私の友人Iがちょうど一週間前からgo toを使って4泊5日間北海道ニセコに行ってきた。ニセコの朝は気温18度で肌寒く、もう秋の気配が辺りに見られると。こちらは朝から28度以上やっとられんわ‼。さて、友人Iは面白い商売に出会った事をリポートしてくれた。それは、アンヌプリに登った時に声を掛けてきた女性がいた。大きい箱のようなリュックを背負い、見ればバリバリの山ガール。彼女はその箱のようなリュックを下ろして、そして中を見てくれと。中には小箱に詰められた手作りクッキー(本人談)が!ひと箱400円なり。Iは別に食べたくは無かったがつい買ってしまい、その女性の商魂のたくましさに感心したとのこと。私の若い頃(30数年前)行った信州のスキー場で、売店の無い頂上付近とかでポットからコーヒーを売っていた人が居てたのを記憶しているが、"無店舗出張販売゛目の付け所がいい。いつ終わるとも知れないコロナ禍、知恵と工夫で乗り切りたいものだ。最後に一首で締める、古今和歌集より「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」。(全写真提供I氏、下写真黄色いパンツがクッキー販売女性)
私のブログは、いつも昭和臭くなるのだが今回もその路線で。さて、私の子供時代の昭和40年代の頃の我が家では「焼肉」という言葉はなかった。その代わりに我が家では焼きどり(串は無い)である。我が家は米作農家なのでくず米(小米)ができるので、卵採りにニワトリを飼っていた。お祭りや知人や近所の人が集う行事あると「ニワトリつぶそか!」との声に、飼っているニワトリを捌いて肉にする。カンテキ(七輪)やガスコンロを用意し鉄板かすき鍋を載せて鶏肉を焼き、アジシオを付けてシンプルに食う。大体雌鶏だからお腹に卵を持っていて、そのヒモダマ(玉ひも)が私の好物だった。ある時、近所のおじさん達と我が家で宴会の準備中ニワトリをつぶそうとした際に、首をはね損ね、首をだらりと引きずってニワトリが逃げ出したのを目撃した。後日それがトラウマになり長い間鶏肉を食べられなくなってしまった思い出がある。「じゃあ牛は食わなかったのか?」いいえ、親父はホルモン焼きが大好きで、ニワトリを飼わなくなくなった昭和43、4年頃からは、鶏肉代わりにホルモン(田原本町鶴屋さんの肉)を焼いたのが我が家での焼肉(ホルモン焼きといった)の始まりである。以上が我が家の昭和の焼肉の思ひ出である。
郷土のお盆その2 わが郷土では最近ではあまり見られなくなったお盆の風景がある。私が記憶がある昭和40年頃からの昭和50年代頃のお盆には垣内近くを流れる川(特に西側)の橋の両端に小芋(さといも)の葉になすびやキュウリ、スイカ、少数ではあるがもちやはくせんこう(白雪糕 )なども載せていくつも供えられていた。。よく世間で聞くなすびやキュウリを使って馬や牛を造ったものではなく、そのままで供えられていた。私の垣内は大体真宗、大念仏宗、浄土宗を信仰しているのだが宗派にかかわらずされていた。この行事は施餓鬼(川施餓鬼)と家の西側の川の橋(屋敷堀の西側)に供えることから先祖を迎えるという行事が習合したのではないだろうか。令和になって今夏もお盆に帰っても、もうその風景は見られなくなった。道中、他地区で少数見かけたがもう風前の灯火である。村々の習俗や習慣が消えていくのも寂しいかぎりである。
今年の夏は猛暑日が何日も続き、コロナ禍と相成って本当に厳しい」日々が続いている。自己管理には油断なく!。
さて、郷土のお盆について少々触れてみたい。
