77『自然と人間の歴史・日本篇』奈良時代の都と地方
702年(大宝2年)、持統天皇の後の文武天皇は難波(なにわ)への遷都を思い立ち、「行幸」をしていたところ、急逝し、その母が元明天皇として即位すると、今度は藤原宮の北方の奈良の地に遷都する動きとなっていき、708年(和銅元年)に平城京への遷都の詔(みことのり)が発せられる。710年(和銅3年)、巨額の費用と全国の人民の労役が投入されることで、ついに平城京の建設がなされ、遷都が行われた。
1959年(昭和34年)以降1998年まで発掘調査によって、平城京(平城宮)の全貌はかなり明らかになっている。その物理的範囲としては、東西約5.9キロメートル、南北が約4.8キロメートルに渡っていた。その北端には、周囲を5メートルくらいの高さの築地塀(つきじべい)で囲んだ中に、東西約1.3キロメートル、南北約1キロメートルの宮内があった。その宮内には天皇が暮らす内裏(だいり)や、大和政権の政治や儀式を行う大極殿(だいごくでん)、朝堂院(ちょうどういん)などが鎮座していた。「二官八省」と呼ばれる官庁の建物の大方もこの中にあって、1万人を下らないとも言われる役人が働いていたのだと推測されている。
この大いなる都を建設するのに当時られた人的・物的資源はどのくらいであったのだろうか。エジプトの大ピラミッドに動員された程ではないにしても、当時の倭(「わ」あるいは「やまと」)の国力としては「空前絶後」の工事てあったことは、想像するに難くない。わけても、畿内や近江など、都の近郊域では、労役が租庸調(そようちょう)の中の労役に当たる庸(よう)として、いわば半ば強制労働としてかり出されたのではなかったか。この事業に動員された人民の苦しい様子は、少なく見積もっても、相当数の苦役からの逃亡者があったことからも窺える。それは、古代エジプトのピラミッドづくりが奴隷労働でなかったことと比べても、対照的だったと言える。
我が故郷に関係するところでは、この令により、吉備の国が三分割された。吉備の「前つ国」と呼ばれていた東部の地域は「備前」、中央部を占めていた「中つ国」は「備中」に、そして西部に位置していた「後つ国」は「備後」となった。備後については、713年(和銅6年)、その北およそ半分が「美作」として分離された。いずれも、吉備の勢力の力を、ヤマトの勢力がそぎ落とそうとしていたことが窺える。
これらを反映して、『吉備総鎮守』の位置づけの吉備津神社も、吉備の国が三つに分けられる際にそれぞれの国へ分霊されてしまう。分国後の神社の所在地は、まず「備中」国の神社本殿が元々の吉備津神社であって、現在の岡山市北区吉備津、交通では岡山駅からJR吉備線に乗り、吉備津駅で下車して徒歩約10分のところにある。その本殿と拝殿はともに国宝に指定されている。この備中の吉備津神社本殿は、いったん焼失していたのを、1390年(明徳元年)、室町幕府三代目の将軍足利義満により再興の命が出て、1401年(応永8年)に本殿が出来上がり、還宮の儀が行われ、これが現在に引き継がれている。本殿が国宝になっているのは、「比翼入母屋造り」と呼ばれる珍しい建築様式に由来するのだろうか。それに加えて、建坪が約260平方メートルもあって、現存する本殿としては京都にある八坂神社に次ぐ大きさである。。
それから、「備前」国の神社の所在地は、現在の岡山市北区一宮に、そして「備後」の神社が現在の福山市新市町宮となっている。備前の方は、備中の社と、吉備の中山という標高170メートルばかりの小山を挟んで東西の関係にある。この両社は、元は一つの神社の二つの社であった可能性も指摘されているところだ(渋谷申博「諸国神社、一宮・二宮・三宮」山川出版社、2015)。さらに備後・吉備津神社については、備後国の一宮かどうかはわからないらしく、現在の広島県福山市にあるスサノオを祀る神社の方が一宮という説もあり、その文脈では、「備前国の場合と同じように備中国の吉備津神社が実質的な一宮であったとすると、当社はその出張所的な存在だったのかもしれない」(同)と言われる。
なお、この3国のうち「備中」に相当するのは、岡山県西部の倉敷(現在の倉敷市、早島町)、吉備路(現在の総社市)、井笠(現在の井原市、笠岡市、浅口市、矢掛町、里庄町)、高梁(現在の高梁市)、新見(現在の新見市)の5つの地域となっている。これらのうち、水島灘に浮かぶ高島、白石島、北木島、真鍋島、大飛島(おおひしま)、六島などは「笠岡沖(備中)諸島」と呼ばれる島々であって、その多くが互いを気遣うように肩を寄せ合い、水墨絵にあるように畳重なるように浮かんで見えており、ここが瀬戸内海国立公園の名所の一つであることを覗わせている。
加うるに、現在では「備後」の地域のみは、笠岡市用之江地区を残して大半が広島県(福山市周辺)へ移行しているが、この福山から西に芦田川を越えたところを南下していくと、奈良時代から歌に詠まれている景勝地・鞆の浦(とものうら)と、その周辺の仙酔島、つつじ島などがある。毎年のように新春にテレビ放送されるのは、宮城道雄の箏曲「春の海」の調べにのっての、この辺りの海であるのか、その番組を観る者は巧みに織りなす、瀬戸内ならではの絵図にいざなわれる。
「鞆の浦の磯の室木見むごとに相見し妹は忘らえめやも」(『万葉集』、730年(天平2年)12月、大伴旅人が九州太宰府に赴任していたのであるが、奈良の都に帰る途中で立ち寄り、歌ったとされる。)
これと同じ歌の書き下しなのだろうか、
「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき」(『万葉集』、730年(天平2年)12月。
この首の現代訳は、「死んだ妻が見た、鞆の浦のむろの木は、変わりなく不老不死であるけれじ、見た人は最早いない。」(折口信夫『日本文学全集・口訳万葉集』など、河出書房新社、2015より引用)
(続く)
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