新462『自然と人間の歴史・世界篇』ナミビア

2021-12-13 21:14:16 | Weblog
462『自然と人間の歴史・世界篇』ナミビア

 ナミビア(1990年3月21日に独立、旧宗主国はドイツ、南アフリカ)は、アフリカ南西部に位置する。国名だが、同地域のナミブ砂漠に由来するという。地理的領域としては、北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。首都は、ウィントフック。
 このあたりでの太古の話としては、首都のウィントフックから北上、この国のナミブ砂漠、そこは太平洋に面した西側の海岸沿いに広がる。ここに「ナミブ」とは、現地の言葉で「何もない土地」との意味をもつ。およそ8万平方メートル及ぶ広大さだ。酸化鉄を含む砂山が夕陽に映えてか、「この写真のような赤黒い色をした幻想的な景色」(「世界の絶景・ナミブ砂漠」:雑誌「ニュートン」2015年12月号)が見られる砂漠なのだが。
 これを通り越したところに、岩石群のある地帯が広がる。このあたりのプラントバーグの岩絵、その北隣のトワイフェルフォンテンに岩石彫刻画、岩絵に出会うことができるという(写真と文は鈴木卓、写真解説文は池谷和信「岩の作品が残されたナミビアの荒野」:雑誌「ニュートン」2015年4月号)。ごつごつしたり、切り立ったりする岩場のあちらこちらに、狩猟時代の人類の画いた絵が散在する。その一つには、「首のない人」がせ弓を持つかたわらで、座ってくつろいだり、ダンスに興じているらしい人もいる。古代の人も、時には楽しいことがあったものと見える。
 さて、時代は大きく下っての16~17世紀、北方よりヘレロ族、ダマラ族、オカバンゴ族などが南下して来て、このあたりに定住していく。19世紀までには、このあたりの原住民のブッシュマンとナマ族にも、変化が訪れる。ナマ族がボーア人と混血して「レホボス・バスターズ」と呼ばれる混血集団も形成されてくる。 
 その植民地から独立への歩みとしては、現地人民はなかなかにたどり着けない。1884~85年年のベルリン会議においては、この地が「南西アフリカ」としてドイツの保護領となったのに始まる。ただし、この地域の港であるウォルビス・ベイとその周辺だけは、かねてからイギリスのケープ植民地に属していたことから、除外される。
 
 そして迎えた20世紀初頭には、このドイツの植民地において、ドイツによる大規模な虐殺事件が起きる。続いての1914年、南アフリカ軍が南西アフリカに侵攻し、この地域を占領する。1920年、南アフリカが国際連盟の委任統治制度の下で南西アフリカ統治を開始する。第一次世界大戦中にこの地を併合したのが、南アフリカ連邦であった。
 1945年、南アフリカが南西アフリカを国連の信託統治制度の下に移行させることを拒否し、統治を開始する。どうあろうとも、あくまで自国の領土だとの主張を繰り返す。そのため、「ナミビア問題」が起こる。1958年、最大の人口をもつオバンボ族を主体に南西アフリカ人民機構(SWAPO)が結成される。1966年以降は、この組織は武力闘争も行う。1971年の鉱山ストライキに対して、南アフリカ政府は武力で鎮圧する。
 1966年に国連総会において、南アフリカによる委任統治終了と国連直接統治への移行を決める。南アフリカはこれを認めたくない。そのため、この決議を無視し、しばらく占領支配を続ける。1968年、国連総会が、南西アフリカをナミビアと改称する。
 1974年のポルトガルの軍事革命と翌年の南部アフリカ植民地アンゴラとモザンビークの独立が達成されると、頑なにナミビアの独立を拒む南アフリカは孤立を強める。1978年には、国連が独立支援に動く。安全保障理事会として、国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)の設置を決定する。1988年、南アフリカ、アンゴラ、キューバ間の和平協定が成立し、南アフリカはナミビアの独立に合意する。
 1989年4月、安全保障理事会決議の実施を目指してUNTAGが活動を開始する。1989年11月、憲法制定議会選挙が実施される。1990年2月、ナミビア共和国憲法を採択する。1990年3月21日、ナミビア共和国が独立する。1990年4月には、国連に加盟に漕ぎ着ける。1994年3月、南アフリカはウォルビス・ベイをナミビアに返還する。1994年12月、独立後初の大統領・国民議会選挙を実施する。1995年3月、独立5周年式典においてヌヨマ大統領(第2期)が就任する。1999年12月、大統領・国民議会選挙においてヌヨマ大統領が再選される。
 2000年3月、独立10周年式典においてヌヨマ大統領が第3期に就任する。2004年11月、大統領・国民議会選挙においてポハンバが大統領に選出される。2005年3月、ポハンバが大統領に就任する。2009年11月、ポハンバ大統領再選(第2期)。2010年3月には、ポハンバ大統領(第2期)が就任する。2014年11月、大統領・国民議会選挙においてガインゴブが大統領に選出され、2015年3月彼が大統領に就任する。

 そして迎えた2021年5月には、ドイツ政府が、旧植民地としていたこの地において、20世紀初頭に起きた住民虐殺について、「ナミビアと犠牲者に許しを請いたい」(ドイツのハイコ・マース外相)と謝罪を行った。それと、「法的な賠償請求権はない」としながらも、11億ユーロの支援金を提供すると発表した。

(続く)

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新242『岡山の今昔』倉敷(児島・下津井エリア)

2021-12-13 17:37:49 | Weblog
242『岡山の今昔』倉敷(児島・下津井エリア)


 児島・下津井(しもつい)エリアに移ろう。江戸時代の下津井港には、肥後の細川家など参勤交代の大名や、江戸参府途上のオランダ商館長、朝鮮通信史の一行が立ち寄る。

 それに、北前船の来航が加わり、備前における諸物資の一大集散地となり、海運業が発達することにもなっていく。

 おりしも、その東隣の児島地区では、米作りへの中間作物としての綿花栽培がはじまり、また、江戸時代の後半からは、その木綿を束ねて織る繊維業(小倉織、真田織姫、雲斎織など)が広まっていく。それに、北前船の運ぶにしんかすは、米作りへの中間作物としての、塩に強い綿を栽培するための肥料に使われた。

 その頃からの「児島三白」とは、一つには、繊維の原料となる綿花の花の色が白いこと。二つは、塩田の塩の色が白いとこと。三つには、瀬戸内海で捕れる魚のイカナゴの腹部の色が白いことにちなむ。
 かくて、下津井港に競合する港が現れ、その便利が相対的に低下するは、児島と下津井とはつながって、広域の経済圏をつくっていたと言っても、過言ではなかろう。

 そんな江戸時代、下津井港の繁栄を歌ったものに「下津井節」があり、次のような歌詞となっている。
 「下津井はヨ/入りよて出よてヨ/まとも巻きよて/まぎりよてヨ/(トハコイ)/(トノエー)/(ナノエー)/(ソーレソレ)/下津井港にヨ/錨(いかり)を入れりゃヨ/街の行燈(あんど)の/灯(ひ)が招くヨ/あれは肥後(ひご)さま/九曜(くよう)の星ヨ/」 
 ここにいう「九曜の星」とは紋所(もんどころ)を意味し、肥後(現在の熊本県)の細川家の船が入港する様子をうたったものだ。

 商港・下津井のその後については、1910年(明治43年)、国鉄宇野線の全線開通により四国航路の座をを宇髙連絡船に明け渡し、商港下津井の繁栄は終焉を迎える。児島にはまた、時代が明治になっての1882(明治15)年に下村紡績所(現在の倉敷市児島下の町)が開業する、日本における初期綿糸紡績工場の草分け的な存在に列する偉業であって、その後に所有者の変遷を経るも、1980年(昭和55年)に琴浦紡績が廃業するまで、同じ敷地で綿糸紡績を継続してきた。

 それにもう一つ、振り返っての下津井電鉄線の創設に触れよう。これには、児島の塩田王・野崎家や大畠の永山家をはじめとする児島・下津井の有力者、また対岸である丸亀の有力者の出資や協力があった。

 そして迎えた1914年(大正3年)、下津井と倉敷市茶屋町(宇野線茶屋町駅)を結ぶ商港下津井線が開通する。
 しかし、難点もあったという。それは、茶屋町駅で乗り換えなければならないこともあり、四国航路の利用者には不便であること。

 それでも、児島周辺の繊維業の発達による貨物輸送に利用されたり、戦後の高度成長期からは、水島など倉敷市南部へのアクセス拡大や鷲羽山への観光客を運ぶなどに使われる。

 その後は、県南おしなべての道路網が整備されるにつれて、利便性が低下していき、利用者は減っていく、1972年(昭和47年)には、児島~茶屋町間が廃線になる。
 続いての1988年(昭和63年)に、瀬戸大橋が開通すると、これによって会社のバス部門の収入も減少したため、会社は、下津井電鉄線全体を廃線にする。

(続く)

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新461『自然と人間の歴史・世界篇』ルワンダ

2021-12-13 09:02:54 | Weblog
461『自然と人間の歴史・世界篇』ルワンダ

 ルワンダ共和国(1962年7月1日に独立、旧宗主国はベルギー・国連信託統治領)は、中部アフリカに位置する内陸国であり、西にコンゴ民主共和国、北にウガンダ、東にタンザニア、南にブルンジと国境を接する。首都はキガリで、イギリス連邦加盟国でもある。

 人口はアフリカ大陸中で最高クラス。早くはピグミー系のトワ族が住み始める。7~10世紀頃、このあたりにバンドゥー系のフツ族が定住し始める。14~15世紀頃、ナイロート系のツチ族が定住してくる。15世紀頃、ツチ族による王国が建国される。17世紀に「ルワンダ王国」が建国される。この王国の性格だが、土族がより多数の仏族を支配することになっていた。

 1858年、イギリスの探検家が同地域を探検する。1871年、探検家のH・スタンリーとD・リビングストンは、このあたりを探検する。リビングストンについては、1849年から1856年にかけての第一回探検で、ヌガミ湖を発見しザンベジ川上流地方を調査する。それから西海岸のルアンダに出て、そこから東海岸のケリマネまでのアフリカ大陸横断路をひらき、ビクトリア滝を発見する。

 1889年、ドイツ保護領となる。1899年になると、ルワンダ王はドイツに服従することに傾いていく。1890年には、ドイツ保護領となる。隣のブルンジ王国とともにドイツ領ルワンダ・ウルンジを構成していく。

 1916年には、ベルギーが侵攻する。第一次世界大戦中であったことから、彼らが隣のべルギー領コンゴから侵入してきたものだ。こうして、第一次大戦の後1918年には、ベルギーの国際連盟委任統治領となる。
 第二次世界大戦後の1946年には、ルワンダとブルンジがベルギーの国連の信託統治領となる。それまで被支配の部族であったフツ族の政治意識が高まってくる。1959年10月のキゲリ5世の即位の時をとらえ、11月に農民暴動が起こる。フツ族は、1960年10月にフツ解放運動党(PARMEHUTE)を結成する。1961年9月に実施された立法議会の選挙で、フツ解放運動党が勝利をおさめる。同時に行われた王政に関する国民投票で、王制廃止と共和制樹立を承認する。あわせて、議会がカイバンダを大統領に選出する。そして迎えた1962年7月1日、ベルギーより独立する。

