『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

因縁と先例30【信長は降参してきた美濃三人衆を最前線で戦わせない?】

2014-12-14 15:17:01 | 因縁と先例
信長が美濃稲葉山へ移動するころのエピソードです。

【信長公記:首巻第四十四話】


永禄十年(1567)八月一日、美濃斎藤家の屋台骨と

いえる美濃三人衆(稲葉伊予守良通・氏家卜全直元・

安東伊賀守守就)が「身方に参るので人質を差し出し

たい」と信長に告げ、手順を踏んで信長の配下となり

ます。これが斎藤家崩壊の決め手となり、美濃国領主

斎藤竜興(斉藤道三の孫)は川内長島に退散し、とう

とう美濃は信長の支配下となりました。


源平の時代から、降参した敵将は次の軍で先陣働きを

させるのが通例で、三人とも古来の先例として「次の

戦で先陣を切らされる」と思っていたところ、信長は

三人衆を先陣に充てることはせず自身の馬廻衆だけで

箕作城を攻め立てたとあります。三人衆は「案に相違

した信長公のなさりようだ」と不思議に思ったそうです。


また降参した敵の城将は首を切られる可能性が高いのが

通例ですが、畿内のその後の進軍で降参してきた岩成

主税助友通(勝竜寺)・細川六郎昭元と三好日向守長逸

(芥川)・篠原右京亮長房(越水・滝山)・池田筑後守

勝正(池田)など、降参してみると無事に配下となる

だけで首も切られず、信長のやり方が古来の常識と違い

すぎて、逆に首を傾げたのではないでしょうか?


信長が降参した敵将を快く受け入れ(降参せず反抗した

一国の領主は自決・斬首以外不可!)、しかも当時常識

とされた「次の軍で先陣に向かわせる」こともせず重用

したのは、源平期の頼朝が降参するしないに関わらず

敵(平家)の子孫まで根絶やしにしようとして短期政権

(三代)に終わったことの反省からきているようです。

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