新63『岡山の今昔』岡山城の築城(14~17世紀)
まずは、その前史から、かいつまんで紹介しよう。岡山城は、南北朝時代に後醍醐天皇を船上山に迎えた名和長年の一族、上神高直が、正平年間(1346~1369)に石山に築城したのが始まりという。城地も、石山の自然の台地をそのまま利用した位だったのではないだろうか。
その後、この地の豪族である金光氏の金光与次郎宗高が、石山に城砦を築く。それが、1573年(天正元年)に、上道郡沼城主であった宇喜多直家が時の城主金光宗高を謀殺し、石山の城砦に入城して城を大改築する。
次に、今日見るような形での岡山城の姿とは、1594年(文禄3年)に、宇喜多秀家の家臣、角南隼人を普請奉行として修築が始まったのだという。いつ竣工したのかを伝える確実な史料は見つかっていないものの(一説には1597年)、天守閣について、こんな話がなされている。
「岡山城天守はいわゆる複合式天守の典型的なもので、西方に塩蔵という二層櫓を付属させ、四層六階の極めて複雑な外観で、変化に富んでいた。
一般に天守は五階が望楼の役目をするが、この天守は五階が望楼所で六階には祭神三体が祀られ、それを模しにという信長の安土城天守の最上階には何が祀られいたのであろうか。」(大類伸監修「オールカラー日本の名城」上巻、人物往来社、1968)
17世紀に入ってからは、一風変わった構築物が岡山城本丸下段に構えられた、それが月見櫓であって、二重二階・一部地階の隅櫓だ。元和年間から寛永9年(1615~1632)にかけての建造だという。その時代の藩主・池田忠雄は、1610年(慶長15年)に幕府より淡路洲本6万3000石を与えられたが、1615年(元和元年)、兄忠継の死により岡山藩31万5000石を相続した人物だ。
その月見櫓だが、名前からして秋の月見をしている、魅惑的な景色を感じるのだが、その土台部分の石垣天端に小さな凹面が彫り込まれていて、「石狭間、笠石銃眼などと呼ばれるもので鉄砲狭間の一種」(中井均「新編、日本の城」山川出版社、2021)なのだと解説される。
(続く)
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まずは、その前史から、かいつまんで紹介しよう。岡山城は、南北朝時代に後醍醐天皇を船上山に迎えた名和長年の一族、上神高直が、正平年間(1346~1369)に石山に築城したのが始まりという。城地も、石山の自然の台地をそのまま利用した位だったのではないだろうか。
その後、この地の豪族である金光氏の金光与次郎宗高が、石山に城砦を築く。それが、1573年(天正元年)に、上道郡沼城主であった宇喜多直家が時の城主金光宗高を謀殺し、石山の城砦に入城して城を大改築する。
次に、今日見るような形での岡山城の姿とは、1594年(文禄3年)に、宇喜多秀家の家臣、角南隼人を普請奉行として修築が始まったのだという。いつ竣工したのかを伝える確実な史料は見つかっていないものの(一説には1597年)、天守閣について、こんな話がなされている。
「岡山城天守はいわゆる複合式天守の典型的なもので、西方に塩蔵という二層櫓を付属させ、四層六階の極めて複雑な外観で、変化に富んでいた。
一般に天守は五階が望楼の役目をするが、この天守は五階が望楼所で六階には祭神三体が祀られ、それを模しにという信長の安土城天守の最上階には何が祀られいたのであろうか。」(大類伸監修「オールカラー日本の名城」上巻、人物往来社、1968)
17世紀に入ってからは、一風変わった構築物が岡山城本丸下段に構えられた、それが月見櫓であって、二重二階・一部地階の隅櫓だ。元和年間から寛永9年(1615~1632)にかけての建造だという。その時代の藩主・池田忠雄は、1610年(慶長15年)に幕府より淡路洲本6万3000石を与えられたが、1615年(元和元年)、兄忠継の死により岡山藩31万5000石を相続した人物だ。
その月見櫓だが、名前からして秋の月見をしている、魅惑的な景色を感じるのだが、その土台部分の石垣天端に小さな凹面が彫り込まれていて、「石狭間、笠石銃眼などと呼ばれるもので鉄砲狭間の一種」(中井均「新編、日本の城」山川出版社、2021)なのだと解説される。
(続く)
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