 1963年12月からは、ブルンジ王国に避難していたツチ族のルワンダへの回帰を契機に、フツ族によるツチ族への大量虐殺が行われる。この関、歴史的には、牧畜民で少数派のツチ族が、農耕民で多数派のフツ族の上を行く構図で、対立が絶えなかったという。
 このような中でも、1969年にカイバンダは大統領に三選される。しかし、1973年、軍事クーデターが起こり、前国防相のハビヤリマナ少将が大統領に就任する。その後のハビヤリマナ大統領は、1983年12月に再選、1988年に三選される。この間の1976年には、外交でブルンジ、ザイールとともに大湖地域諸国経済共同体(CEPGL)を、1978年にブルンジ、ウガンダ、タンザニアとともにカゲラ川流域機構(KRBO)を結成する。1983年に結成された中央アフリカ諸国経済共同体にも加盟する。

 1990年10月、ルワンダ愛国戦線(RPF)が北部に侵攻する。1993年8月、アルーシャ和平合意が成立する。1994年4月には、バヒャリマナ大統領機の撃墜事件が起こる。ハビヤリマナ大統領は暗殺され、この事件発生をきっかけにフツ族強硬派により、ツチ族住民を無差別に殺害してまわるという「ルワンダ大虐殺」が発生する。1994年6月まで続く。一説には、これにより80万人以上が犠牲になったとされる。
 7月には、ルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を完全制圧する。ポール・カガメを首班とする新政権が樹立される。ビジムング大統領とカガメ副大統領が就任する。これにより、政府は民族の区別を否定し、国民和解への道を歩んでいく。また、前政権を支えたフランスとは関係が悪化していく。
 2000年3月には、ビジムング大統領が辞任する。4月には、カガメ副大統領が大統領に就任する。同年には、8%超の経済成長を記録する。国家主導の成長により、IT立国を掲げる。

 2003年8月には、複数候補者による初の大統領選挙でカガメが大統領に当選する。2003年9~10月、上院・下院議員選挙で与党(RPF)が勝利する。2008年9月、下院議員選挙で与党(RPF)が勝利する。同年10月には、教育言語をフランス語から英語に変更すると発表する。2009年には、英連邦に加盟する。

 2010年8月には、カガメ大統領が再選される。2013年9月、下院議員選挙で与党のRPFが勝利する。2018年には、ルワンダ外相がフランス語圏国際機関(OIF)の事務局長に選出される。2021年5月には、虐殺に関して、マクロン大統領が、当時のフランスの責任(虐殺を主導したフツ族政権を支援し、介入をためらったこと)を認め、歴史的和解に向けて一歩を踏み出した形だ。

(続く)

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新◻️248『岡山の今昔』笠岡市とその周辺

2021-12-12 23:31:35 | Weblog
248『岡山の今昔』笠岡市とその周辺

 さらに寄島(よりしま、浅口市)の西隣は、もう笠岡市である。これを主観であらわすなら、そこまではすぐ間近なのに違いない。この笠岡地区は、倉敷のさらに西に位置する。福山からは直ぐ東隣のところにある。
 1思い起こせば、1871年(明治4年)の廃藩置県後、この地域は庭瀬・足守・浅尾・成羽・岡田・高梁・新見・倉敷などの10県に旧備後国福山県をも加える動きとなり、1872年(明治5年)には小田県と称し、県庁を幕府笠岡代官所跡(小田郡笠岡村)におくことにした。
 
 かくて、小田県として笠岡に県庁が置かれたのであったが、それから3年後の1875年(明治8年)には全体が岡山県に統合された。ところが、翌年の第2次府県統合により、岡山県のうち旧備後国の福山が広島県へ移管され現在に至る。

 ついでながら、山陽本線の笠岡を過ぎては、備後の国に入り、その境の大門に、さらに福山へ通じていたのであった。1891年(明治24年)には、山陽鉄道の岡山~笠岡間が開通する。また、1913年(大正2年)には、井笠軽便鉄道の笠岡~井原間が開通する。

 この地域での干拓事業の歴史も古い。1619年(元和5年)、水野日向守勝成が大和郡山5万石より転封によって福山城主となった。石高は、譜代の重鎮らしく10万石があてがわれた。これにより、笠岡は大島、尾坂等の一部を除き、現在の笠岡市域の大半がこの水野領に組み込まれる。同藩では、入封したらさっそく領地の南に広がる海面の干拓に乗りだした。

 それというのも、気候的にも温暖で雨が少なく、地形的にも平野が少ないため、土地を干拓や埋め立てを行うことによってまかなうことを狙った。この地域に大きな川が流れていないことがあり、夏の渇水時には慢性的な水不足になるなど、稲作りに支障が出ることでの、百姓たちの苦労があった。
 富岡湾の干拓も、江戸時代の古くから計画がなされていた。しかし、何回も挫折したものが、1946年(昭和21年)3月には笠岡湾干拓事業として、笠岡町に委託された。予算的制約から進捗もなかったのが、1948年(昭和23年)7月農林省に引き継がれ、それから13年後の1957年(昭和33年)12月に完成した。

 笠岡湾の干拓事業は、1968年(昭和43年)5月には関係漁民の深い理解により漁業補償が解決され、同年12月に工事が開始され、1990年3月に完成した。東西の堤防で締め切って造成した面積は2千ヘクタール近くにも及ぶ、日本で三番目に大きな干拓地が出来上がった。
 これに関連して、最南端から程近くの海中にあった神島(こうのしま)も、陸続きとなった。地元出身の画家・小野竹喬(おのちっきょう)の作品には、郷里の自然や人々の暮らしぶりを題材にしたものが多いが、わけても『島二作』は神島の穏やかそうに写る自然の中で、農作業にいそしむ人々の姿がさらりとしたタッチで描かれている。
 現代にいたり、装いを新たにした大規模干拓地の新地分は、工事を手掛けた当初は大規模機械化農地として期待されていた。ところが、造成後においてはコメ余りの中、性格が変化してきた。これに伴い、倉敷市を流れる高梁川から導水管を引いてくることにより、離島含む全世帯に水道水を給水することができ出したという。

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 以下では、この地域の概ね南側に位置する、ある島々から、幾つか紹介しよう。笠岡及びその周辺の沖合は、「備讃瀬戸」(びさんせと)といって、このあたりに点在する島々は「笠岡諸島」と呼ばれ、それらの大半が瀬戸内海国立公園の指定区域内にある。高島、白石島(しらいしじま)、北木島(きたぎしま)、飛島、真鍋島(まなべしま)、六島のいずれもが古代からの内海航路の要衝として栄えたことで知られる。特に白石島の高山展望台からの眺望は、天候に恵まれるならば、大山や、四国の最高峰である石鎚山などが見渡せるとのことである。
 地域の特質としては、そればかりではない。笠岡市街の南方に連なる、この辺りの島々での産業として名を馳せてきたのは、漁業(海苔の養殖を含む)、それに加えて石材があろう。
 そこで後者についてみると、笠岡諸島の中で最大の北木島(2013年での人口は1019人、面積7.49平方キロメートル、周囲18.3キロメートル、最高地点226メートルは、近世において、良質な花崗岩(かこうがん)の産出と加工で栄えたことで知られる。この島で産出される北木石は、香川県産「庵治石」、愛媛県産「大島石」と並び、瀬戸内の三大銘と並び称されてきた。海運により積み出しができることから、一大産地となる。
 「北木よいとこ/(ハーヨイヨイヨーイトセ)/大石の出どこエー/うとうて聞かそか/石屋節ヨー/(ヤレコラエーヨーエー)/丘は宝石/沖ゃ鯛の群れ/黄金吹き寄す/北木島」(職人・人夫などが作業この時歌っていたとされる)

 花崗岩というのは、珪酸塩分に富むマグマが地下深くにおいてゆっくりと冷えて固結してできる。この岩石では、そのことにより、石英(せきえい)や長石(ちょうせき)、雲母(うんも)といった結晶が、人間の肉眼で識別可能なまでに成長している。岡山県から広島県にかけての山陽地方や中国山地、吉備高原などには、中生代白亜紀から古第三紀にできたであろう花崗岩が、広く分布している。
 その後の地殻変動などにより、地表近く以上に上昇してくるものもあり、例えば、岡山城天守閣の基礎石に見られるようなものもあったり、また地表付近で雨風にさらされるうちに砂状に砕けて私たちの目に触れる場所もある。 
 北木島の石は、徳川幕府が諸大名に命じて再築させた大坂城の石垣や、明治維新後の旧日本銀行本店、三越本店、明治神宮、靖国神社(やすくにじんじゃ)の大鳥居、京都五条大橋などで北木島の石が用いられた。この島の豊浦地区・金風呂地区には、表面を削り取られた山々には、かつての石材産業が繁栄を極めた痕跡を留めているとのこと。
 ちなみに、現在も石が切り出されているようであり、例えば、次のように紹介されている。
 「石を切り出す採石場を丁場(ちょうば)というが、見学許可が得られれば露天掘りの丁場をぜひ見ておきたい。深さ80メートルに達する雄大な岩壁から、いかに北木島が花崗岩で形成された島であるかがわかるだろう。」(加藤庸二「日本名島の旅ー一度は行きたい100の島々」実業之日本社、2013)

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 白石島(しらいしじま、面積2.94平方キロメートル、最高点169メートル、周囲10メートル)は、北木島の南西にある。ここで、あらためてというか、日本人一般にあまり知られていないような話に、耳をかたむけてみたい。2021年8月26日のNHKのBSプレミアムにて放送された「ニッポン島旅選」の「岡山白石島▽島の遍路道と踊りの輪」で、紹介された。京都生まれの日系4世、俳優・モデルの古屋呂敏リポーターが訪問者となって、島のいろいろな見どころを訪ね歩く番組だ。ただ今の島の人口は463人(2019年5月時点)とのこと、挨拶するのは岡山弁の住民たちだ。「あまり魅力のある島とは言いづらくなった」と、女性が遠慮がちに話す。その中では、1997年にこの島に移住したというエイミー・チャベスさん(アメリカから英語教師として来日)が案内してくれたところによると、この島には「四国88か所遍路」に学んでであろうか、ここには350~400年前の「白石島88か所遍路」があるという。レポーターは、ある家に招かれて、夕食をごちそうになる。海の幸が盛り沢山に入った炊き込みご飯をいただきながら、70代だという男性の話に耳を傾ける。その翌朝には、近くの作業場を案内してもらう。なんでも、「桑」の実でジャムをつくり、東京などへ出荷するのだという、どうやらかねてからこの島の産業の一つであるらしい。
 この島での二幕目は、やはり「白石踊」の登場だ。こちらでの最初のシーンは、村の公民館であろうか、4拍子の太鼓の伴奏で踊りを披露してくれた。その踊りには、太鼓の拍子に合わせ、傘踊り、奴踊り、男踊り、お父さん踊り、ぶらぶら踊りといったバリエーションがあるという。それに、白石踊り唄も加わって、夜がしらじらと明けるまで踊り続けることもあったのかもしれない。

 「アーソレ世の中の(アソレモ)/さだめかたきは/無常の嵐/(イヤヨーホエヨーホエヨイヤネー)/散りて先立つ/習いといえど/わけて哀れは/冥土と娑婆の/賽の河原で/とどめたり/二つや三つや/四つ五つ/十よりうちのみどり児なるが・・・」(「白石踊り唄ー賽の河原口説(くどき)」)

