33『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)
ここに「万葉集」とは、日本で最初の歌集であり、4500首余りを収録している。原文は、ほぼ漢文で書かれている。もう少しいうと、音を漢字で表した万葉仮名(まんようがな。(注))、漢字の音・訓読み、それに仏教からくる悉曇(しったん)文字までいりまじっている。それだから、当時から読み通すのが難しく、平安時代の初めにはほとんど読む人がいなくなっていたという。
(注)ここで、「万葉仮名」で記されている万葉の歌のなんたるかは、まだ平仮名がない時代、人々が苦心の賜物であったことが窺える。以下に引用するのは、「書」の立場から、石川九楊氏は次のように解説しておられる。
「当たり前のことなのに、一般にまで知られている事実に、『万葉集』の歌は、すべて漢字で書かれているという事実がある。(中略)
元へ戻れば、万葉の歌というのは漢字の歌。したがって、万葉仮名は仮名とはいうものの実は漢字。特殊な形態で使われたところの漢字、これが万葉仮名である。(中略)
このように考えると、万葉仮名はたしかに前平仮名であっても代用平仮名ではなく、表音と表意の間を揺れ動きながら日本独自の「歌」という名の詩を作り上げた。女手=平仮名とは異なる独立した範疇(はんちゅう)の仮名であったと言える。
『万葉集』の時代、たしかに歌謡もあり、日常的にしゃべっている言葉もあった。しかし、当然ながら既に中国語を話したり、書いたりもしている。そういう中で、中国の漢詩によってはその全部を表現しきれない意識が、東海の孤島にはふつふつと沸き上がっていたのである。(中略)
前200年頃から入ってきて、そして紀元頃には、倭国の王とその周辺の上層部では、きちんとした漢文を読み、書けた。書けただけではない。東アジアの支配体制と政治構造が、どのように成り立っているかを仔細(しさい)に知っていた。それゆえ皇帝に上表を提出して、国王に任命してもらったわけである。大陸体制下の一つの地方であるから、貨泉(中国製のお金)も入ってきている。
こういう歴史を経て、650年ぐらいには中国から分かれて政治的独立を達成し、『万葉集』が書かれる700年頃には、漢詩・漢文を知悉(ちしつ)した知識人が政治を仕切っていた。それゆえ『万葉集』ができたのである。自家薬籠中にした漢詩・漢文を操って、これとの関係で歌を作り、書いていくこともできるようになった。この漢詩・漢文のさらなる学習のための国家的行事が写経であった。(中略)
日本語というものが形成されていく上で、紀元後650年頃から、平仮名ができる900年頃までの間は、特別に重大な時代であった。そして、その過程に『万葉集』が深くかかわっているのである。」(石川九楊「万葉仮名でよむ『万葉集』」岩波書店、2011)
こういう歴史を経て、650年ぐらいには中国から分かれて政治的独立を達成し、『万葉集』が書かれる700年頃には、漢詩・漢文を知悉(ちしつ)した知識人が政治を仕切っていた。それゆえ『万葉集』ができたのである。自家薬籠中にした漢詩・漢文を操って、これとの関係で歌を作り、書いていくこともできるようになった。この漢詩・漢文のさらなる学習のための国家的行事が写経であった。(中略)
日本語というものが形成されていく上で、紀元後650年頃から、平仮名ができる900年頃までの間は、特別に重大な時代であった。そして、その過程に『万葉集』が深くかかわっているのである。」(石川九楊「万葉仮名でよむ『万葉集』」岩波書店、2011)
すなわち、ひらがなができるまでのこの列島に住む人々の言葉は、話し言葉としてはあっても、書き言葉はなく、しかも、それがない時代での漢字の用い方の性格は、それがない時代にその代わりとしての万葉仮名というようなものではなくて、それなり漢字の意味をあてはめながら作文していくのであったろう。
そこで、村上天皇が当時の歌人5人に読み解きを命じ、それからの識者の努力で、だんだんに多くが読み残され、次代へ引き継がれていく。
それらの歌の中には、王候貴族や有名歌人ばかりでなく、「名もなき人」の作をも含む。それらのうち吉備にまつわる歌も幾つかあるので、少し紹介しよう。
その一として、「大和道(やまとじ)の 吉備の児島を 過ぎて行(ゆ)かば筑紫の児島 思ほえむかも」(巻6-967、大伴旅人(おおとものたびと))。
これの現代語訳の例としては、「都へ帰っていく途中、吉備の児島を過ぎていく時は、きっと筑紫の児島、お前さんのことを思い出してたまらない気持になるだろう」
果たして当時の吉備の児島は、現在の岡山市、玉野市、倉敷市を中心とする児島半島の姿としてあったのではなくて、「吉備の穴海」の中に浮かぶ独立した大きな島であった。このあたりでの海流は、かなり早く、潮待ちの港として栄えたところだ。
それから、ここでの作者の旅人なのだが、大伴氏は名門貴族の家柄であっても、橘氏と藤原氏の抗争に巻き込まれていたという。どちらかというと、策謀家の鎌足以来、今も伸長著しい藤原氏に、覚えが芳しくなかったのではないだろうか。息子の家持(やかもち)の代になると、一族の命運をどう保つべきかの岐路に立たされた、と伝わる。そこで、朝廷の命令を受けての、「万葉集」の編集に加わることで、危難から距離を保とうとするのであったらしい。
その二として、笠金村(かさのかなむら)の歌には、「波の上ゆ 見ゆる児島の 雲隠(きもがく)り あないきづかし 相別れなば」(巻8・1454)
これの現代語訳例は、「波の上のところに、浮かんで見えているところの児島が雲に隠れている。それとは異なることながら、ああとため息が出てくることだ。私たち二人は、はなればなれになってしまったのだなあ。」
唐に赴く使者に、はなむけとして贈った長歌の反歌して、春にうたわれたことから、「春の相聞歌(そうもんか)」に分類分けされている。作者は京都にいながらにして、一旦海に出たら、船の進行につれて、たちまちに雲があわられ、児島を隠してしまう、そんな情景を思い描いてのことなのだろうか、その後に本文が登場してくるみたいだ。
三番目には、牛窓にまつわる物語があって、かの地の浜辺で浮かんできたのかもしれない。それというのも、年頃の男女がいて、歌い手からすると、恋心に悶えるようにぬっていたのだろうか、その歌にはこうある。
「牛窓の波の潮さい島とよみ、寄りそりし君は逢はずかもあらむ」(「万葉集」巻11)
この地を訪れていたのか、それとも住んでいたのだろうか、牛窓の浜に打ち寄せる潮鳴りが島に響きわたるように、人の口の端(は)にのぼったあの人は、私ともう逢ってくれないのではないだろうかと、切ない。
「牛窓の波の潮さい島とよみ、寄りそりし君は逢はずかもあらむ」(「万葉集」巻11)
(続く)
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