浅井長政(あさゐながまさ)[3/3]
〔現代かなづかい〕あさいながまさ
1570年9月信長が野田・福島の戦いに出向いて
いる最中、湖西から京近くまで進軍。
信長が京に戻り坂本まで来ると叡山に
籠る。
1570年12月正親町帝の綸旨の形で講和なり、
信長方がまず勢多まで退き、その後
人質を得た浅井・朝倉軍が高島まで
引き退く。
1573年8月近江に進軍してきた信長軍は、小谷
城を無視して、退却する朝倉軍を討滅。
その後羽柴秀吉が小谷城中京極丸を
攻め取り、まず父久政を自害さす。翌日
信長が京極丸に攻め上り、長政が自刃
させられる。その頸は京都で獄門に掛け
られた。
1574年(天正2年)1月1日 岐阜城での酒宴で
他国衆が退出し馬廻りだけになった時、
朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頸に
薄濃(はくだみ)を施したものを肴に
酒宴を続行した。
**純野のコメント**
最後の一文は信長の残虐さを示す例として出て
くる場合がありますが、実は桶狭間の戦いの
あと今川義元の頸に死に化粧を施して岡部元信
に駿河まで持ちもどらせています。有力武将を
討ち取った場合、頸を傷まないよう加工して
おくのは戦国時代のエチケットと言えます。
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〔現代かなづかい〕あさいながまさ
1570年9月信長が野田・福島の戦いに出向いて
いる最中、湖西から京近くまで進軍。
信長が京に戻り坂本まで来ると叡山に
籠る。
1570年12月正親町帝の綸旨の形で講和なり、
信長方がまず勢多まで退き、その後
人質を得た浅井・朝倉軍が高島まで
引き退く。
1573年8月近江に進軍してきた信長軍は、小谷
城を無視して、退却する朝倉軍を討滅。
その後羽柴秀吉が小谷城中京極丸を
攻め取り、まず父久政を自害さす。翌日
信長が京極丸に攻め上り、長政が自刃
させられる。その頸は京都で獄門に掛け
られた。
1574年(天正2年)1月1日 岐阜城での酒宴で
他国衆が退出し馬廻りだけになった時、
朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頸に
薄濃(はくだみ)を施したものを肴に
酒宴を続行した。
**純野のコメント**
最後の一文は信長の残虐さを示す例として出て
くる場合がありますが、実は桶狭間の戦いの
あと今川義元の頸に死に化粧を施して岡部元信
に駿河まで持ちもどらせています。有力武将を
討ち取った場合、頸を傷まないよう加工して
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