 それでは、実際にはどんな風に踊るのだろうか。そのさわりとしては、海辺に出て、およそ800年も受け継がれてきた踊りを、熟達の男女が演じてくれている。砂場に人が立って傘を建て、それを中心に踊り手が回る。男性は法被(はっぴ)というか、女性は浴衣(ゆかた)姿にて、それぞれが扇をもって踊る。あたりを心地よさそうな海からの風が吹いているみたい、その空気をとりいれてであろうか、ゆったりげに踊る。風情が出て、さすが伝統芸能だ。「こんなにちっちゃな島なのに、ぎゅうぎゅうの魅力が詰まっている・・・うれしかった」とナレーターが締めくくるあたり、こうして、「僕たちが見えないものを守ろうとしてくれている人」と慨嘆しているのは、東京からの旅人なのである。

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 真鍋島(2013年での人口は262人、面積1.49平方キロメートル、周囲7.6キロメートル、最高地点127メートル)は、笠岡港の南東約18キロメートルのところにある、東西方向に広がる島だ。海岸線はかなりいりくんでいるようだ。こちらは、前掲書(加藤)においてこう紹介されている。
 「温暖な利用して30年以上も前から花卉(かき)栽培の島として知られていたが、現在は寒菊やマーガレットなど、花が見られる島として旅人を魅了している。」

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 もう一つ、2021年9月2日に放送のNHK(BSプレミアム)番組「ニッポン旅選、岡山六島(むしま)▽人口わずか62名」で紹介されたのは、笠岡諸島の南端の島であり、だんだん四国に程近い。
 こちらでは、古来漁業が盛んな土地柄のようで、この周りの海域は瀬戸内海の中でも潮の流れが速く、魚が豊富な漁場となっているとのこと。あわせて、地ビールの取組みや観光で訪れた人の宿泊先提供なども芽をふいてきている模様だ。
 島の住人は、戦後の、ある時期までは百数十人であったというが、今では大方は高齢者であるようだ。風光明媚な浜からの景色を共に眺めながらのインタビューなどで印象的であったのは、幾人かが異口同音に島への愛情・愛感を述べていて、中でもある女性は「たとえ(この島で)一人になっても住みたい」と、控えめな笑顔を見せていた。
 かねてから人々に愛され続ける島からの全景を前にしての、取材の締めくくりのシーンは、夕焼けの浜辺に人々が集まってきていて、男性も女性も和気あいあいで語り合い、「ここに、出てこないようなら、心配で見に行く」と語る、さながら一つの大家族であるかのよう、淡々たる過ごし方の中にも大いなる気遣いが感じられる。

(続く)

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新♦️279『自然と人間の歴史・世界篇』生物学(メンデル、モーガンなど)

2021-12-11 21:57:04 | Weblog
279『自然と人間の歴史・世界篇』生物学(メンデル、モーガンなど)

 グレゴール・メンデル(1822~1884)は、当時のオーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)人。長じては、修道士を務めながら、植物学に興味を抱く。仕事の合間に、畑でエンドウ豆を栽培し、新しい豆を収穫していく。用いた方法は、同一の花の雄(お)しべと雌(め)しべで花粉を受精させるもので、「自家受粉」と呼ばれる。まずは、筆をとって雄しべにある花粉を同じ花の雌しべにつける、その後は、他の花の花粉がつかないように、その花に袋をかぶせる。そうやってを繰り返していくと、やがて純粋系の品種が得られるようになる。例えば、必ず丸々とした豆が穫れるとか、黄色い豆ばかりが穫れるとかになる。
 このようにして形質がはっきり異なる(対立する)複数の種類のエンドウ豆を手にしたところで、メンデルは、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという、粒子遺伝が実現するとの仮説の正当性を調べる作業にとりかかる。
 具体的には、エンドウの「豆の形(丸/しわ)」、「豆の色(黄色/緑色)」、「さやの色(緑色/黄色)」、「さやの形(ふらんでいる/くびれている)」、「花の色(赤色/白色)」、「花のつき方(散らばっている/上に集まっている)」、そして「茎の背丈(高い/低い)」という7つの形質に着目した。そして、これらの異なった形質をもつエンドウ豆を交配して、それぞれの形質が、子孫にどう受け継がれるかを調べる。
 そこで、自家栽培のエンドウ豆中、豆を丸くする遺伝子をA、豆にしわをつくら遺伝子をaとおき、必ず丸い豆が穫れるエンドウ豆はAAという遺伝子を持ち、必ずしわの寄った豆が穫れるエンドウ豆はaaという遺伝子を宿していると考えよう。その上で、彼は、AA型とaa型のエンドウ豆をかけ合わせてみる。
 すると、雑種第一代の豆はすべて丸型の豆となった。この事実を前にして、彼は、豆の形を丸くする遺伝子Aと、豆にしわをつくる遺伝子aとの交配においては、Aの形質の方が優性的であることに思いいたる(これを優性の法則という。ただし、これをもって「優れた」とか「劣った」とかいう意味ではない)。
 しかし、豆の外見だけでは、それがAa型のエンドウ豆だとは結論できない。そこで、今度は自家受粉によって雑種第一代のエンドウ豆同士を掛け合わせることにしていく。そして第二代のエンドウをつくってみたところ、この代では丸い豆としわのある豆がほぼ3対1の比率で穫れた。このことから、雑種第一代のエンドウ豆が遡ってaの遺伝子を宿したAa型のエンドウ豆であったことがわかったのである。
 以上をまとめると、親がAA(丸)とaa(しわ)とした場合の子(雑種第一代)がAa(丸)であり、これを同じAa(丸)と交配することで、孫(雑種第二代)としては、AA(丸)、Aa(丸)、aA(丸)、そしてaa(しわ)の3対1の構成となったのだ。ここでいうAとaという、いわば対立する遺伝子が同じ割合で分かれて配偶子に入る、つまり、遺伝子が混ざり合うことなく次代へ伝わっていくことを、生物学では「分離の法則」という。

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 トーマス・フント・モーガン(1866―1945)は、アメリカの遺伝学者だ。父は、南軍の勇敢な兵士だった。そこそこの家庭であったようで、14歳で地元のケンタッキー州立大学に入り、そこでクランドールという博物学の先生に出会い、これを仕事にしたいと考えたようだ。ジョンズ・ホプキンズ大学へと進み、1890年には同大学で博士号を得た。 1904年にはコロンビア大学の実験動物学教授となり、生活が安定したのは大きいのではないか。実験発生学の分野で多くの業績をあげていく。1910年頃からは、遺伝学へとのめり込んでいく。 その発端は、飼育していたキイロショウジョウバエに白眼の突然変異を発見したことだ。簡単に飼育でき、繁殖も容易で、実験生物としてはもってこいだという。 モーガンは、ショウジョウバエで数多くの交雑実験を行い、対立形質がいくつかの組合せをつくって遺伝することを突き止める。そして、その組合せが染色体の対(つい)と同数であることから、遺伝因子は染色体上に線状配列するという遺伝子説を提唱した。それらは、メンデルの法則をさらに進めたという評価から、1933年にはノーベル生理学賞を受賞した。

(続く)

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新495『自然と人間の歴史・世界篇』オストワルト法(硝酸、1903)とナイロンの発明(1938)

2021-12-11 20:54:48 | Weblog
495『自然と人間の歴史・世界篇』オストワルト法(硝酸、1903)とナイロンの発明(1938)

 アンモニアを原料にして硝酸をつくることができれば、ということで、ドイツの化学者オスワルト(1853~1932)が、1903年、硝酸を安価に製造する技術を発明した。これを『オスワルト法』または『アンモニア酸化法』と呼ぶ。その反応の過程は、次の三段階をたどる。

①アンモニアを酸化

 まずは、原料のアンモニアを約800℃の高温にて空気中の酸素で酸化する。そうすると、アンモニアは一酸化窒素となり、水も生じる。この反応の触媒としては、白金(Pt)が用いられる。

①式:4NH3+5O2→4NO+6H2O

 次に、一酸化窒素NOから二酸化窒素をつくる。具体的に、①で得られた一酸化窒素を空気酸化する方法としては、かかる反応後の混合気体を約140℃以下に冷却し、①の生成物の一酸化窒素が未反応の酸素と結合して二酸化窒素になり変わる。

②式:2NO+O2→2NO2

 さらに、二酸化窒素から硝酸をつくる。具体的には、②で得られた二酸化窒素を約50℃の温水に吸収させることで、硝酸(HNO3)を得る。

③式:3NO2+H2O→2HNO3+NO

ここで、③で生成されたNOは捨てずに、②のNOに使われる。そして。この操作を繰り返すことによって、原料のNH3をすべてHNO3に変化させる案配だ。
 以上を①式、②式及び③式をまとめると、①式+②式×3+③式×2より、
NH3+2O2→HNO3+H2O  
オストワルト法の原料はNH3、目的はHNO3であるので、途中の形成物質であるNOとNO2は別扱いとなろう。


 この発明により、アンモニアさえ調達できれば、硝酸を大量につくり、その硝酸から各種方法により硝酸カルシウム(Ca(NO3)2)や硝酸ナトリウム(NaNO3)などの窒素肥料を大量につくることが可能になったのだ。

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 ウォーレス・ヒューム・カローザス(1896~1937)は、アメリカの高分子化学者だ。父の教える商業学校で学んだ後、大学へ行きたいのを我慢して、簿記の学校へ入る。そこて、アルバイトとして行ったターキ大学の商学部の助手になったのが幸いした。助手として働きながら、同大学の理学部の学生となることができたのだ。
 1920年には、ターキオ大学を卒業し、イリノア大学院で化学を専攻へ進み、1924年学位を取得後、ハーバード大学で教授を務めていたところ、1928年にデュポン社の基礎研究プログラムの有機化学班長として迎えられた。
 翌1929年には、当時は、まだほとんどわかっていなかった高分子有機化学のうち、重合を付加重合と縮合重合の二つのタイプに分類するのに成功した。付加重合の研究からは、合成ゴム・ネオプレンがつくられる(1931年工業化)。

 それからの縮合重合の研究においては、天然の絹糸に似せた新しい繊維をつくろうと、あれこれと分子設計してみる。けれども、アミノ酸のように異なった種類の連結器を持った化合物はなかなか見つからなかった。それがある時、「それは、一つの分子の両端に、ちがった種類の連結器がなくたって、一つの分子の両端を1個ずつ持った、ちがった種類の分子でもよいのか」(米山正信「子どもと一緒に楽しむ、科学者たちのエピソード20」黎明書房、1996)と考えたという。

 そのような考えで、カロザースら開発チームは、様々な種類のジアミンとジカルボン酸の組み合わせによる合成実験・反応を繰り返しまた繰り返しで試みる。その中から、ジアミンの一種であるヘキサメチレンジアミンと、ジカルボン酸の一種としてのアジピン酸との2種を化学的に連結させると、最も良い糸状の繊維ができることを発明した。
 こうして、ポリアミド系合成繊維ナイロン(通称ナイロン6,6)をつくるの成功する、まさに「世紀の出来事」だった。

 その開発チームを指導したカローザス自身については、1936年に結婚するのだが、研究で疲れた身の癒しを求める彼としては社交の場は馴染まなかったようで、うつ病が高じて1937年に服毒自殺をしてしまう、その翌年、ナイロンはデュポン社から大々的に発表され、そして、父をしらない娘、ジェーンが生まれたのだという、

(続く)

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新♦️472『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツの天文学的インフレーション(1918~1924)

2021-12-10 10:13:18 | Weblog
472『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツの天文学的インフレーション(1918~1924)

