明日で75回目の終戦記念日を迎える。私の周りでも戦後75年も経ち、戦前の経験を語られる方々も大変少なくなっている。だから私らが経験者から聞いた体験談をまた次の世代にも伝える事が責務だと思う。残念ながら、身近な経験者である両親は数年まえに他界し、今から思うともっと聞いておけばと後悔している。
今回は以前近所のおじさんから聞いた話をちょこっと書いてみる。
わが地区(垣内)でも戦時中を描いたテレビドラマでも見られるように出征兵士を送る光景があった。地区をあげて招集令状が届いた兵士を近鉄結崎駅まで隊列を組み、同じ地区のYさんのバイオリンとHさん(?楽器ど忘れ)の演奏で「勝ってくるぞと勇ましく…」露営の歌で送ったそうです。途中糸井神社により武運長久、戦勝祈願をし駅に向かいました。
前出のおじさんの父親が総代をされている時、神社にてこれから出征される方に「・・君、お前のうちは男手がお前ひとりや(父親が亡くなられてる)、おかちゃん大変やから無事に帰ったれよ」と言ったのである。思いやりから出たその一言が後日大変な事になった。憲兵が数人総代さんの家にやってきたのである。総代さんは、憲兵から「出征兵士に無事に帰れとは何事か!お国の為に死んで来いと送り出すのが国民の務めだ!」と取り付く島も無くこっぴどく絞られたそうだ。おじさんが不思議に思っていたのは、神社には同じ地区の人しか居らんのにどうして憲兵が知ることになったのかと。もう一つ総代さんの話として、現在ではあまり知られていない事ではあるが、総代(区長)の職務に、軍から「徴兵まえの男子に遊郭に行かせないように監視する事」と通達があったの事。それは軍が徴兵前の男子が性病にかかり戦力の低下に繋がらないようとの理由からだ。それでも青年団の連中は、目を盗んでは隣町の色街(大和郡山市東岡町、洞泉寺町)へ行くので往生したらしいが・・。また、同おじさんが、シンガポールなどに進駐されたおり、尉官であったので、現地で兵隊が慰安所に行く場合、初年兵は性病の感染予防として慰安所行きを禁止したと言っておられた。隣国の韓国は、軍が慰安所の経営や慰安婦を集める事に積極的に関与していたといっているが、実際は軍の性病感染による戦力の低下を恐れ、兵隊の性欲には対応に苦慮していたようだ。よって慰安所は迷惑な存在でありまた、現地のの治安維持には無くてもこまる必要悪ととらえていて、決して推奨していたなどとはありえないと私は思う。以上で余話は終わるがまた、私が聴いたいろんな方の戦争体験などを書きたいと思う。
※近所のおじさんは8年前96歳で亡くなられた。