『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

山岡景佐(やまをかかげすけ)

2020-01-07 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
山岡景佐(やまをかかげすけ)

<現代仮名遣い>やまおかかげすけ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


対馬守。山岡景之の二男。はじめ近江の佐々木義

秀に属し、のち信長に仕える。

1573年12月子松永久通が信長軍に多聞城を攻囲

    され、降参開城した後、多聞城に入る。

1579年4月塚口田中取手の城番をつとめる。

1579年9月織田信忠の尼崎進軍に同行。信忠は七

    松に取手二つの造営を命じ、一つに塩河

    国満・高山重友を、もう一つに中川清秀・

    福富秀勝・山岡景佐をおく。

1581年1月の馬場入りで、爆竹(さぎちゃう)の準

    備をつとめる。

1581年9月北畠信雄の伊賀攻めに信楽口先手と

    して参戦。

1582年1月爆竹南方を、山岡景佐・池田秀雄・弓

    徳左近・永田正貞・青地元珍・阿閉貞征・

    進藤賢盛が務める。

1582年5月信長上洛のとき、安土二の丸の留守

    番をつとめる。

1582年6月明智光秀の軍は勢田に向かい、山岡

    景隆・山岡景佐兄弟に手を合わすよう

    勧めるが、信長公への恩義を感じる山

    岡兄弟は勢田の橋を焼き落とし、勢田

    の城に火をかけ山中に引き退く。これ

    により明智光秀は坂本へと撤退する。

戦国人名事典では弟景佐の方は徳川家康の退

路を守備したとある。以降秀吉に服属。

1583年賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に内通したため

兄景隆とともに所領没収。その後家康に召しださ

れて駿府に伺候。

1589年1月同地で死去。


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