 1918年のドイツの第一次世界大戦敗戦時の財政状況は、1913年との比較で4倍近い国債の増発となっており、しかも物価は約2倍に上がっていたという。もう少し辿ると、戦争開始の1913年の歳出25億マルクに対し、1918年のそれは440億マルクというのだから、その膨張ぶりがお分かりいただけるだろう。
 案の定、こうした国債の大量発行は戦時の財政政策全般と相まって通貨の増加となり、人々はその重圧の中に生きていた。それが敗戦になると、今度は多額の賠償金を背負うことになったのだからたまらない。ために、さらに多額の歳出を賄うべく財政赤字を積みましていくという悪循環で陥る。
 1923年に入ると、フランス・ベルギー軍がルールの一部、ラインのウエストファーレン地方の占領を行うと、ドイツはこれを阻止するべく同地の炭坑夫によるストライキで抗議するも、彼らの生活費の補給や同地方が占領されたことによる税収の落ち込みもあり、前述の悪循環に拍車がかかっていく。つまるところ、それらのことで物価がさらに上がり、人々は自国の通貨に対する信頼を急激に失っていく。
 それからは「キャロッピング」といおうか、秋を迎えてからの物価は戦前の1兆数千倍、通貨量は約80億倍にもなっていく話(注)であって、さすがに政府も、こうした流れを断固として食い止めねばならないと決意したようである。1923年10月には、ドイツ・レンテン銀行が設立され、11月15日になると、新たにレンテン銀行券が発行され始める。
🔺🔺🔺
(注)第一次世界大戦後のドイツにおいては、記録的なインフレーションがあった。その前中後にわたるマルクの対ドル為替レートをみると、概ね次の通りだ。
 1914年7月には、1ドル=4.2マルクであったものが、1918年の敗戦後の1919年5月には同レート(以下、同じ)が13.5。1919年12月には46.8。1920年1月には64.8。1920年6月には39.1。192年7月には39.5。1921年7月には76.7。1922年6月になると320.0。1922年7月には493.2。1923年1月には17,972。この年に、ルール占領。
 それからは、さらに飛躍的なマルクの減価が進んでいく。1923年7月には353,412。1923年8月には4,620,455。1923年9月には98,860,000。1923年10月には25,260,280,000。1923年11月には、4,200,000,000,000にも達する、この年レンテンマルク発行。(「ビジュアル世界史」東京法令出版、2000)など。
 もう一つの指標、物価の推移は、敗戦から3年後の1921年には戦前(1913年)の35倍(以下、同じ)。翌1922年には一挙に1475倍に。そのまた翌年の1923年の末には1,422,900,000,000に跳ね上がる。
 これの実感としては、やはり出回っていた商品との関係が分からなければならない。アメリカの経済学者ガルブレイスは、こんな例を紹介している。
 「昨日はたしか1万4000マルクだったハム・サンドウィッチが、今日は同じ喫茶店で2万4000マルクになっている。私は心臓が止まるほど驚いた。(中略)銀行の出札係が、千マルク紙幣で400万マルクを渡してくれた。ごていねいにも彼は、そのおカネを小きれいに包んでくれた。私はレストランにテーブルにそれをのせ、給仕が勘定書をもってきた時、大汗をかいて包をほどいた。この面倒さもやがて解消するだろう。来週の末には100万マルク紙幣が発行される予定だから。」(ガルブレイス著「マネー」)
 そして迎えた1923年の10月、ドイツの中央銀行ライヒス・バンクの政府貸付金は、497,000,000,000,000,000,000マルクに達したとか。いやはや、天文学的数字になっていたところへ、今度は政府が、レンテンマルクという新しい紙幣を発行し、これを旧紙幣の1兆マルクと交換すべきと発表する。その際は、土地が担保となるとのことで新紙幣の発行を実行するのであった。その昔のフランス革命時のフランス革命政府はアッリニア紙幣を、旧支配階級から没収していた土地を担保として発行したのであったが、こちらは土地担保なるものは単なる口実に過ぎなかったのだが。
 (なお、この間のドイツ経済に関する計数などを含め、日本側の文献としては、さしあたり、塚本健「ナチス経済」、今井勝郎「国際経済史新論」を推奨したい)

 これは、8月12日に瓦解したクノー内閣の下でクノー及びシャハトが着想していたものを、その後のシュトレーゼマン連立内閣の大蔵大臣ヒルファーディング(マルクス経済学者)が修正して提案、採用されたもので、その骨子は、次のような段取りであったという(以下は、今井、前掲書からの引用)。
 「(1)レンテン銀行の資本金は32億レンテンマルクでその調達は土地債務によった。つまり各産業が使用する土地の法定価格の4パーセントに当る債権を農業と商工業とで半分ずつ調達して資金とした(実際は特別税として、各産業が債務を年々支払うことによってレンテン銀行は資本を獲得した)。
(2)この土地債務をもとに銀行はレンテン債券を発行した。
(3)このレンテン債権をうらづけとしてレンテン銀行は銀行券ーレンテン銀行券を発行した。
(4)レンテン債権1マルクは兌換のばあいには金1マルクと兌換されるものとした。ただし金1マルクは純金2790分の1キログラムであった。
(5)政府が紙幣をライヒスバンクから調達するために発行した大蔵省債券のすべてを、3億レンテンマルクで償還すると同時に、今後、政府はライヒスバンクに大蔵省債券によって紙幣を調達できないものとした。
(6)レンテンマルクの発行限度は、2000億レンテンマルクであった。そのうち半分を政府に貸付け、その半分ライヒスバンクを通じて実業界に貸すものとした。
(7)レンテンマルクは法定通貨ではない。」(今井勝郎「国際経済史新論」晃洋書房、1999)
 これにあるように、土地に裏付けられた(つまり無価値ではないところの)レンテンマルクを導入することで政府は赤字を紙幣の増刷でうめることが制約され、予算の均衡に努める。そのために公務の従事者を大っぴらに大量解雇できることになった。それと、インフレで価値の減少した既存の国債をレンテンマルクで精算して国債の利子払いを縮小させるとともに、税率の引上げと新税の導入をして歳入の増加を図るという合わせ技なのであった。
 こうして予算を赤字を埋め合わせる、それだけのために、従来からの公式通貨たるマルクが発行されるということは、11月16日以降なくなったという。すなわちこれは、かくも激しいインフレの原因は、財政の赤字に基づく国家による際限のない不換紙幣の増発にあるということ、そのことを強く意識した政策であった。

  
(続く)

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新281『岡山の今昔』~13世紀の岡山人(吉備真備、和気清麻呂)

2021-12-08 21:22:30 | Weblog
281『岡山の今昔』~13世紀の岡山人(吉備真備、和気清麻呂)

 734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。その頃の唐に渡った人物の中に、今で言えば官僚の吉備真備(きびのまきび、695~775)がいた。彼の出身は、吉備の豪族の下道氏(しもつみちし)である。高梁川(現在の岡山県西部を流れる)の支流である小田川流域が、彼の故郷、下道(しもつみち)のあったところだ。
 古代の山陽道は、この辺りでは小田川に沿って都と北九州の太宰府とを結んでいた。684年(天武13年)に朝臣姓を賜ったというから、大和朝廷の寵臣として既に頭角を現しつつあったのだろう。朝廷に出仕し、「大学寮」を優秀な成績で出た真備は、717年(霊亀3年)、第8次遣唐使留学生に選ばれ、4隻船団の一つに乗って唐に向かう。時に、真備23歳のときのことである。この時の留学生として唐に渡ったのは、他に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、留学僧には玄昉(げんぼう)らがいた。18年もの間唐に留まり、その間、多方面の学問に精出したことが伝わる。735年(天平7年)、日本に戻る。さっそく、「唐礼130巻、暦書、音階調律器・武器各種」を献上した。
 真備は、藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄(たちばなのもろえ、大納言)に見出されるとともに、位も上がって「正6位下」に昇叙され大学助となる。以後、同じく唐の留学から帰朝していた玄昉と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねていくことになる。740年(天平12年)、藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱が鎮圧されると、諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)によって真備は疎んじられていく。
 そんな政治に嫌気がさしたのか、翌751年(天平勝宝3年)、遣唐副使として再度入唐した。それから又彼の地で勉強に励んで754年(天平勝宝6年)、唐より鑑真(がんじん)を伴って帰国を果たす。遣唐使の帰り船で、日本にやってきた戒律の高僧であった。中国の唐の時代の人で、上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身だといわれる。701年、13歳にして大雲寺に入り、出家したらしい。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。

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 ここまでは、2回目の唐での生活から帰国するまでの大まかな足取りであったが、今度は政治との関わりの中でも自分というものを失わなかった、その生きざまに着目して、青年時代から晩年まで(一部で重複)を振り返ってみよう。
 顧みると、朝廷の官僚として働くうちに、ある人物と相当に連携して事を行うようになっていたのではないだろうか。その相手方、僧侶の玄昉(げんぼう)は、737年僧正(そうじょう)に任ぜられ、皇太夫人(すなわち聖武天皇の生母)藤原宮子(ふじわらのみやこ)の看病をして功あり。「続日本記」によると、同夫人は長く精神病を患っていた、それを救ったとされている。それを契機に、唐の制度にならい寺院、僧侶の地位を向上させようと、政治に参与し、真備とともに藤原氏にかわって政治に関与していく。これに不満な大宰少弐(だざいのしょうに)の藤原広嗣(ひろつぐ)は玄昉と吉備真備を除くよう要求して740年九州で乱を起こし、敗死したが、玄昉も745年筑紫(つくし)に左遷され、翌746年同地で没した。
 もう一方の真備だが、玄昉とは異なり自らの力を政治的に使い立身出世を図ろうとは考えていなかったようだ。そして迎えた751年には朝廷の意をくんで2回目の遣唐使で大陸にわたる。かの地では、近年発掘されたところでは墓誌を記すアルバイトもしながら、本国のためにと仕事をし、754年に書物を携え帰国する。その時の朝廷で権力をふるっていたのが藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に疎まれ大宰府(だざいふ)に左遷されるも、そこでも地道に働く。それが認められてか、764年に朝廷に復帰し、その年勃発した藤原仲麻呂の乱(注)の平定に知恵を発揮した。その後の僧侶・道鏡による政権の下でも、そつがなく朝廷人として右大臣(うだいじん、766)まで出世していく。
 かくて、藤原仲麻呂を除いては、聖武天皇・橘諸兄・孝謙天皇(後の称徳天皇)・道鏡と多くの権力者と良好な関係を保ち続けた。これを実現可能にしたのは、唐への留学経験で培った知識と、権謀術数に巻き込まれない立場をとったこと、さらに当時の日本が唐から学ぶことが必要であったのが実に大きかったのだろう(なお、当時の朝廷の状況は、北山茂夫「萬葉集とその世紀」下、新潮社、1980に詳しい)。

(注)この乱のきっかけは、764年9月、新羅(しらぎ)討伐を掲げて兵を集めていて、その武力をもって孝謙上皇(後の称徳天皇)を倒そうとしたのが、失敗して鎮圧された。仲麻呂としては、天皇のすげ替え(それまで傀儡として利用していた淳仁天皇(じゅんにんてんのう、在位758~764)を廃位させ、中納言の塩焼王(天武天皇の孫)を新たな天皇に擁立しようとした)を狙ったのが、有力貴族の多くがこれに反旗を翻したのだった。仲麻呂が殺害されたそのあとには、宮中奉仕の僧侶にして上皇とただならぬ関係となっていた道鏡の政権が立ち、さきに囚われの身となっていた淳仁天皇は淡路に流され、翌年10月に殺害されるという複雑さであった。

