ものごころついた頃よりスイカは腹一杯食った記憶がある。大和(奈良)は戦前までは大和スイカのブランドで一大産地であった。我が家でも大正時代よりスイカを栽培出荷していたとのこと。父親から子供の頃(昭和初期)真夜中の収穫と出荷の話をよく聞いた。祖父は種商の依頼でスイカの種取りもやっていた。その祖父が死去する中学生の頃まで毎夏稲屋(納屋)には大玉スイカがいつも数十個転がっていて、盆過ぎには強制てきに毎日半玉近く食わされた。冷えていない歯ごたえの無い果肉は今も忘れられない。話変わって、川西町とスイカの関わりを触れますと、いつ頃より当地で栽培されるようになったかわからない。しかし、字結崎にある糸井神社の拝殿にかけられている天保十三年(1842年)の「なもで踊り」(雨乞い踊り)の絵馬にスイカの切り売りしている人が描かれている。ということは江戸時代の後期には栽培されていたらしい。何故、明治以降大和の国中で栽培が盛んになったのかその答えは多分、奈良盆地はため池がたくさんある。それはヒヤケとの闘いの結果で、江戸期には水を比較的に必要とされない綿作が盛んに行われていたが、奈良木綿の衰退とともに明治期には綿作は衰退してしまったので、代わりにスイカ栽培が流行ったのであろう。しかし、戦後九州や関東などでもスイカ栽培が盛んになり、スイカは輸送し易いため産地を奪われてしまった。しかしながら、種の産地は奈良県が高いシェアを維持している。