新445『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

2021-11-16 18:40:10 | Weblog
新445『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

  馬越恭平(まごしきょうへい、1844~1933)は、実業家。備中国後月郡(現在の井原(いばら)市)の医者の家に生まれる。
 どういう気持ちであったのだろうか、興譲館に学び、13歳にして、母方の叔父に当たる播磨屋仁平衛の世話にて、大坂の豪商・鴻池家(こうのいけけ)で丁稚奉公して働く。二年後にその働きぶりが認められ、仁平衛は自らの養子に恭平を迎え入れる。
 その播磨屋は、徳川時代から諸大名の金銭の用達を務める商家であった。各藩が軍費を調達するのに、金銭を貸し付けていたという。
 明治維新後は、表向き公宿になったらしいのだが、本人は何とか東京に出て新時代の経済界で飛躍したいと考える。それを養家が承知しなかったため、妻子と別れ播磨屋を去って上京する決意を固める。
 播磨屋の事業で知り合いとなっていた大阪造幣寮の益田孝(ますだたかし、後の三井物産社長)の世話にて、東京の井上馨(かおる)の設立した先収会社(せんしゅうかいしゃ)に入るのが、1873年(明治6年)であった。やがて同社の解散を経て、その後身の三井物産が新設されてからはその社員として活躍をあらたにし、横浜支店長(1876)、本社常務理事、売買方専務を務める。その間、1871年勃発の西南戦争では、政府の政府軍を支援する仕事を引き受け、食糧調達に奔走する。
 と、トントン拍子の出世であったようなのだが、やがて創立の時からの古参社員であった三井物産を退社して日本麦酒の経営立て直しに専念する。三井物産が大株主を務めていたため、馬越にその大仕事が託されたのである。
 その後の1906年(明治39年)には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の三社の合同により設立した大日本麦酒の社長になる。新会社は、当時の日本ビール市場の7割以上を占めることで、互いに競争するよりは、それだけ独占的な経営を目指したのだろうか。中国に中国に工場を設立するなど海外にも進出、本人は「東洋のビール王」と呼ばれるまでの有名人になったようである。
 そればかりか、帝国商業銀行頭取をはじめ、100以上の企業の役員を歴任したというから、驚きだ。衆議院議員にもなり、1924年(大正13年)には、勅撰の貴族院議員に選ばれる。
 茶人としても知られる彼にして、何かしらの安らぎを得ていたのではないか。

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66『岡山の今昔』』備中松山城の修復・改築(江戸時代~現代)

2021-11-16 10:27:08 | Weblog
66『岡山の今昔』』備中松山城の修復・改築(江戸時代~現代)

 さて、この備中高梁には天下に名高い山城・備中松山城がある。2016年に建てられたという駅ビルの3階テラスから北の方角を仰ぎ見る。すると、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見通せる。かなり、遠くにあるようでもある。こんな風な角度で見えるだから、あそこまで登るには、かなりがんばらねば、と思われるのだが。交通の便では、JR伯備線高梁駅から車でふいご峠まで約10分だという。天守までは、そこから徒歩20分位というから、散歩の気分で登ってみるのはいかがであろうか。
  この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に乗っかっている。現存する山城としては日本一高いところに設けてある。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のまま、国の重要文化財に指定されている。
 
 顧みると、高梁の地は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは牛が横たわっている姿からの命名とされる、臥牛山を構成する4つの峰に含まれる。
 その景観だが、ここでは、戦国時代に三村氏が居城としていた時代からやや経って、江戸時代の初め、関ヶ原の戦いの後、西国目付として備中代官が置かれてからの城の拡張普請以来の姿を振り返ってみよう。
その時は、小堀正次、政一(後の遠州)親子が赴任してきて、主に修築が進められた。その後の展開では、水谷勝隆が城主となってから本格的な整備を進めていく。その中で、この城の天守が築造されるなど普請が鋭意進められ、ほぼ現在目にするような全容になったもののように考えられている。
 なお、この城は明治維新後にしばらくほぼ捨て置かれてあったのを、1873年(明治6年)に城の建物が払い下げられた時には、天守以外は放置され腐朽もしくは倒壊していた。ほぼ捨て置かれてあったのを、やがて諸般の厚志により再建・復興が取り組まれ、現在私たちが鑑賞できるような姿になっていった。
 そののちも、1997年に本丸の二つの建物が復元された。また櫓や門構えでいうと、1994年から本丸の五の平櫓、穴の平櫓、本丸腕木門(裏門)、本丸路地門と土塀などが復元されているという。
 いま幾つかの写真を並べてみると、現在の天守は小ぶりですっきりと、しかも凛々しい姿をしているではないか。大仰なものでないことが、かえって心地よい。麓なり遠くからは、三角帽子のような山容にも馴染んで写っている。数ある解説からは、「盆地にある高梁は、晩秋から冬にかけて濃い朝霧が発生します。雲海の中で陽光に輝く天守は神秘的」(雑誌「ノジュール」2017年9月号。「岩山に築かれた天空の要塞」国宝/現存天守、日本100名城。)と絶賛される。
 なぜそうなるのかというと、この時期は寒暖の差が相当にあって、城下の西を流れる高梁川から霧が発生しやすいからだと聞く。2階建ての小さな天守のたたずまいもさることながら、「大手門跡から三の丸、二の丸方面の石垣群を仰ぎ見る」(同)のは、これを撮ったカメラマンの目の付け所の良さを物語る、古武士然の趣(おもむ)きさえ感じさせる。
 そこでもう少し城に近づいての景観を伝える文と写真の中から、幾つかの場面を訪ね、眺めてみよう。最新の技術を凝らしてであろうか、新しく撮影されたであろう写真には、こんな解説が付いている。

 「この近世松山城は小松山に本丸、二の丸、三の丸を階段状に配した構造で、大松山との間には巨大な堀切が設けられている。天守は現存12天守の一つで二重二階構造となり、一階には暖をとるための囲炉裏が設けられている。また二階には宝剣を祀(まつ)った御社壇と呼ばれる一室が設けられている。」(中井 均「新編、日本の城」山川出版社、2021)

 「備中松山城の天守は初階に囲炉裏を設ける特異な構造となるが、なかでも二階には舞良戸によって仕切られた神棚が置かれ、十六神と三振の宝剣が祀られていた。天守が神の場となったことを示している。松本城では二十六夜様が、姫路城では刑部姫が祀られ、小田原城では最上階に摩利支天が祀られていた。」(同)

 なお、三の平櫓東土塀(国の重要文化財)は、四角いのと丸いのと二種類の鉄砲狭間を備えた土塀(造営は、1681~1683)を体感できる。また、二十櫓(国の重要文化財、1681~1683の造営)は質素ながら、今でも本丸を守ろうとしているかのようだ。さらに、よく引用されるのが「番所跡の高石垣」であって、こちらの手元では、シャッター・チャンスに恵まれた晴天に似つかわしい写真となっている、多数の書物などにて程よいアングルでさまざまに紹介されているだろうゆえ、その美しさを是非ご覧ありたい。

(続く)

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