3月19日、20日、石巻に行ってきました。
今回は岩手県との県境にある気仙沼まで足をのばす事にしました。
気仙沼は石巻から近いようで遠く、二の足を踏んでいたのですが「鶴の一声」で決行。
19日早朝、総勢4人で石巻弾丸ツアーに出発しました。
気仙沼は沼と言っても、印旛沼、五色沼のような「沼」ではありません。
宮城県の北東端に位置し、リアス式海岸の美しい太平洋沿岸の都市です。
地名の由来は諸説あるようですが、地形上内湾が沼のように見えたから、
アイヌ語で磯の集落を意味する「ケセのマ」が訛化、等々。
何れにしろ、沼の持つドロッとしたイメージを若干持ちつつ、気仙沼に到着。
入り組んだ港に、赤い船底が印象的な遠洋漁業の大きな船が並び、
向こう岸には白い壁と緑の屋根の教会が見えます。
何だか外国の港に来たような、開放的で陽気な雰囲気に驚きました。
不思議な明るさに包まれて漁港近くの急坂を上がると、迷路のような道の先にありました。
青い小さな家、気仙沼ニッティング。
気仙沼ニッティングは、震災翌年に震災支援プロジェクトとして始まり、
その後会社として設立。
気仙沼の人達を編み手に、独自の糸で編むカーディガンは話題になり、
瞬く間にウェイティングリストが一杯の人気商品になりました。
震災直後に4人から始まった編み手は30人になり、今春からは60人になるとの事。
人の熱い想いと、気仙沼の風土と、震災。
すべてが一体となり成しえた奇跡を目の当りにして、この地に漲る力に心がぷるぷると震えました。
温かなものを胸一杯に詰め込んで、唐桑半島の突端にある津波体験館に向かいました。
気仙沼は遠洋漁業の燃料である石油が入った巨大タンクが津波で流され、
引火し、海が燃え、約2週間燃え続けたそうです。
この地で震災を体験した語り部の話しは、震災の凄まじさと同時に、
人間が逞しく温かいものである事を教えてくれました。
地元出身の運転手さんが積荷の冷凍食品を運び、皆で小学校に残されていた油で揚げて配り、
救援物資が届くまで凌いだ事。
打ち上げられた遠洋漁業の船にあった冷凍のイカ、
エビを船員さんたちの機転で地域の人たちに配った事。
震災数日後に海からアメリカ軍、海上自衛隊の物資が届き、そのエビアンのおいしかった事。
目の前の大きなスクリーンに映し出される実際の映像は、津波の体験より遥かに恐ろしく、
その中でどんな時を過ごしたのか、どうやって他人を思い遣る事ができたのか。
そこにいなかった者には到底理解しえない、自然と人間の姿がありました。
震災から5年。
風化させてはいけないと言う事と、未来を見て生きていく事とはどう折り合いをつけたらよいのでしょう。様々な思いを抱えながら、日の暮れた石巻の街に入ると、商店街に明かりが増えて賑やかになり、
いつもお世話になる旅館の周りも、新築の家や店舗が増えていました。
時は留まることなく流れています。
翌日は朝から一番谷地南仮設住宅です。まずはコラージュ。
様々な写真の切り抜き、それを貼る牛乳パック、はがきや紙、のりとハサミを並べて、さぁ始めましょう。
この仮設住宅は初めて来た時から変わっていないけれど、当時お母さんに抱かれていた赤ちゃんは、
今、自分で立ち、写真を選び、ハサミで切り、紙からはみ出す程のエネルギーで貼っています。
小学校1年だったSちゃんは、先週卒業式で袴をはいたと、お母さんが写真を見せてくれました。
随分と背が伸びて、4月からは中学生。どの子も大きくなりました。
お昼は、ばっぱの指揮の下、皆で作ってくれたちらし寿司、お吸い物とお漬物等など。
デザートはシュークリームとドーナツです。
お腹が満たされ、次はクジ。
いつものように皆、狙いを付けた商品が当たるかどうか、ワクワクドキドキ、
泣いたり笑ったりの楽しいひと時です。
あっという間に時が過ぎ、帰りの新幹線の中で食べるようにと、
大きなおにぎりを10個とお漬物を頂き、次の約束をしていると、
窓の外をブルーインパルスが轟音をたてて飛んでいきました。
「あっ、ブルーインパルスだ。」
松島基地からほど近いこの辺りでは珍しい光景ではないはずなのに、
皆、しばし無言で空を見上げます。地元の誇りなのかな。
飛行機が飛び立つように、この仮設住宅から皆が飛び立ち、
最後の一人が去る日はいつ来るのでしょう。
その日まで来続けたい。
密かな想いを胸に、おにぎりの温もりと重さを膝に乗せ、石巻を後にしました。
