『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

浅井長政(あさゐながまさ)[3/3]

2015-04-18 15:36:47 | 信長公記の蔵:人物篇
浅井長政(あさゐながまさ)[3/3]

〔現代かなづかい〕あさいながまさ


1570年9月信長が野田・福島の戦いに出向いて

    いる最中、湖西から京近くまで進軍。

    信長が京に戻り坂本まで来ると叡山に

    籠る。

1570年12月正親町帝の綸旨の形で講和なり、

    信長方がまず勢多まで退き、その後

    人質を得た浅井・朝倉軍が高島まで

    引き退く。

1573年8月近江に進軍してきた信長軍は、小谷

    城を無視して、退却する朝倉軍を討滅。

    その後羽柴秀吉が小谷城中京極丸を

    攻め取り、まず父久政を自害さす。翌日

    信長が京極丸に攻め上り、長政が自刃

    させられる。その頸は京都で獄門に掛け

    られた。

1574年(天正2年)1月1日 岐阜城での酒宴で

    他国衆が退出し馬廻りだけになった時、

    朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頸に

    薄濃(はくだみ)を施したものを肴に

    酒宴を続行した。


**純野のコメント**

最後の一文は信長の残虐さを示す例として出て

くる場合がありますが、実は桶狭間の戦いの

あと今川義元の頸に死に化粧を施して岡部元信

に駿河まで持ちもどらせています。有力武将を

討ち取った場合、頸を傷まないよう加工して

おくのは戦国時代のエチケットと言えます。


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