新◻️33『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)

2021-12-02 22:05:44 | Weblog
33『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)

 ここに「万葉集」とは、日本で最初の歌集であり、4500首余りを収録している。原文は、ほぼ漢文で書かれている。もう少しいうと、音を漢字で表した万葉仮名(まんようがな。(注))、漢字の音・訓読み、それに仏教からくる悉曇(しったん)文字までいりまじっている。それだから、当時から読み通すのが難しく、平安時代の初めにはほとんど読む人がいなくなっていたという。

(注)ここで、「万葉仮名」で記されている万葉の歌のなんたるかは、まだ平仮名がない時代、人々が苦心の賜物であったことが窺える。以下に引用するのは、「書」の立場から、石川九楊氏は次のように解説しておられる。
 「当たり前のことなのに、一般にまで知られている事実に、『万葉集』の歌は、すべて漢字で書かれているという事実がある。(中略)
 元へ戻れば、万葉の歌というのは漢字の歌。したがって、万葉仮名は仮名とはいうものの実は漢字。特殊な形態で使われたところの漢字、これが万葉仮名である。(中略)
 このように考えると、万葉仮名はたしかに前平仮名であっても代用平仮名ではなく、表音と表意の間を揺れ動きながら日本独自の「歌」という名の詩を作り上げた。女手=平仮名とは異なる独立した範疇(はんちゅう)の仮名であったと言える。
 『万葉集』の時代、たしかに歌謡もあり、日常的にしゃべっている言葉もあった。しかし、当然ながら既に中国語を話したり、書いたりもしている。そういう中で、中国の漢詩によってはその全部を表現しきれない意識が、東海の孤島にはふつふつと沸き上がっていたのである。(中略)
 前200年頃から入ってきて、そして紀元頃には、倭国の王とその周辺の上層部では、きちんとした漢文を読み、書けた。書けただけではない。東アジアの支配体制と政治構造が、どのように成り立っているかを仔細(しさい)に知っていた。それゆえ皇帝に上表を提出して、国王に任命してもらったわけである。大陸体制下の一つの地方であるから、貨泉(中国製のお金)も入ってきている。
 こういう歴史を経て、650年ぐらいには中国から分かれて政治的独立を達成し、『万葉集』が書かれる700年頃には、漢詩・漢文を知悉(ちしつ)した知識人が政治を仕切っていた。それゆえ『万葉集』ができたのである。自家薬籠中にした漢詩・漢文を操って、これとの関係で歌を作り、書いていくこともできるようになった。この漢詩・漢文のさらなる学習のための国家的行事が写経であった。(中略)
 日本語というものが形成されていく上で、紀元後650年頃から、平仮名ができる900年頃までの間は、特別に重大な時代であった。そして、その過程に『万葉集』が深くかかわっているのである。」(石川九楊「万葉仮名でよむ『万葉集』」岩波書店、2011)
 すなわち、ひらがなができるまでのこの列島に住む人々の言葉は、話し言葉としてはあっても、書き言葉はなく、しかも、それがない時代での漢字の用い方の性格は、それがない時代にその代わりとしての万葉仮名というようなものではなくて、それなり漢字の意味をあてはめながら作文していくのであったろう。

 そこで、村上天皇が当時の歌人5人に読み解きを命じ、それからの識者の努力で、だんだんに多くが読み残され、次代へ引き継がれていく。
 それらの歌の中には、王候貴族や有名歌人ばかりでなく、「名もなき人」の作をも含む。それらのうち吉備にまつわる歌も幾つかあるので、少し紹介しよう。
 その一として、「大和道(やまとじ)の 吉備の児島を 過ぎて行(ゆ)かば筑紫の児島 思ほえむかも」(巻6-967、大伴旅人(おおとものたびと))。
 これの現代語訳の例としては、「都へ帰っていく途中、吉備の児島を過ぎていく時は、きっと筑紫の児島、お前さんのことを思い出してたまらない気持になるだろう」
 果たして当時の吉備の児島は、現在の岡山市、玉野市、倉敷市を中心とする児島半島の姿としてあったのではなくて、「吉備の穴海」の中に浮かぶ独立した大きな島であった。このあたりでの海流は、かなり早く、潮待ちの港として栄えたところだ。
 それから、ここでの作者の旅人なのだが、大伴氏は名門貴族の家柄であっても、橘氏と藤原氏の抗争に巻き込まれていたという。どちらかというと、策謀家の鎌足以来、今も伸長著しい藤原氏に、覚えが芳しくなかったのではないだろうか。息子の家持(やかもち)の代になると、一族の命運をどう保つべきかの岐路に立たされた、と伝わる。そこで、朝廷の命令を受けての、「万葉集」の編集に加わることで、危難から距離を保とうとするのであったらしい。