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 和気清麻呂わけのきよまろ(733~799)は、奈良・平安初期の律令官人。備前国藤野郡(後の和気郡と改称、現在の岡山県和気郡和気町辺り)の出で、父は和気乎麻呂という。
 天平宝字年間(757~765)の初めの頃には、孝謙天皇(女帝にして、後の称す徳天皇)に近侍(きんじ)していた姉の広虫(ひろむし)の推挙によって兵衛となった模様。その後、右少衛少尉、正六位上、従五位下などへと昇進していく。
 この間、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764)に功をたて、称徳天皇の信任を得るも、769年(神護景雲3年)には、道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)が起こる。こちらは、当時称徳天皇が寵愛していた僧侶の道鏡が皇位の座につくことを勧めた神託をめぐるスキャンダルであって、納得できない清麻呂は、宇佐八幡に赴き、神託が偽りだという証拠をつかんだとして、道鏡政権に反対し、左遷される。称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位すると、もとの姓と位に復する。
 それからは、出世コースで、平安京遷都前の788年には中宮大夫となる。桓武天皇にも覚えめでたく仕えて、典型的な高級官僚として名を馳せたようだ。
 そんな清麻呂は、大から小まで庶務に練達していたとされ、また、古事に明るく「民部省例」20巻「和氏譜」の作成に関わったり、土木技術にも才があり、平安遷都にも宮大夫として力を尽くしたという。

(続く)
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新1『岡山の今昔』先史年代の吉備(地殻の形成)

2021-12-08 11:41:19 | Weblog
1『岡山の今昔』先史年代の吉備(地殻の形成)

 今では周知のことながら、元のこの辺りに人はいなかった。後の日本になった地殻も、ユーラシア大陸の一部であって、いまのような形では存在していなかった時代だ。そもそも、その地殻中の「西南日本外帯」では、フィリピン海プレートの斜めからの沈み込みがあったという。
 そのことで、海洋からこのプレートにのることで移動してきた堆積物が、ユーラシア大陸側に押し付けられ、「付加体」なるものができていく。現在の西南の基礎となる岩石は、主にこのことによってできたのだという(山崎晴雄、久保純子「日本列島100万年史」講談社、2017)
 その後も沖合で海洋プレートの沈み込みが続くうち、今日の日本列島を構成する地殻の、あれやこれやの総体が大陸から分離し、やがて今日私たちが知るような形になっていったのではないかと考えられている。そのあらましについては、例えば、次のように言われる。
 「プレートテクニクス理論を組み合わせると、日本海が拡大する前には、東北日本と西南日本はそれぞれロシア沿海州と韓半島の沖合に位置していたとの結論に達した。」(乙藤洋一郎「古地磁気が語る日本列島・日本海の形成」、「地質技術」第7号(2017))
 やがて、次のような大変化が起こる。一説には、そのことを次のように推測している。
 「この古位置から、日本海が拡大の最盛期を迎えた15Maには、東北日本と西南日本の二つの扉は、観音開きのように開いた。」(同)
 なお、ここに「Ma」というのは、地球の歴史に関わる「Mega annum(ラテン語)」の略で、「今から1500万年前」を意味している。それと、地質学でいう地殻とは、地球の表層において、主にマグマが冷え固まってできたもので、地球全体をゆで卵と見立てると、「殻(から)」に相当しよう。あわせて、地殻とその下のマントル最上部の固い部分を合わせた厚さ100キロメートルほどの岩盤のことをプレート(海洋プレートと大陸プレートに分かれる)と呼んでいる。ついでながら、そこからさらに深部に向っての地球の組成は、次のように説明されている。
  「ゆで卵の白身に相当する「マントル」は、主に苦度かんらん石というオリーブ色の鉱物やそれがより高密度な構造へと変化した高圧鉱物(地球深部のような高い圧力と温度条件で安定な、高い密度と強度を有する鉱物)から構成されています。マントルは、その内部を伝わる地震波の速度が急に変化する深さを境にして「上部マントル(深さ410キロメートルまで)」、「マントル遷移層(深さ410~660キロメートル)、「下部マントル(660キロメートル以深)」の3つの領域に分けられます。
 一方、ゆで卵の黄身に相当するのが、深さ2900キロメートルから中心(約6400キロメートル)までを占めている「核」です。核はほぼ鉄とニッケルよりなり、高温のため融けて液体状態となっている。「外核」と、きわめて高い圧力のため、高温でも固体状態の「内核」に分けられます。地球が誕生した当初は、核はすべて液体の状態でしたが、長い年月をかけて徐々に地球が冷えてきた結果、中心部で固化が進んで内核ができたと考えられます。」(大藤弘明「地球深部を鉱物から探る」、国立科学博物館発行の雑誌「milsil(ミルシル)」5、2021年5月号より、一部省略の上引用)
 そこで西南日本の南北の地殻断面を一言でいうならば、地質構造を南北に大きく二分する中央構造線の存在だろう。かかる状況においては、四国のやや北部を東西に走る地層境界断層としての中央構造線(断層)なるものが、総体的には、これまでの日本列島の歴史の中でできた地層の「古傷」に属するというのだ。また、それとは区別しての、中央構造線活断層系(四国〜紀伊半島西部)とは、その一部を使って現在も影に日向に活動している断層のことだという。
 そこでは、南側の「西南日本外帯」(四国側)の山々の方が、「西南日本内帯」(大陸側)の山々よりも高い、これは九州についてもいえることなのだが、九州方面の地殻自体は中央構造線云々の埒外なのだという。
そこで現在にタイムスリッブして、中国山地の岡山県側を眺めると、東の方からごく大まかに、後山、船木山、その後ろに駒の尾山、そして西粟倉村などを挟んで那岐山と来る。さらに、滝山、広戸仙から奥津温泉峡を渡った後には津黒山へといたる。それからは、名高い「蒜山三座」、皆が山と来て、その向こうにつながるのは中国地方最高峰の大山(鳥取県だ。さらに進むと、毛無山、花見山、三国山へと、おおよそ1200メートル前後の山々が連なる(「岡山県の山」山と渓谷社、2010など)。
 再び日本列島ができてからに遡ると、それからは、中国地方の日本海側では、「この時期の火山活動は中生代のそれとは異なり、主として陥没・沈降地域の海底での噴火によるもので、その後の変質で緑色を帯びているのがある」(植田芳郎「中国地方の地質と生い立ち」)とのこと。続いては、こんな説明がなされている。
 「一方、この時代の中国地方の他の地域では、山陰のグリーンタフ地域と異なり、火山活動を伴わない比較的薄い地層が花こう岩や変成岩でできて凹地に堆積しました。これは広島県の山間部の三次盆地(みよしぼんち)や、岡山県では津山盆地に、また瀬戸内海の沿岸部に転々と小分布で残っています。」(同)

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新256『岡山の今昔』奈義町(勝田郡)

2021-12-08 08:20:59 | Weblog
256『岡山の今昔』奈義町(勝田郡)

 奈義町は、県北東部にある、現在の人口は約6千人だという。そのエリアにおいては、東は美作市、西は津山市、南は同じ勝田郡内の勝央町に囲まれる。北には、国定公園那岐山(なぎさん、標高1255メートル)、滝山(標高1197メートル)といった山を、仰ぎ見ることも多かろう。
 その那岐山の頂上に登るとわかることだが、連山の分水嶺を境として、鳥取県智頭町と接す。全体としての山間地域にもかかわらず、日本原高原を懐に抱くあたり、それから東にかけても、空が広く感じられる開けた地形が認められよう。
 このあたりは、年間を通してさして暑くはなく、冬の厳しい寒さを除けば、なかば過ごしやすい気候ではないだろうか。そうはいっても、台風の季節には那岐山麓一帯に、日本三大局地風の一つ「広戸風」がよく吹く。筆者は、当時西隣の勝田郡勝北町(現在は津山市)にいたが、特に、台風が紀伊水道あたりを北上するコースをたどるようなあんばいだと気象台からの通報に、子供心に不安を掻き立てられた。

 そんな奈義町でも、ご多分に漏れず、人口減が続いたことだろう。それを危惧し、町は、2012年に「子育てするなら奈義町で」というキャッチフレーズを掲げ、様々な子育て支援策を打ち出していく。

 これを紹介する記事によると、その見出しには、「人口6000人のこの小さな町は、10年ほど前まで他の過疎地域同様、少子高齢化に悩んでいた。しかし、(平成24年)に「子育て応援宣言」を行い、地域ぐるみで子どもの成長を支えるまちづくりを推進」(DePOLA(デポラ)55、2021年10月号)とある。
 「奈義町の合計特殊出生率が高い理由の1つとして、子育て世代への経済的支援が充実していることが挙げられるだろう。医療費は高校生まで無料、出産支援金の給付、在宅育児支援金の支給、また高校生への就学支援など、子どもの成長に応じて、多岐にわたった手厚いバックアップがされている。(中略)
 町が子育て支援の施策を推し進める一方で、地域の人たちのしっかりとしたサポートがある。官民のバランスがうまくとれているのだと思う、と貝原さん。「地域ぐるみで子育てをサポートする」という町の施策の成功例といっていいだろう。(中略)
 そればかりではない。あわせて、生き甲斐や格差是正に繋がりうる、広い意味での社会福祉的な取り組みにも精出しているとされ、「これからの時代は、「知識・技能」より「主体性・多様性・協同性」が重視され、「身体的文化資本(センス、マナー、コミュニケーション能力、感性、味覚等)」が問われる。そうなると文化の地域間格差と家庭間の経済格差がますます影響するという。なぜなら、「身体的文化資本」は観劇体験や言語環境など「本物」「いいもの」に子どもの頃から多く触れることで育まれる能力だからだ」(同)としている。

