Ombra Mai Fu ~ 優しい樹の下で

POP ♡ OPERA SINGER 
 増田 いずみ ~ OFFICIAL BLOG

オペラ歌手になりたい・・・その④

2005年09月25日 | masudaizumi.com
台風一過、とても綺麗な夕焼けでした。

今日は母校である国立音楽大学から招かれてファミリーコンサートで<サマータイム>を歌いました。なにより三歳くらいのおこさまも聴いているのは、私にとってなにより幸せでした。


私の小さいころといえば、3歳から6歳まで小児喘息。療養ということで、東京にいる両親と離れ、宮崎の母の実家、つまり祖父母の家に預けられ、緑溢れる田舎でおばあちゃんの読んでくれる世界童話文学全集というのをなんどもなんども聴いていました。

世界中の見知らぬ土地の名前や人の名前、竜がでてきたり、船に乗って探検したりして、空想力がたくましくなったのが、私の音楽の起源だと思っています。

今日聴いてくれた小さいお子さん達は、色々な楽器の音色を浴びて、感性豊かに感じてくださったことでしょう。

山下洋輔さんのパワフルな「ラプソディ イン ブルー」最高でした。
もう・・・言葉ではいえない、音楽とはかくあるべし!という感動をいただきました。私もあんなにでなくても、ジャズピアノが弾けたら人生薔薇色だろうな~


たまに大學を訪れると、いろいろな思い出がよみがえってきます。




そうそう、、、「オペラ歌手になりたい」のシリーズは、高校二年生までお話したのですよね。



ではその後の展開をお話ししましょう。




それは不思議な人の縁でした。



高校三年になると、志望大学をきめます。歌の先生の薦めで志望校の「夏期講習」をうけてはどうか、ということになりました。


夏期講習というのは、普通大學にはないでしょうが、音楽大学の場合、ソルフェージュの講義のほか、歌とピアノの実技を、実際の大學の先生にレッスンしていただける、2週間のプログラムです。普通大學でいえば、大學三年から始まる修士論文のゼミみたいなものかもしれません。

私はピアノが下手で、「あなた、センスないわね、音楽にむいてないわよ」と言われました。
そんな厳しい言葉もでるような、結構ぴりぴりした雰囲気の厳しい講習です。

大學を選ぶとき、普通は、高校のときに習った先生の紹介で、大學の先生も紹介してもらうのです。よって自動的に私は武蔵野音楽大学をうけるはずだったのですが、武蔵野の学科は難しくて自信がなくて、どうしても国立音楽大学にしたい、という希望を押し通しました。


ソルフェージュを習う音楽教室のなかでも、皆、地元の先生のルートをたどっているので、武蔵野音楽大学か地元の芸術大学。私だけかなりわがままを通した形で、国立音楽大学用の傾向に併せてレッスンしていたので、一人で浮いていました。


でも、もしこのとき、武蔵野を受けていたら、まったく違った人生だったでしょう。
ほんとうは、地元のS先生も武蔵野にいってほしかったのだろうと思います。

それなのに、「国立音楽大学なら、この地方によくコンサートにきていた伊藤京子さんがいいでしょう」と全く知らない間柄なのに、S先生は京子先生に手紙をだしてくださり、夏期講習でレッスンしていただけることになりました。

そのとき、レッスンしていただこうと、夏期講習のレッスン曲に提出した曲が、夏のコンクールで歌う予定の、イタリアオペラ「ラ・ボエーム」のなかのアリア<私の名はミミ>でした。京子先生から「声もできあがっていないときからイタリアオペラなんて歌っては、本当はいけないのよ。大學卒業したらいくらでもでれるんだからコンクールは今回限りで出場するのはやめてちょうだい」といわれたのです。


「はい、わかりました」と返事をしたものの、とにかくコンクールは予選で落ちると思っていたので、予選が終わったら真剣に基礎から勉強しようと思っていたのが、予選通過!!!その後、県大会で優勝してしまい、大分で催される滝廉太郎コンクールというのに、県代表で派遣されることになってしまいました。


滝廉太郎記念声楽コンクールは西日本の高校生を対象にしているのですが、なんと、ここで伊藤京子先生が審査員でいらっしゃるではありませんか?????


やっば~~~~~  (^~^;)


伊藤先生の「オペラはまだ早い、コンクールはやめてね。約束よ」というあの講習会のレッスンのことばが頭に響きましたが、もう目の前にいるのですから仕方ありません、、、、


そして審査がおわり、一位から三位までが読み上げられ、顔を隠しながら帰ろうとしたその瞬間、さらにアナウンスが・・・


「いつもはこのような賞は設けていないのですが、今回は、お一人に特別賞を差し上げることになりました・・・・増田いずみさん!」



ひぇ~~~~~~~~?????




腰が抜けました。そして、伊藤先生からなんと特別賞の賞状を授与され、私はこっそり帰るつもりが、先生に舞台の上で顔を合わせてしまい・・

心の中で、つぶやいたものです「ご、ごめんなさい先生、いや忘れていたわけではなく、予選に受かってしまって、、、、本当になんと申し上げていいのやら」


大分の会場の公衆電話から地元のS先生に「先生、特別賞頂きました」と報告すると「へ?誰が??」と言われました。「・・・・・あの~私が・・・・」「え~~~~~~???」っとS先生も驚く始末。


その後、毎日音楽コンクール九州ブロックでも優勝してしまい、全国大会ではさすがに優勝は逃し、東京ブロック代表のバリトンが全国一位になったのですが、これが、いまバリバリに活躍している青戸知さんでした。そのころから、ダントツ激ウマ


そして冬の講習の準備のころ、、、、、、


なんと、私の母!!!ある日、学校からかえると


「いまね京子先生と話したの」と受話器を置く母




聴けば、音楽大学に電話を入れて、京子先生の自宅電話番号を聞き出し、「冬の講習も是非京子先生に!!!」と電話したというではありませんか


関係者の縁のない一般ピープルは、アタックするしかないのだ!


この母の、常識破りの行動が功を奏して、私はめでたく国立音大の冬の講習も、大學に合格してからも、京子先生の門下生になることができたのでした。
もちろん母は、その当時伊藤先生が日本を代表するプリマとは知りません。「とっても気さくでいい方だった」と満足げ、、、、


いま考えると、とっても乱暴なやり方ではありましたが、音楽大学という世界にまったく縁がなかったし、国立音大に知り合いもいないから、恥はかき捨てでした。


初めて夜行列車に揺られて東京に一人ででかけていった大學の夏期講習、いまでもあのどきどきは忘れられません。


次の回では、大學の話を紹介しましょう。


お楽しみに。


あ~した天気にな~あれっ!


いずみ