津国川辺郡鴻池村に大叔父の山中信直を頼って移り住む。そして、もはや武士は捨てて、商売に生きようと一念発起する。

 それからしばらくしての1600年(慶長5年)には、新六は、鴻池村において、従来の濁酒から清酒の醸造するのに成功する。


 それからまた時が経過しての1639年(寛永16年)、鹿之助の孫にあたる善右衛門は、大坂に分家し、大坂の今橋において店を構え、いうなれば、大坂鴻池の始祖となる。

 1650年(慶安3年)よりは、酒造業に運送業を重ね、1656年(明暦2年)には両替商を始める。そのうちに、大名貸で富をなし、十人両替となる。2代目は、喜右衛門を名乗る。

 3代の宗利(1667~1736)からは、善右衛門を襲名する。宗利の時,河内に鴻池新田を開発するなど、諸藩の御用商人として活躍していく。1688年(元禄元年)の時点で、鴻池家と取引のあった大名は、一説には、32藩にも及んだというから、驚きだ。

(続く)

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