 およそこのような取り組みの甲斐あってか、2014年には、女性1人が生涯に産むと見込まれる子どもの数「合計特殊出生率」が全国トップレベルの2.81、さらに2019年には2.95を記録したという。
 そして迎えた、2017年5月19日のことだった、この日、奈義町と特定非営利法人「きずなメール・プロジェクト」は、「地域全体で子育てを支えるまち」を目指す連携・協働の取り組みの実施について協定を締結する。これまでの「なぎチャイルドホーム」や対話教育の推進などが、大いなる力となっているようだ。まるで、「油断は禁物」と心得ているかのよう。皆々でつくったものをこれからも皆々の手で維持、発展させていく、ぜひ頑張ってほしいものだ。
 その他にも、町内には、20世紀の90年代から21世紀にかけては、文化面で注目すべき施設が幾つもできているという。まずは、現代風のテーマを掲げる、町営の美術館(通称はNAGI MOCA)が1994年より活動中だ。建物からして円柱の形をしており、奇抜というほかあるまい、磯崎新が空間そのものが作品となるように設計したという。 3つの展示室は「大地」「月」「太陽」と名づけられ、それぞれに「奈義の自然」への思いが込められる。ゆえに、観賞するには、それなりの心当たりを想像力でもり立てながらであろうか。さらに、そこでの展示作品としては、荒川修作とマドリン・ギンズ、岡崎和郎、宮脇愛子の3組のアーティストが現地にて制作した作品が常設展示され、それに四季折々のテーマで企画作品が加わるらしい。
 概して、建物と合わせて「五感で体験する」のが推奨される、今時珍しい美術館にして、全国的にもほとんど唯一、ゆえに、「世界が認める」ものとして大いに名をはせてもらいたい。
 二つ目には、「奈義ビカリアミュージアム」を紹介しよう。かの時代と、は新生代第三紀中新世、これは新生代に属する新第三紀の最初の世、約 2303万年前から約 500万年前の期間にあたる。この時代の地層は日本では分布が広く、各種の化石に富む。石油や石炭の主要産出層準としても知られる)の中での約1200万年前、日本列島は、再び海の時代を迎えていた。
 はたして、当時の岡山県中国山地のあたり、その南には、海が広がり、島もかなりあり、さながら多島海の景観となっていた。特に、津山盆地から久世、落合、新見、哲西にかけて勝田層群と呼ばれるおもに干潟や浅海で堆積した地層が広く分布していた。
 はたして、この地層からは、多くの化石が産出されている。西方の旧勝北町(現在の津山市東部、)からかかる地層が及んできての奈義町の柿地区は、ビカリヤの模式地でもある「植月」の近くにある。奈義町では、その鶏舎跡を、採集体験もできる「奈義ビカリアミュージアム」として整備している。
 そんなはるか昔の地質時代に生息していたであろう、代表格のピカリヤ化石は、新生代(以下、同じ)古第三紀始新世に出現し、新第三紀中新世まで生息したが、日本では中新世の1600万~1500万年前頃に堆積した地層だけに見られると考えられている。その頃の日本列島は、東日本には「秩父海」、そしてこの辺りには「津山海」などが存在し、今よりもずっと暖かく、一説には、熱帯もしくは亜熱帯の気候であったという。
 このミュージアムの屋内展示ホールの中央には、約1600万年前の「海だった頃の奈義町」がジオラマで再現されている。展示コーナーには、約30種・約300点の貝類などの化石がい並ぶ。いずれも、当地で産出した化石であり、採集者の名が記されているものもあるという。
 展示されているのは、ヤマトビカリア・ビカリエラ・キイキリガイダマシ・トクナリヘタナリなどの巻貝、サクラガイなどの二枚貝、サンドパイプ(カニの巣穴跡)、クジラの脊椎骨など、実に多彩で、それぞれの命を宿していたのであり、興味深い。わけても、脊椎骨の発見されたクジラは、骨の大きさや形から、現生のアカボウクジラではないかと考えられているという。

(続く)

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新252『岡山の今昔』津山市(産業など)

2021-12-07 20:50:30 | Weblog
252『岡山の今昔』津山市(産業など)

 現在の津山市は、岡山県の北部、津山盆地とその周辺から成り立っている。現在の津山市は、2005年2月28日をもって、旧津山市と勝北町、久米町、加茂町、それに阿波村が合併して誕生した。総人口は約10万人だという。
 地理では、北は鏡野町、鳥取県と接す。東には美作市、南にかけては久米南町(久米郡)、西には真庭市。

 その成り立ちでは、古くから美作地域の中心である。713年(和銅6年)の4月に備前国から離れ、現在の津山市総社に美作国(みまさかのくに)の国府が置かれた。それからかなりの時が経過しての江戸時代には、津山城の城下町となる。そして、1876年(明治9年)4月には、北条県が岡山県に合併吸収された。

 思えば、713年(和銅6年)の4月に備前国からから離れて以来1163年ぶりのことであった。続いての1900年(明治33年)には、津山町と津山東町が合併して、第二次の津山町がスタートした。

 この地域における近代産業の展開ということでは、美作域内での繊維大手としては、津山市二宮を本拠地とする郡是グンゼが、1916年(大正5年)、グンゼ株式会社津山工場として設立し、生糸の生産を開始する。

 同社の場合、それが第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

 さらに時代が変わっての市制施行は、1929年(昭和4年)のことであった。

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 第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、産業の復興がなされていく。繊維に、ついていえば、前述の郡是が、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

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 それから、現在につながる合併から10年を迎え、市では、かねてからの新生津山キラめきプラン(津山新市建設計画)や津山市第4次総合計画などでを推進してきた、それを今後の津山市の施策へ繋げてゆくため、合併10年間の成果と課題をまとめた「合併10年の総括と今後の展望」を作成したという。

 続いて、美作の若手を育てる企画から、一つ紹介しよう。
 「美作地域に活力を生み出そうと、若手の起業家や農業者、建築士らによる交流組織「みま咲く未来プロジェクト」が6日、発足した。若者たちが連携できる取り組みを通じ、若者らの定着や、より活躍できる地域づくりを目指す。
 地域の将来像を展望した「みま咲く未来シンポジウム」(11月18日・津山市)でコーディネーターやパネリストとして登壇したウェブサイト制作などのレプタイル(同市)の丸尾宜史社長(37)ら6人で構成する企画会議を同市内で開催。交流組織の立ち上げを決め、組織の在り方や活動内容を話し合った。
 名称は、若者らを支援しようと、シンポジウムや本紙作州ワイド版の連載「この地に生きる―作州の若手」を展開した美作県民局と山陽新聞津山支社による「みま咲く未来プロジェクト」と同名にし、代表に丸尾社長を選んだ。
 今後、組織を紹介するホームページを作成。企画会議に学生らより若い世代のメンバーも加え、具体的な取り組みについて検討していくことなどを申し合わせた(2019年12月6日 、山陽新聞デジタル)。
 これにあるのは、新しい頭脳の一つとしての交流部門の誕生なのだろうが、是非、吉備高原都市構想などの、県内の優れた経験にも取材してほしい、みんなの力を合わせることで頑張ってほしい。
  
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 次には、「地域に生きる企業家群像」として雑誌に見える中から、津山を拠点にしている、広い意味での産業ロボットメーカーの取り組み記事を暫し紹介したい。
 項目としては、「父の急逝が転機と、なり大好きなロボットで起業」、次いで「無理せず無借金経営で着実に成長」「自動化で危険な作業を安全かつ高品質に」ときて、後半は「人材養成のユニークな取り組み」さらに「チャンスをつかむために大切なのは目標を持つこと」で締めくくっている。
 「実はリーマンショック後から、日々の業務の傍ら新たなロボットの開発を続けてきた。それは、合鴨農法の合鴨に代わるような、水田用除草ロボットだ。合鴨のように土壌を撹拌しながら田んぼを走行することで、稲の光合成を妨げる雑草を取り除くとともに、土壌中に酸素を供給し、稲の成長を促す。
 高齢し高齢化し、後継者不足や耕作権放棄地の増加が深刻になっている昨今、米作りが盛んな津山ならではのロボットを社長の出身校である津山高専と共同で開発している。」(黒部麻子「津山に帰郷し、ゼロからのロボットっくりに挑戦。ユニークな発想と広い視野で人材を育成し、独自のロボットの開発を目標に掲げる。IKOMAロボテック株式会社、生駒代表取締役社長(岡山県津山市)、雑誌として中国電力発行「碧い風」103、2021年11月号に掲載)
 これなどは、地に足がちゃんとついて時代の変化に即応している感じが伝わる、なんとも清々しい話で、事業の発展を祈らずにはいられない。

 
(続く)

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新◻️170『岡山の今昔』高梁市(旧川上郡と旧阿哲郡の地域)

2021-12-04 20:50:25 | Weblog
170『岡山の今昔』高梁市(旧川上郡と旧阿哲郡の地域)

 新見から高梁にかけての南下ルートに対し、その西に位置しているのが、高梁市川上町(旧川上郡)、新見市阿西町(旧阿哲郡)であり(前者は後者の南に位置する)、両郡とも現在は高梁市に属す。交通面では、新見から南西方向に迂回して、吹屋(ふきや、高梁市に合併前の川上郡吹屋)を通って山陰と山陽とを結ぶ陸路のルートが栄えたという。
 まずもっての阿哲台(あてつだい)は、標高は約500〜600メートルの台地をなす一帯なのだが、その地質基盤としては、阿哲石灰岩層群(元の秩父古生層)と三郡変成岩類(変成された秩父古生層)の二つの地層から成るという。それぞれの厚さは1500mの内、石灰岩層は600mほどもあるという。台地の中央を南北に流れる複数の河川によって、石蟹郷台、草間台、豊永台、唐松台の四つに分かれているとのこと。
 そこから成羽(高梁市に合併前の川上郡成羽(なりわ)町)にかけて地形に目を向けてみると、このあたりは、中生代ジュラ紀(現在から約1億9960万年前~約1億4550万年前)末にまでさかのぼる。その頃に陸化したであろう日本列島は、その前の古生代の昔から、その後の新生代中新世になって日本海ができるまでは、東アジア大陸の一部を成していたであろう。

 この辺り、自然が織り成す景観は全国でも珍しいほどの独特のものがあろう。中でも有名なのは、井倉洞、磐窟峡、豪渓の3どころであろうか。井倉洞は伯備線の井倉駅から歩いて約5分と近い。
 磐窟峡は、成羽川の一支流、磐窟(いわや)川という小さな川をさかのぼったところにある磐窟谷と呼ばれる深い谷を擁していて、その辺りは樹木もうっそうとしているとされる。こちらも、県の中西部にある白亜の断崖が連なる阿哲台と呼ばれる石灰岩台地の一部であって、磐窟川が長い歳月を掛けて浸食してできた渓谷美は、国指定の名勝地となっている。
 そこでの地質としては、「石灰岩と角岩とからなる標高400~500メートルの台地をつくった深い峡谷となっている。川というより谷の両側に高さ100メートルにおよぶ断崖絶壁が屏風のように連なっている。(中略)
 このほか、見晴らし、天狗(てんぐ)遊び、蜂(はち)の巣(す)岩、白布(しらぬの)の滝などと名付けられた絶壁、奇岩、滝などが約1キロほどのあいだに集中している。
 絶壁の中腹には、1968年(昭和43年)に発見された鍾乳洞・ダイヤモンドケイプがある。長さ400メートルの洞で、非常に繊細な鍾乳石や石筍(せきじゅん)が多く、方解石の結晶がダイヤのように光り輝き、宝石倉のなかに入ったような錯覚さえ受ける。」(「日本の湖沼と渓谷」11、中国・四国、ぎょうせい、1987)
 そんな自然の歴史については、興味深いことが色々とわかっており、ここではその中からまず、現在の岡山県西部、川上郡の町であるところの大賀(たいが)地区を見よう。そこでは、日本列島全体でも珍しい、古代の地形が見られる。その名を「大賀デッケン」という。
 ちなみに、地質学では、地層が切れた際の衝上面と水平面との角度が40度以上である場合を押し被せ断層と呼び、それ以下の低角度をデッケン(Decken)あるいはナッペ(Nappe)と呼ぶ。なお、大賀という土地名は、地名で滝がある「大竹」と、「仁賀」とを併せた由来となっているらしい。その大賀から徒歩2~3分の距離で仁賀の家並みがある。道は、岡山県道294号線を辿って現地にさしかかる。この場所には、領家川が流れている。この川は成羽川の支流であって、領家川流域の吉備高原に位置するところだ。

