新445『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)
馬越恭平(まごしきょうへい、1844~1933)は、実業家。備中国後月郡(現在の井原(いばら)市)の医者の家に生まれる。
馬越恭平(まごしきょうへい、1844~1933)は、実業家。備中国後月郡(現在の井原(いばら)市)の医者の家に生まれる。
どういう気持ちであったのだろうか、興譲館に学び、13歳にして、母方の叔父に当たる播磨屋仁平衛の世話にて、大坂の豪商・鴻池家(こうのいけけ)で丁稚奉公して働く。二年後にその働きぶりが認められ、仁平衛は自らの養子に恭平を迎え入れる。
その播磨屋は、徳川時代から諸大名の金銭の用達を務める商家であった。各藩が軍費を調達するのに、金銭を貸し付けていたという。
明治維新後は、表向き公宿になったらしいのだが、本人は何とか東京に出て新時代の経済界で飛躍したいと考える。それを養家が承知しなかったため、妻子と別れ播磨屋を去って上京する決意を固める。
播磨屋の事業で知り合いとなっていた大阪造幣寮の益田孝(ますだたかし、後の三井物産社長)の世話にて、東京の井上馨(かおる)の設立した先収会社(せんしゅうかいしゃ)に入るのが、1873年(明治6年)であった。やがて同社の解散を経て、その後身の三井物産が新設されてからはその社員として活躍をあらたにし、横浜支店長(1876)、本社常務理事、売買方専務を務める。その間、1871年勃発の西南戦争では、政府の政府軍を支援する仕事を引き受け、食糧調達に奔走する。
と、トントン拍子の出世であったようなのだが、やがて創立の時からの古参社員であった三井物産を退社して日本麦酒の経営立て直しに専念する。三井物産が大株主を務めていたため、馬越にその大仕事が託されたのである。
その後の1906年(明治39年)には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の三社の合同により設立した大日本麦酒の社長になる。新会社は、当時の日本ビール市場の7割以上を占めることで、互いに競争するよりは、それだけ独占的な経営を目指したのだろうか。中国に中国に工場を設立するなど海外にも進出、本人は「東洋のビール王」と呼ばれるまでの有名人になったようである。
そればかりか、帝国商業銀行頭取をはじめ、100以上の企業の役員を歴任したというから、驚きだ。衆議院議員にもなり、1924年(大正13年)には、勅撰の貴族院議員に選ばれる。
茶人としても知られる彼にして、何かしらの安らぎを得ていたのではないか。
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