 その二として、笠金村(かさのかなむら)の歌には、「波の上ゆ 見ゆる児島の 雲隠(きもがく)り あないきづかし 相別れなば」(巻8・1454)
 これの現代語訳例は、「波の上のところに、浮かんで見えているところの児島が雲に隠れている。それとは異なることながら、ああとため息が出てくることだ。私たち二人は、はなればなれになってしまったのだなあ。」
 唐に赴く使者に、はなむけとして贈った長歌の反歌して、春にうたわれたことから、「春の相聞歌(そうもんか)」に分類分けされている。作者は京都にいながらにして、一旦海に出たら、船の進行につれて、たちまちに雲があわられ、児島を隠してしまう、そんな情景を思い描いてのことなのだろうか、その後に本文が登場してくるみたいだ。


 三番目には、牛窓にまつわる物語があって、かの地の浜辺で浮かんできたのかもしれない。それというのも、年頃の男女がいて、歌い手からすると、恋心に悶えるようにぬっていたのだろうか、その歌にはこうある。
「牛窓の波の潮さい島とよみ、寄りそりし君は逢はずかもあらむ」(「万葉集」巻11)
 この地を訪れていたのか、それとも住んでいたのだろうか、牛窓の浜に打ち寄せる潮鳴りが島に響きわたるように、人の口の端(は)にのぼったあの人は、私ともう逢ってくれないのではないだろうかと、切ない。
「牛窓の波の潮さい島とよみ、寄りそりし君は逢はずかもあらむ」(「万葉集」巻11)

(続く)

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新228『岡山の今昔』新庄村(真庭郡)

2021-12-02 20:54:58 | Weblog
228『岡山の今昔』新庄村(真庭郡)

 新庄村(しんじょうむら、真庭郡)は、岡山県の西北端にある山あいの村だ。自然としては、毛無山を主峰とする1000m級の美しい連山に囲まれ、村の面積67.1平方キロメートルのうちの91%を山林が占める。また、岡山県三大河川のひとつ旭川の源流域にもあたるとのこと。
 毛無山に立ち入ると、数百年をかけて自然が作り出したブナの原生林を中心とした混生樹林が多く、植物の宝庫となっており、観光でも、リンドウ名所である。その上、希少な動物も数多く生息しているとのことで、そうであるなら、隠れた名所にたがうまい。
 2019年10月1日時点の住民の数は915人、世帯数385世帯の、広い村域の割には相当程度過疎の村だとされる。1872年(明治5年)の村政施行以来一度の合併もなく、そういえば「大字(おおあざ)」と名の付く地域もないとのこと。
 21世紀に入り、ほとんどの自治体が新しいスタンスによる行政を模索し、相次いで時流に乗る中、2005年3月31日に当時の真庭郡勝山町、落合町、湯原町、久世町、美甘村、川上村、八束村、中和村及び上房郡北房町の9町村が合併して真庭市が発足した時も、その盟約に加わらなかった。
 気候としては、日本海側各地の厳しさとさほど変わらないのではないだろうか。それというのも、年間平均気温は摂氏11度程度にして、降雪機は12月から3月までほぼ4カ月間と長く、したがって年間の積雪量も多いという。 ちなみに、21世紀に入り、ほとんどの自治体が新しいスタンスによる行政を模索する中、2005年3月31日当時、「岡山県冬期道路気象情報システム」が設置されていた。その実、「国道181号新庄村役場ライブカメラ」が設置されていて、「新庄村幸町の新庄村役場に設置された国道181号(出雲街道)が見えるライブカメラです。独自配信による静止画のライブ映像配信です。岡山県土木部道路整備課保全班による配信」(インターネット情報、2021.12時点)と説明がなされている。
 古くは出雲街道の宿場街「新庄宿」として栄えたというのが頻繁にあって交通の難所となる訳だから、冬場においては、十分な交通対策があってこそ公私にわたる色んな営みが成り立っていく話なのであろう。
 それでは、現代における主な産業としては、何があるのだろうか。主なものは、観光に、農業(水稲、畜産)、林業特産ひめのもち、さるなしワインだといわれる。
 なにしろ、出雲街道の宿場町として栄えたことから、通りのなかほどには、江戸時代に脇本陣として使用された「木代邸」など往時を連想させるものが残っており、同邸においては三列六間取りの間取りと、入口の「馬つなぎの環」が有名だ。
 それと、観光案内に欠かせないのが街道沿いの桜並木だ。そもそもは、1906年(明治39年)、日露戦争の戦勝記念として137本のソメイヨシノが植樹されて以来、はや1世紀を超えている。「がいせん桜」というのだそうで、毎年4月には寒流の桜を見ようと多くの観光客で賑わうという。 

