新49『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、鶴田騒動)
1867年(慶応3年、明治元年)11月から1870年(明治3年)8月にかけて、当時の美作五郡の一部(竜野・鶴田藩領となっていた)で、一風変わった騒動が起きた。これを「鶴田騒動」(だづたそうどう)と呼ぶ。
その場所というのは、旭川中流左岸に位置し、南東の端にて支流の一つ、滝谷川を吸収している。地内には、鶴田城跡があって、垪和氏(はがし)の居城があった。垪和氏は、美作国久米北条郡垪和(現在は岡山市)から発祥した国衆にして、 1524年(大永4年)、垪和為長はこの城を修築して本拠地としていた。その為長は天正年間に毛利輝元に味方していたのだが、宇喜多直家勢と交戦して敗れた。
そこでこの両藩のうち、鶴田藩がなぜ美作の地に突如出現したかについては、幕末ならではの事情があった。その前年の1866年(慶応2年)のこと、幕府による第二次長州征伐が行われていた。
その時、大村益次郎(おおむらますじろう)が率いる長州軍は、徳川家門(親藩)としての松平氏(甲府徳川綱重の子・松平清武が藩祖)の居城浜田城(現在の鳥取県)へと進攻した。藩主・松平武聰(第15代将軍・慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った親藩の4代目、石見国(いわみのくに)浜田で6万1千石を領していた)は、浜田口を担当していた。しかし、長州軍に攻め立てられて、ほとんど戦わずして居城を放棄して出雲国杵築(きつき、現在の出雲市大社町)、その後松江城に逃れた。一説には、この時「居城を焼失した」(角川書店「角川日本地名辞典」33岡山県、1978)。
もはや浜田に戻れないということであり、同年暮、幕府から浜田に復帰するまでということで、蔵米2万石を給される。翌1867年(慶応3年)、元からの飛地領(とびちりょう)である美作国久米北条郡鶴田領1000石余のうち里公文中村に入り、立藩した。その後、美作五郡のうちから2万石を割いて与えられ、つごう約2万8千石となる。和田南村鶴田(たづた)と里公文中村に役所を置いたことから、「鶴田藩」と呼ばれる。
なお、ここに鶴田とあるのは、戦後の1955年2月に新設合併にて久米郡福渡町と鶴田村が福渡町に統一される。また、1967年(昭和42年)1月になると御津郡建部町と久米郡福渡町が合併して建部町が誕生し、さらに2007年1月には岡山市、建部町、瀬戸町の1市2町が合併して、人口約70万人の新しい岡山市が誕生したことで、以来、岡山市北区に属している。
1868年(明治元年)1月に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まった。このうち鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは幕府軍に属して参戦したものの、もはや幕府に勝ち目はなかった。この戦いの前から、いち早く朝廷側に付いていた備前藩が美作の幕領(いわゆる天領)と、佐幕側に付いている津山藩などの鎮撫の命を受け、この地に進駐した。
このおり、美作及び旧竜野藩領にやってきた備前岡山藩の部隊は、旧竜野藩預かり所において「王政復古」を土地の人に告げる。これで、加増されていた幕府領(前述、2万7863石)は、維新政府側に立った岡山藩が鎮撫したのち播磨国(はりまのくに)竜野藩(たつのはん)領所支配に戻されたこととされる。この時、一説には、その「加増された幕府領は、維新政府側に立った岡山藩が鎮撫(ちんぶ)した時に岡山藩が出した年貢半減の触れを巡って農民騒動が起こっていた」(角川書店、前掲書)とある。
しかして、かかる出来事に直面した農民たちは「当年之処御年貢半免、未歳末納之分も其儘にて御用捨」、つまり慶応3年分の年貢未納分は切り捨て、翌慶応4年分は半分免除と理解し、大いに喜んだという。
ところが、同年2月に入ると、この地は再び竜野藩預かり所への支配替えになって、当該年貢の減免はご無沙汰となってしまう。さらに追い打ちをかけるかのように、河岸積みの年貢米を舟に積み込んで川を下らせるとの触れを出したものだから、美作五郡の村々は憤怒に包まれたという。同年4月に入ると、村々で、当初の備前藩の触れのとおり、年貢の減免がなるように「出訴」しようという相談が進んでいく。
ところが、同年2月に入ると、この地は再び竜野藩預かり所への支配替えになって、当該年貢の減免はご無沙汰となってしまう。さらに追い打ちをかけるかのように、河岸積みの年貢米を舟に積み込んで川を下らせるとの触れを出したものだから、美作五郡の村々は憤怒に包まれたという。同年4月に入ると、村々で、当初の備前藩の触れのとおり、年貢の減免がなるように「出訴」しようという相談が進んでいく。
そして6日、同様の主旨にて備前岡山藩への強訴が行われた。ところが、こうした農民の団結ぶりに対し、当地村々の庄屋(村役人層)の態度は大きく異なっていた。彼らは、「小前」(平百姓層・一般農民)が自分達の批判もしていることに心外の念を強く持っていた。このまま進んでいくと、村々の勘定帳面の公開改算を目止めるようにもなっていくかも知れない、などと危ぶんだ。そこで庄屋たちは、小前たちが徒党を組んで年貢減免を要求しているとして非難するとともに、竜野藩にこの動きを取り締まるよう訴えに行く。
もう一方の当事者である鶴田藩の成り行きは、もっと複雑であったろう。朝廷に対して藩地回復の哀願をしただけでは足らずに、家老小関隼人の自刃謝罪により、同年閏4月、なんとか藩主の謹慎が解け、領地も返還される旨の内意をもらうまでに漕ぎ着けた。王政復古後の1868年(明治元年)5月には、元々の6万1千石に加増される。
かくて、この騒動のその後については、「この騒動は一旦鎮圧されたが火種は残っており、鶴田藩支配後は庄屋の不正を追及する村方騒動として激化した。当初、竜野藩は陰から農民側を応援していたが、」(角川書店、前掲書)と説明されているように、双方による争いの決着はつかないままに、同年末、鶴田藩は、維新政府から鎮圧を命じられて農民弾圧に転じた。その後、1981年(明治4年)の廃藩置県により鶴田県となる。
その辺り、現在の久米郡久米南町出身の社会主義者、片山潜は、こう述懐している。
「浜田藩は遠い石見の国にあったのだが、ほかの大名との戦いに敗れて、1867年、美作国にきて領主におさまったのである。美作にくると、城を築くといって農民を容赦なく徴集して、地ならしをはじめた。幸いなことにすぐ革命になった。浜田も他の大名と同じように東京に移ってしまい、築城は中止になった。藩主とともに美作にきた浜田藩士たちは住居がなかった。大きな家をもった住民は彼らに住居を提供すべしというお布命がでた。私の村にも四家族の士族が住むことになり、私の家にその一家族がきて、離れを占領した。
村に士族が現れるとともに、村の家父長的空気のなかに、都風の風俗が激流のように流れこんできた。これはただちに、農民に悪い影響ををおよぼした。やがて隣の塩ノ内村に家が建ち、士族たちはそこへ移っていった。」 (片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)
やがて明治の3年目、1869年に至って、明治新政府による差配へと移って行く。1871年(明治4年)の廃藩置県により鶴田県となるのであったが、当時のめまぐるしく移り変わる国家変革の状況下で、新しい秩序ができていない間での、地方における主導権を巡る争いが現出していたことを、現代に伝えている。
(続く)
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