※佐々木氏は佐々木六角氏と佐々木京極氏に
分かれていきますので、2回に分けての
投稿です。二回目は佐々木京極氏から。
【佐々木氏の歴史】
*近江源氏佐々木氏の末裔。氏綱の子の時に
分派。次男高信の系統は、後義綱の時に
朽木氏となる。四男泰綱は京都六角東洞院
に住み、佐々木六角氏の祖。五男氏信は
京極高辻に住み佐々木京極家の祖となる。
≪佐々木京極氏≫
*惣領は六角氏のものであったが、高氏
(導誉)の時、高氏は南北朝期足利尊氏
から絶大の信頼を得て、幕府の政所執事・
評定衆・引付頭人といった要職を歴任。
若狭・近江・出雲・上総・飛騨の各国
守護を任ぜられるなど、惣領家の六角氏
を凌ぐようになった。
*孫の高詮は侍所所司に任ぜられる四職の
一つに列し、飛騨・出雲・隠岐の守護職
の世襲化と、本拠北近江三郡の実質支配
(分郡守護)を確立。後に御相伴衆と
して幕政に参加する家格を有した。しかし、
応仁の乱で家督争いや長期戦の為領国支配
が動揺、家臣の浅井氏(亮政)に北近江を、
守護代尼子氏に出雲・隠岐を奪われ、家は
没落する。1523年京極高清・高吉父子は
家臣の浅井亮政に尾張に追われるが、亮政
は小谷城を作り再び高清父子を迎え入れる。
*高清の子高吉は浅井久政討伐を計るも失敗。
高吉・高次父子は国外に追放され、坂田郡
清滝村に逼塞する。
*1568年信長の入洛途上、近江入りの際いち
早く臣従を誓う。高次は信長の人質となる。
*本能寺の変の時、高次は近江奥島五千石。
しかし明智方について秀吉の城を攻めた為、
追われる身となる。高次の妹が秀吉の側室
(松の丸)となるのを機に罪を許され、
大津城主六万石となる。異名に「ホタル大名」
とよばれた。
*関が原では東軍に属し、大坂方の兵一万五千
を十日間大津城にひきつける。その功により
若狭小浜城主九万石に封ぜられる。
※江戸時代には京極家は四国讃岐国の丸亀
城主となり、いまでも市内「京極通り」
などに名を残しています。追手門には
“平四ツ目結い”の家紋の幕が風に
翻っております。
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【佐々木氏の歴史】
*近江源氏佐々木氏の末裔。氏綱の子の時に
分派。次男高信の系統は、後義綱の時に
朽木氏となる。四男泰綱は京都六角東洞院
に住み、佐々木六角氏の祖。五男氏信は
京極高辻に住み佐々木京極家の祖となる。
≪佐々木京極氏≫
*惣領は六角氏のものであったが、高氏
(導誉)の時、高氏は南北朝期足利尊氏
から絶大の信頼を得て、幕府の政所執事・
評定衆・引付頭人といった要職を歴任。
若狭・近江・出雲・上総・飛騨の各国
守護を任ぜられるなど、惣領家の六角氏
を凌ぐようになった。
*孫の高詮は侍所所司に任ぜられる四職の
一つに列し、飛騨・出雲・隠岐の守護職
の世襲化と、本拠北近江三郡の実質支配
(分郡守護)を確立。後に御相伴衆と
して幕政に参加する家格を有した。しかし、
応仁の乱で家督争いや長期戦の為領国支配
が動揺、家臣の浅井氏(亮政)に北近江を、
守護代尼子氏に出雲・隠岐を奪われ、家は
没落する。1523年京極高清・高吉父子は
家臣の浅井亮政に尾張に追われるが、亮政
は小谷城を作り再び高清父子を迎え入れる。
*高清の子高吉は浅井久政討伐を計るも失敗。
高吉・高次父子は国外に追放され、坂田郡
清滝村に逼塞する。
*1568年信長の入洛途上、近江入りの際いち
早く臣従を誓う。高次は信長の人質となる。
*本能寺の変の時、高次は近江奥島五千石。
しかし明智方について秀吉の城を攻めた為、
追われる身となる。高次の妹が秀吉の側室
(松の丸)となるのを機に罪を許され、
大津城主六万石となる。異名に「ホタル大名」
とよばれた。
*関が原では東軍に属し、大坂方の兵一万五千
を十日間大津城にひきつける。その功により
若狭小浜城主九万石に封ぜられる。
※江戸時代には京極家は四国讃岐国の丸亀
城主となり、いまでも市内「京極通り」
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