長雨にうんざりする毎日である。昨日義父の家を訪問した。義父は大正13年生まれで御年96歳である。最近話す機会があれば兵隊時代の話をよくする。以前聞いたときはいい加減に聞き流していたのだが、本人も残しておきたいとゆう気持ちが伝わってくるので、今回は真剣に聞き役をした。彼(義父)昭和18、9年頃愛知県の予科練に入隊。整備員として採用され、飛行機の整備を学んでいたが、途中横須賀で特殊潜航艇海龍の整備を学び、彼曰く宮城県の女川町の嵐部隊(第18突撃隊)に配属されたという。しかし福島県いわき市小名浜にも嵐部隊(第17突撃隊)があり、彼は女川と言っているので間違いはないと思うのだが…。両基地とも海岸に洞窟の格納庫を作り、爆薬を積んで体当たりをする特殊潜航艇海龍と震洋というモーターボートの出撃基地であった。私は、震災のあった東北の町に海軍の特攻基地があったとは全く初耳であったので、彼には申し訳ないが真偽をたしかめるべくググったのである。中々乏しい資料しかないが、彼が語ったことはほぼ資料(史料)に見られのである。ただ、前記した女川か小名浜かの疑問が完全に解決出来ないのは、小名浜の基地にて起こった自爆事故を記憶しているからである。女川でも同様の事故があったのかわからないので疑問のままである。戦後75年が経ち兵隊経験者も90歳を超えているとゆう現在、もし皆さんの周りに戦争体験者がおられれば是非とも話を聞いてみてほしい。
本日7日も停滞する梅雨前線の影響で、特に九州北部地方でまた洪水被害が出ているそうで、被害が最小限で済むように願っています。本当に近年の雨は以前の常識を超えて降ってくる。災害に対する備えも想定を上回る事が多々あり、人間の知恵の限界を悟る今日この頃です。さて、今回も災害にまつわる話を続けます。
4、ミズツキと地主考
ミズツキ(水害)と地主さんとどういう関係があるのかと言いますと、いわゆる大地主の出現にはミズツキが大いに関わっているんです。この大和川西では以前書いたように水害の頻発する地域でした。江戸中期頃になると本百姓の中に田を持たない小作人が出てきます。小規模自作人では水害などが収穫前に起こると年貢など免租されても次の年の種もみ、自身の食い扶持も無くなるわけです。よって、余裕のある家(質屋を兼業する農家)などから家屋敷・田畑を担保に米を借りるわけです。返済不能により所有権が移り小作化するわけです。特に明治期になると所有権が明確化され売買が自由になることによって非常に顕著になり、寄生地主」という言葉が誕生するぐらい小作人が増加しました。わが川西町でも「井戸太」と呼ばれる片山氏は、江戸中期より吉田屋として米相場や綿問屋として財をなし戦後農地解放が行われるまでは村内有力地主となりました。最盛期は近隣村も含め田畑100町以上家屋敷地も村内に多数所有されておりました。所詮大和の国中は小っちゃい盆地ですが、新潟県では千町地主も誕生しています。共通点はやはり河川の氾濫多発地域でした。以上
(画像、共同通信社)先日、熊本県球磨川流域で洪水が発生し多大な被害が出た。
被災者の方々には心よりお見舞いもうしあげたいです。さて、前回のブログでも触れましたが今回は磯城郡川西町での水害のこぼれ話を書きます。
3、水つき(水害)考
大和川西は、昔よりヒヤケ(干ばつ)一番ミズツキ(水害)一番と言われました。町の北を流れる大和川と南を流れる寺川、西には曽我川と飛鳥川と周囲河川に囲まれミズツキとの闘いが繰り返されました。今も残る町内結崎東側の天理市と接する所と唐院地区の南側に水請け堤防が作られ決壊時の水からの守りとしました。請堤につては後日詳しくやります。今回はこぼれ話ということで結崎の井戸地区で聞いた伝承を書きます。
井戸地区の北東に小さな弁財天社(通称べんてんさん)が祀られております。その弁天さんまつわる話で、元々この弁天さんは昔隣地区辻地区内富井氏本家の屋敷内に祀られていました。いつの頃か(江戸後期頃か?)わかりませんが、結崎がミズツキに襲われたとき、その祀られていた弁天さんの祠が富井氏の屋敷から井戸地区の当地に流れ着いたらしいのです。そこで、井戸地区の住民は"おがみやさん”に頼み弁天さんに処遇をお伺いをしたそうです。弁天さん曰く「帰りたくない、此処に祀れ」と仰ったので当地に祀られ現在に至ります。ちなみに、流れ着いたという場所は北垣内の"あがりやま″と呼ばれいる場所です。「弁天さんの川流れ」と言って全国に祀られいる弁財天には川を流れてこられたという伝承を持つ社が多数ありますが、昔此処井戸地区の人々が弁天さん(インドの神サラスヴァティー)の由来を偶然にも知っていたのは驚きです。以上ミズツキにまつわるこぼれ話でした。