(続く)

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新◻️286『岡山の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)

2021-12-01 21:03:37 | Weblog
286『岡山の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)

 雪舟(せっしゅう、1420?~1506?)の人生がどんなであったかは、実はあまりわかっていない。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。

 旅上手で知られる宮脇俊三氏は、その小さな寺のことを、こう触れておられる。
 「総社を出ると左に近く宝積寺が見える。少年時代の雪舟が柱にしばられて涙でネズミを描いたという、あの寺である。松の大樹に囲まれた立派な堂宇が揃(そろ)っていて、総社で下車してこの寺を散歩してもよかったと思う。どうせこの列車で行っても備中高梁でつぎの新見行を1時間以上待たねばならないから、どこで時間をつぶしても同じなのである。
 宝積寺を過ぎると高梁川に沿う。山間をゆったりと流れる水量の多い川で、福山や倉敷のあの慌ただしさから解放されて、のどかな気分になってきた。」(宮脇俊三「最長片道切符の旅」新潮文庫、1979)

 さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。
 それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。
 帰国後には、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。応仁の乱で交配した京を避けて山口に暮らす。

 また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、画業において、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。
 「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」からは、何故か孤独、風雪というものを感じた。

 珍しいところでは、作庭にもかなりの力をいれたようなのだ。例えば、29代の大内政弘の時代に常栄寺雪舟庭を設計したと伝わる。
 それから、鳥取でも、足跡が残る。医光寺(現在の鳥取県益田市)は、1928年に国指定名勝になった。その前身である崇観寺(すうかんじ)は室町時代(1363年)に創建。伝承によると、室町中期の文明年間(1469~1487)に雪舟が医者光寺の7代目住職として招かれたという。

 これに至るには、益田七尾城15代の益田兼尭(ますだかねたか)が、当時山口に逗留していた雪舟にはたらきかけたのを、益田氏は大内氏に臣従していたので、快く引き受けたのではなかろうか。
 雪舟としては、前述のとおり、大内氏の船で明国に渡るため28代・大内教弘の頃山口を訪れ、明国渡航歴への便宜を図ってもらった恩義があろう。

 その時に作庭されたのが、雪舟の設計によるものだという。その後、崇観寺は戦国時代に荒廃したものの、室町時代後期に医光寺と合併して現在に至る。1928年に国指定名勝を受ける。
 それに、医光寺から徒歩で行けるところにある萬福寺がある。その前身は、平安時代に別の地で「安福寺」として建立されたおいう。しかし、大津波で流出した。その後、室町時代初期の1374年に、益田七尾第11代城主により現在の地に萬福寺(まんぷくじ)として移築され、それからほぼ百年を経ての1479年に雪舟により石庭が造られたと伝わる。

(続く)

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◻️164『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

2021-12-01 19:40:49 | Weblog
164『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

