○○193『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農村・農民

2017-01-26 21:34:02 | Weblog

193『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農村・農民

 江戸時代の前半期、農民たちはどんな生活を送っていたのだろうか。宮崎安貞は、畿内の農村を歩き回って、肥料の選び方、そのやり方、農具の選択、耕作の作法、播種(はしゅ)など、農事全般にわたる広範なノウハウをまとめ、1697年(元禄10年)、これを出版した。
 「惣じて農具をゑらび、それぞれの土地に随つて宜きを用ゆべし。凡農器の刄はやきとにぶきとにより其功をなす所遅速甚だ違ふ事なれども、おろかなる農人は大形其考なく、纔の費をいとひて能き農具を用ゆることなし。さて日々にいとなむ仕事の心よくてはか行くと骨おり苦勞してもはかのゆかざると、一年を積り一生の間をはからんには、まことに大なるちがひなるべし。」(宮崎安貞『農業全書』農事総論・耕作(かうさく)・第一28節)
 「殊に土地多く餘りありて人すくなく、其人力及びがたき所にては、取分け牛馬農具に至るまで勝れてよきを用ゆべし。されば古き詞にもたくみ其事をよくせんと欲する時は、先づ其器をとくすとみえたり。」(同)
 「但右の内牛馬は其あたひおもき物なれば、貧民心にまかせぬ事多かるべし。只をのをの其分限にしたがひて力のをよびよきを用ゆべし。」(同)
 ここにあるのは、「農具を選ぶ事」、「効率を上げるの為の道具」そして「分限に合った道具の選択」へのきめ細かな案内であって、畿内の農業の発展にさぞかし貢献したのではないか。
 さらに農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が、1842年(天保13年)~1858年(安政5年)に刊行した、農村における商品作物の栽培について紹介した農学書には、こうある。
 「公室を富ましめんとて、其の城下の町人等の商売に仕来るものを領主より、役所あるひは会所をたて其の所にて売買の沙汰を致し、農家より商家へ直うりを禁じなど仕り給ふ事あり。其の益つもりては大ひなれば、忽ち御勝手向よくなり、かゝるにしたがひ、部下の智恵あるもの其の元締がたにかやうかあああやうに成られなば、つもりては是ほどの益と相成り候など申出づれば、其の趣きを取用ひぬれば其の益又少からず。
 然るに又別人よりかやうかやう成られ候へば御益となり候など申出づる故、又取用ひ候まゝ、いつとなく御益すぢと号する事多く出来るものなり。是等は多く部下の商人の利益と相成るべきを領主にて奪ひ上げ給ふなれば、ひそかに恨むといへども威勢に恐れ誰ありて申立てるものなく、変あるを待ちて元のごとくならん事を願ふもの夥しくして、終には騒動を引出す基となりたる事まゝ聞及びぬ。全く御勝手を早くよくせんとて斯く行はせらるゝ事なれば、悪法とは云がたけれど、元来天理に戻り、先ず下民を安富せしむる事を勤めざるゆゑに、却りて手もどりするを見及ぶ事多し。
 部下にて取扱ふべきものを領主より売買し給ふ事は勘弁のあるべき事なり。前にも云ふごとく国の益筋を取扱ふ人なれば、此の位の事は弁へなくして人も帰伏せざれども、右いふごとく脇より追々御益筋と号しすゝむるを一ツ用ひ二ツ用ひ、終に種々に手を廻し行ふやうになり行くものと見ゆれば、努々おろそかに見はず計り、つらつら考ふべき事ぞかし」(大蔵永常『広益国産考』)
 ここに木綿の元となる綿花の栽培が行われていたことが、わかる。それまでも各地で綿、麻などが栽培されていたものが、この史料では、綿花の生産がはっきりした商品生産として始まった。収穫した綿花の流通から、商人などの媒介から織物生産、販売に至るまで、地域経済の発展へと繋がって行った。
 さらに加えて、当時の大衆文学の巨匠・井原西鶴(いはらさいかく)は、こんな話を載せている。
 「鉱(あらがね)の土割(つちわり)、手づからに畑うち、女は麻布を織延(おりのべ)、足引(あしびき)の大和機を立、東あかりの朝日の里に、川ばたの九助(くすけ)とて小百姓ありしが、牛さへ持たずして角屋(つのや)作りの浅ましく住みなし、幾秋か一石二斗の御年貢をはかり、五十余迄同じ額にて、年越の夜に入りてちひさき窓も世間並に鰯(いわし)の首(かしら)柊(ひいらぎ)をさして、目に見えぬ鬼に恐れて、心祝ひの豆うちはやしける。夜明けて是を拾ひ集め、其中の一粒を野に埋みて、もし煎豆に花の咲く事もやと待ちしに、物は諍(あらそ)ふまじき事ぞかし。
