信長が美濃稲葉山へ移動するころのエピソードです。
【信長公記:首巻第四十四話】
永禄十年(1567)八月一日、美濃斎藤家の屋台骨と
いえる美濃三人衆(稲葉伊予守良通・氏家卜全直元・
安東伊賀守守就)が「身方に参るので人質を差し出し
たい」と信長に告げ、手順を踏んで信長の配下となり
ます。これが斎藤家崩壊の決め手となり、美濃国領主
斎藤竜興(斉藤道三の孫)は川内長島に退散し、とう
とう美濃は信長の支配下となりました。
源平の時代から、降参した敵将は次の軍で先陣働きを
させるのが通例で、三人とも古来の先例として「次の
戦で先陣を切らされる」と思っていたところ、信長は
三人衆を先陣に充てることはせず自身の馬廻衆だけで
箕作城を攻め立てたとあります。三人衆は「案に相違
した信長公のなさりようだ」と不思議に思ったそうです。
また降参した敵の城将は首を切られる可能性が高いのが
通例ですが、畿内のその後の進軍で降参してきた岩成
主税助友通(勝竜寺)・細川六郎昭元と三好日向守長逸
(芥川)・篠原右京亮長房(越水・滝山)・池田筑後守
勝正(池田)など、降参してみると無事に配下となる
だけで首も切られず、信長のやり方が古来の常識と違い
すぎて、逆に首を傾げたのではないでしょうか?
信長が降参した敵将を快く受け入れ(降参せず反抗した
一国の領主は自決・斬首以外不可!)、しかも当時常識
とされた「次の軍で先陣に向かわせる」こともせず重用
したのは、源平期の頼朝が降参するしないに関わらず
敵(平家)の子孫まで根絶やしにしようとして短期政権
(三代)に終わったことの反省からきているようです。
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【信長公記:首巻第四十四話】
永禄十年(1567)八月一日、美濃斎藤家の屋台骨と
いえる美濃三人衆(稲葉伊予守良通・氏家卜全直元・
安東伊賀守守就)が「身方に参るので人質を差し出し
たい」と信長に告げ、手順を踏んで信長の配下となり
ます。これが斎藤家崩壊の決め手となり、美濃国領主
斎藤竜興(斉藤道三の孫)は川内長島に退散し、とう
とう美濃は信長の支配下となりました。
源平の時代から、降参した敵将は次の軍で先陣働きを
させるのが通例で、三人とも古来の先例として「次の
戦で先陣を切らされる」と思っていたところ、信長は
三人衆を先陣に充てることはせず自身の馬廻衆だけで
箕作城を攻め立てたとあります。三人衆は「案に相違
した信長公のなさりようだ」と不思議に思ったそうです。
また降参した敵の城将は首を切られる可能性が高いのが
通例ですが、畿内のその後の進軍で降参してきた岩成
主税助友通(勝竜寺)・細川六郎昭元と三好日向守長逸
(芥川)・篠原右京亮長房(越水・滝山)・池田筑後守
勝正(池田)など、降参してみると無事に配下となる
だけで首も切られず、信長のやり方が古来の常識と違い
すぎて、逆に首を傾げたのではないでしょうか?
信長が降参した敵将を快く受け入れ(降参せず反抗した
一国の領主は自決・斬首以外不可!)、しかも当時常識
とされた「次の軍で先陣に向かわせる」こともせず重用
したのは、源平期の頼朝が降参するしないに関わらず
敵(平家)の子孫まで根絶やしにしようとして短期政権
(三代)に終わったことの反省からきているようです。