郷土のお盆その1 結崎のお盆は8月11日の墓会(はかえ)から始まると言っていいだろう。墓会とは簡単に言うとお盆の墓参りのことである。結崎の墓は、奈良盆地に多くみられる郷墓といって、いくつかの村落が一ヶ所の共同墓地に埋葬する所である。結崎には川西町内の結崎、唐院、保田そして三宅町内の屏風、伴堂、但馬、小柳それから田原本町内の黒田の八ヵ郷の人々が安養院(唐招提寺末)が管理する共同墓地に11日はお参りに行く日である。昭和の時代は、前日に墓掃除をして花お供え物をして翌日の墓会の日に備える。そして当日はどこの家でも親戚縁者が結崎の実家に帰って来て、おかげで村内の仕数件ある寿司屋などの仕出し屋は朝から大忙しで電話も繋がらないことになる。結崎においてはこの日が神社の縁日より一番賑わう日である。他村の郷墓は知らないがわが郷墓では、墓地内を南北に通る道と安養院境内にずらりと数十軒の露店が並び、朝から深夜までお参りの人が絶えなかった。しかし、近年では以前のようなお祭り騒ぎはなくなり露店も激減した。これはお墓参りという行為が減ったのではなく、宗教儀礼的な行事の優先順位が低下し、行ける時に行けばいいという意識変化があるのではないでいかと思う。以上その2に続く
明日で75回目の終戦記念日を迎える。私の周りでも戦後75年も経ち、戦前の経験を語られる方々も大変少なくなっている。だから私らが経験者から聞いた体験談をまた次の世代にも伝える事が責務だと思う。残念ながら、身近な経験者である両親は数年まえに他界し、今から思うともっと聞いておけばと後悔している。
今回は以前近所のおじさんから聞いた話をちょこっと書いてみる。
わが地区(垣内)でも戦時中を描いたテレビドラマでも見られるように出征兵士を送る光景があった。地区をあげて招集令状が届いた兵士を近鉄結崎駅まで隊列を組み、同じ地区のYさんのバイオリンとHさん(?楽器ど忘れ)の演奏で「勝ってくるぞと勇ましく…」露営の歌で送ったそうです。途中糸井神社により武運長久、戦勝祈願をし駅に向かいました。
前出のおじさんの父親が総代をされている時、神社にてこれから出征される方に「・・君、お前のうちは男手がお前ひとりや(父親が亡くなられてる)、おかちゃん大変やから無事に帰ったれよ」と言ったのである。思いやりから出たその一言が後日大変な事になった。憲兵が数人総代さんの家にやってきたのである。総代さんは、憲兵から「出征兵士に無事に帰れとは何事か!お国の為に死んで来いと送り出すのが国民の務めだ!」と取り付く島も無くこっぴどく絞られたそうだ。おじさんが不思議に思っていたのは、神社には同じ地区の人しか居らんのにどうして憲兵が知ることになったのかと。もう一つ総代さんの話として、現在ではあまり知られていない事ではあるが、総代(区長)の職務に、軍から「徴兵まえの男子に遊郭に行かせないように監視する事」と通達があったの事。それは軍が徴兵前の男子が性病にかかり戦力の低下に繋がらないようとの理由からだ。それでも青年団の連中は、目を盗んでは隣町の色街(大和郡山市東岡町、洞泉寺町)へ行くので往生したらしいが・・。また、同おじさんが、シンガポールなどに進駐されたおり、尉官であったので、現地で兵隊が慰安所に行く場合、初年兵は性病の感染予防として慰安所行きを禁止したと言っておられた。隣国の韓国は、軍が慰安所の経営や慰安婦を集める事に積極的に関与していたといっているが、実際は軍の性病感染による戦力の低下を恐れ、兵隊の性欲には対応に苦慮していたようだ。よって慰安所は迷惑な存在でありまた、現地のの治安維持には無くてもこまる必要悪ととらえていて、決して推奨していたなどとはありえないと私は思う。以上で余話は終わるがまた、私が聴いたいろんな方の戦争体験などを書きたいと思う。
※近所のおじさんは8年前96歳で亡くなられた。