 其の夏青々と枝茂りて、秋は自から実入りて、手一合にあまるを溝川に蒔捨て、毎年かり時を忘れず、次第にかさみて、十年も過ぎて八十八石になりぬ。是にて大きなる灯篭を作らせ、初瀬海道の闇を照らし、今に豆灯篭とて光を残せり。諸事の物つもれば、大願も成就する也。此九助此心から次第に家栄え、田畠を買ひ求め、程なく大百姓となれり。折ふしの作り物に肥汁を仕掛け、間の草取り水を掻きければ、自から稲に実のりの房振りよく木綿に蝶の数見えて、人より徳を取る事、是天性にはあらず。
 朝暮油断なく鍬鍬の禿る程はたらくが故ぞかし。万に工夫のふかき男にて、世の重宝を仕出しける。鉄の爪をならべ、細攫(こまざらえ)といふ物を拵(こしら)へ、土をくだくに是程人の助けになる物はなし。此外、唐箕(とうみ)・千石通し、麦こく手業をとけしなかりしに、鉾竹(とがりたて)をならべ、是を後家倒(ごけだお)しと名付け、古代は二人して穂先を扱きけるに、力も入れずして、しかも一人して、手廻りよく是をはじめける。
 其後女の綿仕事まだるく、殊更打綿の弓、やうやう一日に五斤ならでは粉馴ぬ事を思ひめぐらし、もろこし人の仕業と尋ね、唐弓といふ物ははじめて作り出し、世の人に秘して横槌にして打ちける程に、一日に三貫目づゝ雪山のごとく繰綿を買込み、あまたの人を抱へ、打綿、幾丸か江戸に廻し、四五年のうちに大分限になりて、大和に隠れなき綿商人となり、平野村・大坂の京橋富田屋・銭屋・天王寺屋、いづれも綿問屋に毎日何百貫目と言ふ限りもなく、摂河両国の木綿買取り、秋冬少しの間に毎年利を得て、三十年余りに千貫目の書置して、其の身一代は楽といふ事もなく、子孫の為によき事をして、八十八にて空しくなりぬ。」(『日本永代蔵』)
 ここに「朝日の里」は、畿内(現在の奈良県天理市)を指す。この地域では、農具の発達があったものと見える。新たな生産手段を手に入れた農民を、「新興農民」と呼ぶことにしたい。「大和機」は、麻布を織る械(はた)のことだ。「唐箕」とは、羽の入った送風機の外側にハンドルが付いている器械であって、上から玄米と籾殻と埃などの入り交じったものを落とし、そのハンドルを回して羽を動かし風を起こす。その勢いで玄米を選別する。「千石通し」とあるのは、斜め上から金網が下までかかっており、上からごみ混じりの米を流して、いい、悪いを餞別していた。以上の二つは、日本の高度成長期までは使っていた。また「後家倒」は「千歯こき」の異名であって、櫛歯状の鉄串に稲束を通すことにより籾(もみ)を落とす器械。そちらの専門家では無いはずの西鶴は、どの筋から一地方の、こんな最先端な話を仕入れることができたのだろうか。
 器械ばかりでなく、肥料の方も一大劃期を迎えつつあった。江戸中期の民政家で、荒川や酒匂川(さかわがわ)の治水に功績のあった田中兵隅(たなかきゅうぐ)が、8代将軍の徳川吉宗に提出した農政に関する著作(1721年(享保6年))の中に、次の下りがある。
 「夫れ田地を作るの糞(こや)し、山により原に重る所は、秣(まぐさ)を専ら苅(かり)用ひて田地を作るなれば、郷村第一秣場(まきば)の次第を以て其の地の善悪を弁べし。近年段々新田新発に成尽して、草一本をば毛を抜ごとく大切にしても、年中田地へ入るゝ程の秣たくはへ兼る村々これ有り。古しへより秣の馬屋ごへにて耕作を済したるが、段々金を出して色々の糞(こや)しを買事世上に専ら多し。仍て国々に秣場(まきば)の公事絶えず、又海を請たる郷村は、人を抱へ舟を造りて色々の海草を、又は種々の貝類を取てこやしとす。
 其外里中の村々は山をもはなれ海への遠く、一草を苅求むべきはなく、皆以て田耕地の中なれば、始終金を出して糞しを買ふ。古へは干鰯金一両分を買ふて粉にして斗り見るに、魚油の〆から抔は四斗五六升より漸く五斗位にあたりて、いかやうの悪敷も六斗にはあたらず。是享保子年まで五六年の間の相場なり。是を一反三百歩の田の中へふりて見れば、大桶の水へ香薫散を一ぷくふりたるにひとし。よって能入るゝと言者は、一反へ金弐両の内外入ざれば其しるしなし。惣て一切の糞しは皆干鰯(ほしか)を以て直段の目あてとす。」(田中兵隅(たなかきゅうぐ)(田中兵隅『民間省要』)
 これにあるように、従来の刈敷や堆肥といった有機肥料に変えて、金肥といって、干鰯(あぶらかす)、油粕(ほしか)といった現代農業にも通じる、地力を大きく肥やす肥料を使うようになっていく。彼はその後、代官に取り立てられたとか。

(続く)

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