『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

鎌田新介(かまたしんすけ)

2016-09-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
鎌田新介(かまたしんすけ)

〔現代かなづかい〕かまたしんすけ

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


五左衛門。

1575年長篠の合戦のとき軍律違反により改易

されたが、信長の子信忠が家臣に登用した。


1582年6月信長の籠る本能寺を襲撃した後、

    光秀の軍勢は織田信忠の籠もる二条

    新御所を襲撃。猛烈な反撃にあった

    明智の軍は近くの近衛前久の家の屋根

    から弓・鉄炮を打ち込み、御殿に火を

    懸ける。信忠は神妙に軍働きをつとめた

    後切腹。介錯は鎌田新介がつとめ、指示

    通り亡骸を隠しておいた。

その後逃亡し高野山で謹慎。のち福島正則に

仕え朝鮮の役に従軍した。1597年南原城攻撃戦で

討ち死にしたと思われる。


 ※当時すでに織田家の家督を受け継いでいた

  織田信忠の最後を看取った鎌田新介は、

  戦国時代の重要人物としてもう少しTVドラマ

  などでクローズアップされてもいい気がします。


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