 さて、この備中高梁には天下に名高い山城・備中松山城がある。まずは、往年の鉄道旅の熟達者の旅便りから、その一節を紹介させていただこう。
 「備中高梁着15時18分。駅の右手の山腹には形のいい古寺がずらりと並んでいる。
 次に乗る予定の新見行は16時36分で、時間があるから松山城に上ってくることにする。この山城は全国でもっとも高いところにあるそうで、駅の北方の突兀(とつこつ)とした山顛(さんてん)に石垣や櫓(やぐら)が見えている。あんな高いところに城を築いてどういう戦術的価値があるのかわからないが、とにかくタクシーで中腹まで行き、急な階段を上る。無骨な砕石を積んだ大味な石段で、一段ごとの幅が広く段差も高い。駅やビルの階段の2倍ぐらいある。どこの城趾(じょうし)でもそうだが、ここのはとくに段差がある。駆け上がったり下(お)りたりするときは都合がよいのかもしれないが、なかなかきつい。呼吸がはずんでときどき立ち止る。汽車の中に座ってばかりいて体がナマったのかもしれない。麓に武家屋敷が並んでいたから昔の武士はこんな急な石段を毎日上って登城していたのだろうか。満員の電車も大変だが、この石段を通勤するのも相当なことだ。
 二の丸の石垣の端に立って下を見下ろす。下から見上げるより傾斜か急で、石を投げれば街に当りそうな感じがする。脚下に高梁川が空を映して白く光り、それに沿って城下町が細長くつながっている。備中高梁の駅と線路が鉄道模型のように見え、ちょうど下(くだ)りの特急「やくも7号」が条虫のように進入してきた。」(宮脇俊三「最長片道切符の旅」新潮文庫、1979)
 それから30数年経過しての筆者の旅から、2016年に建てられたという駅ビルの3階テラスから北の方角を仰ぎ見る。すると、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見通せる。かなり、遠くにあるようでもある。こんな風な角度で見えるだから、あそこまで登るには、かなりがんばらねば、と思われるのだが。交通の便では、JR伯備線高梁駅から車でふいご峠まで約10分だという。天守までは、そこから徒歩20分位というから、散歩の気分で登ってみるのはいかがであろうか。
 この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に乗っかっている。現存する山城としては日本一高いところに設けてある。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のまま、国の重要文化財に指定されている。
 1873年(明治6年)の廃城令を機に民間に払い下げられた。山上部分は放置のまま1940年(昭和15年)にいたり、旧高梁町と地元有志が資金を集め天守に保存修理を施した。これが功を奏して、翌年には国宝(現在は重要文化財に改定)に指定される。さらに、2007年に本丸復元工事が行われた。天守を取り巻く土塀と南御門、東御門、五の平櫓(やぐら)などが再建された。
 たしかにここは、珍しい場所だ。城から直線距離で東へ約1キロメートルのところには備中松山城展望台(通称は雲海展望台)があり、天気のよい時には雲海からひょっこり城の雄姿が浮かび出るのだという。はたせるかな、兵庫の山間部(兵庫県朝来市)の「天空竹田城趾」(姫路と和田山を結ぶJR播但線にある竹田駅から徒歩40分、播但バス「天空バス」で20分のところにある)にも似た、当時としては峻厳な地勢をうまく利用した「難攻不落」を誇る要塞であったのがうかがえる。
 この城と城下町は、どのようにして造られてきたのだろうか。というのも、高梁の町は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは牛が横たわっている姿からの命名とされる、臥牛山を構成する4つの峰に含まれる。
 その景観だが、小ぶりですっきりと、しかも凛々しい姿をしているではないか。大仰なものでないことが、かえって心地よい。三角帽子のような山容にも馴染んで写る。数ある解説からは、「盆地にある高梁は、晩秋から冬にかけて濃い朝霧が発生します。雲海の中で陽光に輝く天守は神秘的」(雑誌「ノジュール」2017年9月号。「岩山に築かれた天空の要塞」国宝/現存天守、日本100名城。)と絶賛される。
 なぜそうなるのかというと、この時期は寒暖の差が相当にあって、城下の西を流れる高梁川から霧が発生しやすいからだと聞く。2階建ての小さな天守のたたずまいもさることながら、「大手門跡から三の丸、二の丸方面の石垣群を仰ぎ見る」(同)のは、これを撮ったカメラマンの目の付け所の良さを物語る、古武士然の趣(おもむ)きさえ感じさせる。
(続く)
 
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