 参考までに、現地に建つ案内板には、こうある。
 「天然記念物 大賀の押(お)し被(かぶ)せ(大賀デッケン)、昭和12年6月15日国指定
 海流や河川流によって運搬された土砂などは、その運搬作用が止むとき堆積し、地層を形成する。一般に地層が上下に積み重なるとき、上に重なった地層は下にある地層よりも新しい。ところがこの大賀地区では中生代の三畳紀(約2億年前)に堆積した新しい地層(成羽層群)の泥岩・砂岩の上に古生代の石炭紀・二畳紀(約三億年前)に堆積した古い時代の石灰岩層(秩父古生層)が重なり、新旧の地層が逆転した「押し被せ構造」となっている。
 このめずらしい地質構造は中生代の白亜紀(約一億年前)に起こった大規模な地殻変動によってできたものである。このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっているのである。
 現在も、この石灰岩層と泥岩層との境界部は河床に明瞭に見られる。この露頭は大正12年東京大学の小澤儀明博士によって発見された。
 なお、以上の説明とは別に、秩父古生層は隆起して浸食を受けさらに沈降し、その後この地層の上に成羽層群が堆積したという考えもある。文部省 岡山県教育委員会 川上町教育委員会」

 これにもあるように、中生代三畳紀(その中のざっと約2億年前と見られる地層)の泥岩、砂岩の地層(成羽層群(なりわそうぐん)といって、現在の川上町)の上に、古生代石炭紀ペルム期(ざっと約3億年前)、二畳紀の石灰岩の地層(秩父古生層)が覆いかぶさって、地層の逆転がおこっている。
 「このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっている」というのであるから、その原因となった中生代の白亜紀(約1億年前)に起こった大規模な地殻変動の、より詳しい解明が期待される。

 ついでに、この辺りでの「石探し」を少しばかり紹介したい。こちらは、備中高梁駅から備北バスに乗り、川上バスセンター((終点)までいく。それから、成羽川(なりわがわ)を渡り、川上町吉木で川原(かわら)に降りてみよう。この川というのは、広島県庄原市付近の中国山地に源を発し、南下するうちに岡山県に入る、それから高梁市まで来て高梁川に合流する、一級河川だ。すると、五色石など色んな石が見つかるという。その模様は、例えば、こう言われる。
 「特に、成羽五色石と呼ばれる約1億年前の礫岩は色とりどりの礫が入っていてきれいなため、珍重されてきた。礫の種類はチャート、石灰岩、砂岩、泥岩などで、基質は赤色の泥岩で陸成の堆積岩である。また白い石灰岩には紡すい虫やウミユリの化石が含まれているものが多い。」(柴山元彦「ひとりで探せる川原や海辺のきれいな石の図鑑2」創元社、2017)

 この辺りでの植物分布にも特筆すべきものがあろう。この地、高梁市成羽の美術館が来客にわたしてくれるのではないか、そのパンフレットには、「成羽の化石ー日本最古の森」と題し、次の説明がある。
 「中生代三畳紀後期の約2億3千万年前、成羽地域では日本で最初の森が発達しました。その証拠として多くの植物化石を産出します。
 当時の森はイチョウやソテツといった裸子植物やヤブレガサウラボシの仲間のシダ植物が中心で、110種以上が報告されています。その中でも新種は38種と非常に多く見つかっています。このように多種多様な植物化石が産出する場所は世界でも珍しく、「Nariwa Flora(成羽植物群)」として多くの人に認識されています。」(高梁市成羽美術館)

 さて、現在の高梁市の吹屋(ふきや)については、観光ではあのベンガラ屋根の家並みが保存されていて、観光で有名だ。いまでこそ甚だ淋しい集落であるが、807年(大同2年)の開削以来明治の頃までは、日本屈指の銅山の一つであったという。江戸期には、泉屋(後の住友)、福岡屋(後の大塚)、三菱などの大店(おおだな)が銅山の採掘で巨万の富を生み出していた。
 顧みると、備中吹屋の銅山すなわち吉岡銅山(旧・川上郡成羽町)は、江戸時代、大坂の商家であった住友家が開発した銅山の一つであった。住友にとっては、1691年(元禄4年)に開坑した四国の別子銅山が有名であるが、当時はそれと並んで、1681年(天和元年)から吉岡銅山が、同1684年(天和3年)に出羽最上の幸生銅山が開発されており、住友の重要な財源となっていた。これらのうち吉岡銅山は、のちに地元の大塚家の手にわたり、しだいに鉱脈が細りつつも、幕末まで採掘を操業した。当時のこの地は江戸幕府直轄の天領だった。
 1873年(明治6年)になると、その経営は三菱が買収するところとなり、同社の下で近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させたことになっている。地元の資料によると、この山間の地に最盛期には約1600人もの従業員が働いていたというのだから、驚きだ。
1929年(昭和6年)に休山したものの、どういう成り行きであろうか、第二次世界大戦の敗戦後に採掘を再開し、以来ほそぼそと操業を続けていた。1972年(昭和47年)、海外からの良質で安価な銅鉱石の輸入増大に推される形で閉山した。
 なお、かかる旧川上郡には、旧成羽町の西隣に旧備中町があり、さらにその南には旧の川上郡川上町が位置していた。

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 自然の厳しさの中から、人々の生活にはどのような変化が生じていったのだろうか、例えば、次のように紹介されている。 

 「成羽川は備後(びんご)の道後(どうご)山を源に、備中・備後に広がる吉備高原に深い谷をけずりながら、高梁川に合流する。この川は古くから水運交通の要路として、高原上の村村から、谷底への急坂を駄馬の背で運んできた農作物や薪炭などを、舟や筏(いかだ)で運び出すのに使われていた。
 成羽川が高梁川に合流するわずか手前に成羽町がある。ここは「備中神楽」の本場で神楽の里といわれている。(中略)
 白蓋(びゃっかい)行事とよぶ神降ろしにはじまり、藁(わら)でつくった大蛇(だいじゃ)を引きずり回して神がかりになり、託宣を行う。このように、天災を荒神にみたてて信仰してきたのは、成羽川が氾濫川であり、高原上は水利が悪く、気象条件も劣悪という、厳しい自然との闘いの生活があったからだ。
 高原上の村村の生活は、自給自足の農業が主で厳しいものがあった。かつては麦とわずかの米が主食で、畑作ではタバコ、コンニャク、大豆、小豆(あずき)、粟(あわ)などを作っていた。(中略)
 また、和牛の飼育も盛んであった。この地方は石灰岩地帯で、牧草にはカルシウムが多く含まれ、骨の丈夫な牛がつくられた。
 このような備中北部の生活は、年中行事のなかにも、雨乞い、虫送り、収穫祝いの秋祭りなど、農事に関するものを多く織りまぜながら、備中神楽とともに、先祖から受け継いできた風俗習慣を、郷土色濃い姿で残している。」(研秀出版「日本の民話」12、1977)

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 そして、この地の往年の産業として忘れてならないのが、鉱山経営であろう。その代表格の吉岡銅山の跡は、2007年に「吉岡銅山関連遺産」として、経済産業省の近代化産業遺産(瀬戸内銅)に登録されている。その認定の種類としては、「吉岡銅山関連遺産資料等笹畝坑道、沈殿槽、ボタ山、精錬所、選鉱所、煙道、 三番坑口、ベンガラ館」というのであって、1972年(昭和47)に閉山となっていたのが、その鉱山跡地に今では観光がメインとなっている。
 そもそもこの辺りは、古代から鉱石が多く産出されてきた場所柄で、「吹屋よいとこ金掘るところ 掘れば掘るほど 金がでる」などと、威勢のよい話でもちきりであったとか。中でも、当地の吉岡銅山は、807年(大同2年)の開坑と伝わり、戦国時代には利権を巡って有力大名による争奪戦が展開された。それが、江戸時代中期には、大坂の泉屋(いずみや、後の住友家)が経営に参画し、国内屈指の産銅量を誇る鉱山に成長する。明治時代初期には、野心家の岩崎弥太郎が率いる三菱商会が買収し、外国の先進技術の導入したりで、鉱山経営を発展させていく。
 運搬面では、1907年(明治40年)の開通以来活況を呈していた原材料の搬入から鉱石の運搬まで活躍していたトロッコ輸送だが、1928年(昭和3年)に伯備線が全通すると、吉岡銅山は貨物を石蟹駅までトラックで運び、鉄道輸送に切り替えられる。しかし、1931年(昭和6年)には銅鉱脈の枯渇もあって、同経営での吉岡銅山は閉山にいたった。その後は、吉岡鉱山株式会社として経営に当たっていたが、1972年(昭和42年)には、最終的に閉山した。

 また山宝鉱山(さんぽうこうざん)跡は、高梁市(旧・川上郡備中町)の鉱山にして、主に磁鉄鉱を採鉱していたという。しかし、1970年(昭和45年)頃には、海外からの鉄鉱石輸入の増大があり、閉山した。こちらでは、昭和初期頃は、7つの坑道を持つ大きな鉱山だったそうで、多くの人が働いていたようだ。坑道より磁鉄鉱を運び、トロッコで降ろ し、運んでいた。1973(昭和48年)からは生石灰が製造され、1976(昭和51年)になると、新鉱物として承認されたソーダ魚眼石が見つかったことでも知られる。なお、封鎖された坑口が残る。さらに小泉鉱山跡は、これまた高梁市(旧・川上郡成羽町)にあった鉱山にして、 銅・鉛・亜鉛が採掘されていた。 こちらでは、広大なズリ跡が残る。そのほか、近場には高取鉱山など、大規模な鉱山跡が多々存在しており、往時のこの辺りには労働者たちの活気がみなぎっていたのだろうか。


(続く)

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新◻️36『岡山の今昔』伝統文化(神事や踊り)

2021-12-04 09:45:04 | Weblog

36『岡山の今昔』伝統文化(神事や踊り)

 さて、日本伝統文化には、神事にまつわるものが多い。近代に入っては、その神のありがたさ、「こ利益」のかなりがはく落してきた。とはいえ、「無病息災」や「家族安寧、家内安全」「金運」などへの期待は、形をかえ、現代に息づく。
 そこで、すこしばかり紹介したいのは、他でもない、岡山に伝わる文化の一つとして、地元の人々に古代もしくは近世から受けつがれて来ているもの(思い)を、歌や踊りなどを介在させながら演じる行事のことだ。
 ごく主な行事をひもとくと、「備中神楽(びつちゅうかぐら)」、「白石踊り」、「護法祭り」、「牛窓唐子踊り」、「西大寺会陽(さいだいじえよう)の祭り」、「阿波(あば)八幡神社花祭り」などがあろう。

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 これらのうち備中神楽というのは、荒ぶれた魂を鎮めるための「荒神神楽(こうじんかくら)」を源流とするも、江戸時代末期の神官、西林国橋(にしばやしこっきょう)が「古事記」「日本書記」などの記述を参考に「神代神楽」を考案したと伝わる。
 その背景にあったのは、「何年も凶作が続いた江戸末期のこと、神の怒りを解くため年一度の氏神さまの祭礼を盛大に行い、神楽を奉納することになった。そこで、それまでの神楽とは異なった題材が考えだされ、古事記や日本書記に取材して神話劇がつくられた。内容が平易で楽しめることから各地に普及し、現在の盛況をみた」(研秀出版による「日本の民話」12、1977)とされる。

 勇ましくもメリハリ効いた古代衣服に身を包み、ダイナミックに踊る。「ストーリー性が豊かな神話劇」との評価があり、五穀豊穣、家内安全を願う庶民の味方として、現在においてもファンが多いとのこと。
 なお、当地には、江戸時代の1648年(慶安元年)、備中松山藩主、水谷勝隆(みずたにかつたか)の肝いりで始まったともされる、五穀豊穣と町屋の繁栄を祈っての夏の風物詩「備中高梁松山踊り」とも親和性があるのではないだろうか。