今回は岩手県との県境にある気仙沼まで足をのばす事にしました。
気仙沼は石巻から近いようで遠く、二の足を踏んでいたのですが「鶴の一声」で決行。
19日早朝、総勢4人で石巻弾丸ツアーに出発しました。
気仙沼は沼と言っても、印旛沼、五色沼のような「沼」ではありません。
宮城県の北東端に位置し、リアス式海岸の美しい太平洋沿岸の都市です。
地名の由来は諸説あるようですが、地形上内湾が沼のように見えたから、
アイヌ語で磯の集落を意味する「ケセのマ」が訛化、等々。
何れにしろ、沼の持つドロッとしたイメージを若干持ちつつ、気仙沼に到着。
入り組んだ港に、赤い船底が印象的な遠洋漁業の大きな船が並び、
向こう岸には白い壁と緑の屋根の教会が見えます。
何だか外国の港に来たような、開放的で陽気な雰囲気に驚きました。
不思議な明るさに包まれて漁港近くの急坂を上がると、迷路のような道の先にありました。
青い小さな家、気仙沼ニッティング。
気仙沼ニッティングは、震災翌年に震災支援プロジェクトとして始まり、
その後会社として設立。
気仙沼の人達を編み手に、独自の糸で編むカーディガンは話題になり、
瞬く間にウェイティングリストが一杯の人気商品になりました。
震災直後に4人から始まった編み手は30人になり、今春からは60人になるとの事。
人の熱い想いと、気仙沼の風土と、震災。
すべてが一体となり成しえた奇跡を目の当りにして、この地に漲る力に心がぷるぷると震えました。
温かなものを胸一杯に詰め込んで、唐桑半島の突端にある津波体験館に向かいました。
気仙沼は遠洋漁業の燃料である石油が入った巨大タンクが津波で流され、
引火し、海が燃え、約2週間燃え続けたそうです。
この地で震災を体験した語り部の話しは、震災の凄まじさと同時に、
人間が逞しく温かいものである事を教えてくれました。
地元出身の運転手さんが積荷の冷凍食品を運び、皆で小学校に残されていた油で揚げて配り、
救援物資が届くまで凌いだ事。
打ち上げられた遠洋漁業の船にあった冷凍のイカ、
エビを船員さんたちの機転で地域の人たちに配った事。
震災数日後に海からアメリカ軍、海上自衛隊の物資が届き、そのエビアンのおいしかった事。
目の前の大きなスクリーンに映し出される実際の映像は、津波の体験より遥かに恐ろしく、
その中でどんな時を過ごしたのか、どうやって他人を思い遣る事ができたのか。
そこにいなかった者には到底理解しえない、自然と人間の姿がありました。
震災から5年。
風化させてはいけないと言う事と、未来を見て生きていく事とはどう折り合いをつけたらよいのでしょう。様々な思いを抱えながら、日の暮れた石巻の街に入ると、商店街に明かりが増えて賑やかになり、
いつもお世話になる旅館の周りも、新築の家や店舗が増えていました。
時は留まることなく流れています。
翌日は朝から一番谷地南仮設住宅です。まずはコラージュ。
様々な写真の切り抜き、それを貼る牛乳パック、はがきや紙、のりとハサミを並べて、さぁ始めましょう。
この仮設住宅は初めて来た時から変わっていないけれど、当時お母さんに抱かれていた赤ちゃんは、
今、自分で立ち、写真を選び、ハサミで切り、紙からはみ出す程のエネルギーで貼っています。
小学校1年だったSちゃんは、先週卒業式で袴をはいたと、お母さんが写真を見せてくれました。
随分と背が伸びて、4月からは中学生。どの子も大きくなりました。
お昼は、ばっぱの指揮の下、皆で作ってくれたちらし寿司、お吸い物とお漬物等など。
デザートはシュークリームとドーナツです。
お腹が満たされ、次はクジ。
いつものように皆、狙いを付けた商品が当たるかどうか、ワクワクドキドキ、
泣いたり笑ったりの楽しいひと時です。
あっという間に時が過ぎ、帰りの新幹線の中で食べるようにと、
大きなおにぎりを10個とお漬物を頂き、次の約束をしていると、
窓の外をブルーインパルスが轟音をたてて飛んでいきました。
「あっ、ブルーインパルスだ。」
松島基地からほど近いこの辺りでは珍しい光景ではないはずなのに、
皆、しばし無言で空を見上げます。地元の誇りなのかな。
飛行機が飛び立つように、この仮設住宅から皆が飛び立ち、
最後の一人が去る日はいつ来るのでしょう。
その日まで来続けたい。
密かな想いを胸に、おにぎりの温もりと重さを膝に乗せ、石巻を後にしました。