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 白石踊りは、笠岡市白石島、それは、笠岡港の沖合約16キロメートルの瀬戸内海に浮かぶ、その小さな島に伝わる盆踊りで、毎年8月13日~16日の夜に行われる。大宮踊、備中松山踊りと並んで、岡山県下三大踊りの一つともされる。
 一つの口説き(音頭)に合わせて、男踊・女踊・娘踊(月見踊)・笠踊・奴踊・扇踊など13種類の踊りがあるとのことで、
音頭には「那須与一」などがある。
 その由来は、かの源平による水島合戦の戦死者の霊を弔うためであるらしい。重要無形民俗文化財に選定されているとのこと。ビデオで垣間見るのは、いかにも、「古式ゆかしい盆踊り」との評判にたがわず、潮騒の音まてがこちらに聞こえてくるかのようだ。

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 3つ目に、牛窓唐子踊りをご存知だろうか。こちらは、朝鮮からの「通信使」が牛窓を宿としていたのと、関係があるらしく、例えば、こう言われる。
 「その牛窓に現在も伝えられている稚児舞(ちごまい)が唐子(からこ)踊り。「こんねんはじめてにほんへわたり、にほんのみかどはおりません」歌詞の意味は不明だが、朝鮮語らしき部分もあり、朝鮮通信使の影響があることはあきらかだ。」(赤岩州五、北吉洋一「藩と県、日本各地の意外なつながり」草思社、2010)

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 次に移ろう。護法祭(りょうざんじごほうさい)というのは、毎年8月14日から15日にかけて行われる、仏法擁護、伽藍安全の守護神である「二上山鎮守護法善神」に祈念する奇祭で、県指定重要無形民俗文化財に認定されているとのこと。場所的には、三咲町の両山寺、それに隣接する久米南町の清水寺と両仙寺で現代に伝わる。
 その中でも最古とされるのが、両山寺の祭りにして、境内に氏子(うじこ)たちを迎えて派手に執り行われるという。
 どれくらい古いのかというと、1275年(建治元年)、時の両山寺の僧・定乗が、護法善神より託宣を得て、天下泰平・風雨順時、五穀豊穣・万民豊楽を願うものだ。なお、護法善神とは、仏教を守る守護神・鎮守として両山寺本堂の北上にある二上神社にその社があるとのこと。

 こちらのルポルタージュとしては、さしあたり、久保田裕道氏の著作「日本の祭り解剖図鑑」(株式会社エクスナレッジ、2018)を中心に紹介したい。こちらでは、各場面が絵入りで紹介されているので、便利だ。つまるところ、そのクライマックス場面が実に変わっていて、護法実(ごほうざね)と呼ばれる男性と護法善神(通称は「ゴーサマ」)とが登場して、かなりの立ち回りを演じている。なにしろ、神と仏が混合したかのような護法善神を境内に招き入れた後には、その神が護法実に乗り移る。護法実の頭には、紙手(しで)と呼ばれる帽子のようなものが乗っかっていて、多数の半紙を重ね作っているのだという、すなわち、はじめから神がかりなのだ。まあ、そこまでは、なんとなく頷けよう。
 そして、お迎えした護法善神の化身は、「境内をお遊びになる」というのだが、そのやり方が尋常ではない。しかも、彼には、「ケイゴ」の異名をもつ少年たちが動員されて、身辺警護を務めているとのこと。つまり、「ザ・ガードマン」たちがいるのだ。この祭りのクライマックスは、「手火」と呼ばれる大きめの松明(たいまつ)の火を消してから始まるという。そして、護法実が暗闇の中を寺の周囲を走り回り、観客は捕まらないよう逃げまどうというのだから、驚きだ。
 しかも、「もしこの護法実を、邪魔するなどして、捕まれば、その人は3年以内に死ぬと伝えられているから恐ろしい」(前掲書)とも。これに取り入れてあるのは、仏教ばかりではなくて、バラモン教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教の影響もあるような、そんな気がするのだがいかがであろうか。

(続く)

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◻️新330『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、良寛)

2021-12-03 21:32:23 | Weblog
330『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、良寛)

 良寛(りょうかん、1758~1831)は、日本にあまねく知られる仏教者にして、書や詩作などもよくした。とりわけ書は、かの「平安の三筆」と並び誉れ高い。彼らとは別段の自然な境地にて、燦然と輝く。

 念のため、「良寛」とは、実名ではなく、正しくは、仏教でいうところの法号にほかならない。1779年(安永8年)には、玉島の円通寺の国仙和尚が越後の尼瀬にある光照寺をおとずれ、そこで禅の修行をしていた若き日の山本新左衛門に得度を与える。国仙の下で、その新左衛門は「良寛」の法号を与えられる。自分の寺に帰る国仙について故郷を後にし、玉島の円通寺に赴く。
 それからの修行でめきめき頭角をあらわし、1790年(寛政2年)には、国仙から雲水修行の印可を受ける。師匠から「一等首座」の地位を与えられる。そして、円通寺境内にある覚樹庵を預けられる。
 翌1791年に国仙が69歳で病没すると、諸国行脚の旅に出る。どうやら、師匠の跡を継ぐ気などはなかったようだ。
 その頃の良寛の人となりをあらわすと思われるものに、その頃の作であろうか、本人による次の詩がある。

 「面仙桂和尚真道、貌古言朴客、三十年在國仙會、不参禅讀経、
不道宗文一句、作園蔬供養大衆、當時我見之不見、遇之遇之不遇、吁嗟今放之不可得、仙桂和尚真道者」
 書き下し文は、次の通り。
 「仙桂和尚は真の道者、黙して言わず朴にして容づくらず、三十年国仙の会に在りて、禅に参ぜず経を読まず、宗文の一句すら道わず、園菜を作って大衆に供養す、当時我れ之を見れども見えず、之に遇えども遇わず、ああ今之に放わんとするも得べからず、仙桂和尚は真の道者」

 これにいう仙桂和尚は、どうということはないほどに、人におのが実力を誇示したりの人ではなかったようだ。自らに与えられた職務である、同寺の典座(てんぞ、炊事係)を淡々と務めていたことであり、良寛は相当に尊敬していたらしい。思い起こせば、日本における曹洞宗の開祖・道元の言辞に、中国に留学のおり、ある典座の言葉にいたく感動したという話が伝わっており、その故事にならったのかもしれない。ともあれ、その頃の良寛は、本山争いをしている永平寺と総持寺の首脳の在り方にはうんざりしていたらしい。
 
 やがて、岡山を去ると、行雲流水とでも形容したらよいのだろうか。住職になる気は、なかったようなのだ。それからは、僧侶の世界において立身出世を目指すでもなく、妻帯するでもなく、「五合庵(ごごうあん)」に一人で住んでいた。そして60歳を過ぎた頃、20年位住み慣れた五合庵をすてて、山を下り、山麓に乙神社にやって来た。その境内に小さな平屋を見つけて、そこに住んで、その村で子供たちと遊んだり、村人に請われれば出向いて経(きょう)を唱え、書き、また萬(よろず)の相談によるというような、かなり自由な毎日であったようだ。そのほか、食事のためには托鉢をしてまわり、また筆をとっては、どちらかというと嬉しげな作文を次から次へと産み出していった。
 
 そんな良寛が後代に残した歌は、相当な数になるのではないだろうか。それらについて一般に最も馴染みな歌としては、70歳になって恋をしたかに見える時に詠んだ、あの「かたみとて、何のこすらん、春は花、夏ホトトギス、秋はもみじ葉」であろうか。
 その原文とは、「閑多美東天、難尓能こ数良無、者留波波那、奈都報東東起春、安幾者裳美知波」と、万葉仮名(まんようかな)で書かれている。
 その紙への本人の筆致たるや、書家などからは「ひょろり、ひょろりと文字をおいて、余白空間をじつに楽しげに楽しんで、世にもすばらしいメッセージとしているのである」(榊莫山(さかきばくざん)「書のこころ」NHK出版、1996)などと激賞されてやまない。
 

(続く)

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♦️576『自然と人間の歴史・世界篇』ユーゴスラビアの自主管理社会主義(1946~1951)

2021-12-03 18:23:26 | Weblog
576『自然と人間の歴史・世界篇』ユーゴスラビアの自主管理社会主義(1946~1951)

 第二次世界大戦後に成立したユーゴスラヴィア連邦が目指したのは、新しい政治経済の仕組み、社会主義であった。これを、馴染みのスローガンで表すと、次の通りであった。

 「国境を接する国が7つ(ギリシア、オーストリア、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア)共和国が6つ(セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア、スロヴェニア) 民族は5つ(セルビア人、クロアチア人、ボスニア人、マケドニア人、スロヴェニア人) 言語は4つ(セルビア語、クロアチア語、マケドニア語、スロヴェニア語) 宗教は3つ(キリスト教のカトリック教会、同ギリシア正教会、イスラム教) 文字は2つ(ラテン文字、キリル文字) でも、国は1つ。」

1946年には、ユーゴスラヴィア連邦において、「国家計画化法」が制定された。その約5年後の1951年12月30日には「国民経済の計画的管理に関する法律」(計画管理法)が公布され、「国家計画化法」に定める指令と報告という垂直的な個別制御のやり方から、「基本比例」による誘導的な全般的制御のやり方へと変更された。
 その場合、「基本比例」として計画当局が定めるのは次のとおりとなる。①連邦と共和国における産業毎の最小設備利用率(操業率)、②一般的投資ファンドからの投資元本の分配、③最低操業率(最低供給量)に対応する平均賃金あるいは賃金フォンド、④産業毎の蓄積率、⑤一般投資ファンド、連邦予算、その他諸予算への納付金の負担率、それから⑥連邦予算を通じて分配される諸フォンドの決定である。
 1946年1月制定のユーゴスラビア憲法(「1946年憲法」)は、ソ連のいわゆるスターリン憲法に酷似している点が多々あった。この憲法下でユーゴスラビアの政権は、1946年末までに鉱業の約80%を国有化する計画が立てられ、1947年4月からは重工業育成のための5カ年計画を策定しようとしていた。
 その1947年には、「収用に関する法律」が施行された。1847年12月、「私的企業の国有化に関する法律」が施行された。1948年4月、第二次の「国有化法」が発布されました。小売り商店や食堂などが国有化された。ユーゴスラビアでは、1950年6月、連邦人民議会で「労働集団による国家経済企業と上級経済連合の管理に関する基本法」(略称は労働者自主管理法)が成立しました。その第1条には、こうある。
「工場、鉱山、交通企業、輸送企業、商業企業、農業企業、林業企業、公共企業そして他の国家経済企業を全人民的財産として社会共同体の名前で労働集団が管理する(中略)。労働集団は、企業の労働者評議会と経営(管理)委員会、また多数の経済企業が連合している上級経済連合の労働者評議会と経営(管理)委員会を通してこの管理を実現する。」
 この1950年時点の労働者自主管理管理法では、企業長は労働集団によって指名、任命されることにはなっていなかった。企業長は、上級経済連合があるときは同連合の管理委員会が任命し、企業が連合していないときは管轄の国家機関が任命することになっていた。また、「上級経済連合のディレクターは、連邦人民議会の幹部会、共和国人民議会の幹部会または人民委員会が任命する」(第43条)ことになっていた。1951年12月には、国家計画化法が廃止された。

(続く)

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