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『よし』・『ゆき』、我が家に住むペンギン?の「ペン太」の散策記です!

淵野辺、大蛇と家康とナマズと  2020.5.6(水)

2020-05-06 15:48:28 | 街・観光地編2020

 ユキさんと散歩へ。
サイクリングだともっと広範囲、遠距離の移動が出来るのだけれど、ユキさんが骨折治療中為、自転車はNG。
と言う訳で、体が鈍らない様にお散歩に。
 写真は『縁切り榎』。
今日の散歩の目的地にしました。

 昨日私が自転車で通ったコースを歩く事に。
 野菜の苗の販売をしている農家さんの敷地の脇を通った。
昨日は敷地内で放し飼いにされていたヤギ2頭の姿を見られたのですが、この日はヤギさんに出会ず。

 大坂(おおさか)。
此処を下ると境川に出ます。

 大坂を下ると『新中里橋』が有るのですが、その手前で右に斜めに入り込む道へ。
その先に見えるのが写真の電信柱とその向こうの木と駐車場。

 『別れ榎』は南北朝時代のこの地区の豪族、淵野辺義博が妻子と離縁し、別れた事に由来する榎で、後に植えられた物。
石塔は庚申塔と地神塔でした。

 写真の橋は中里橋で、境川に架かる橋で、右が東京都町田市、左が神奈川県相模原市。
この中里橋で淵野辺義博は妻子を見送ったと言われています。
自ら離縁を決めたとは言え、それは妻子に危害が及ぶのを恐れた為。
その事を妻子に告げたのか、告げずに自らの胸にしまったまま、妻に離縁を告げたのか・・・。
どちらにしても、互いに辛い物だったでしょうね。

 川を下って行くと龍像寺の石柱が。
龍像寺は淵野辺義博が退治した大蛇の胴体を葬ったと言われている地。
言い伝え通りであれば、頭を葬った地に龍頭寺、尾を葬った地に龍尾寺が建てられたが、後に廃寺になったとの事。
龍頭寺、龍尾寺は何処に有ったのかな?
大蛇はどの様な姿、大きさだったのかな?

 余談ですが、境川を泳ぐナマズ2匹を見ました。
日本古来のナマズなのかな?
だとしたら、珍しいし、境川の水質が改善されていると言う事の証の1つだよなぁ。
でも、近年飼いきれなくなったペットショプで購入した魚を川や池に放して・・・と言う事例が多いから、外来種のナマズかもなぁ~。

 人々を苦しめる龍や大蛇と言うのは、神話の世界だと暴れ川の事であったりするのだけれど、淵野辺義博の大蛇退治の伝説も、龍像寺の直ぐ傍に境川が流れている事と、境川はちょっとした雨でも増水する河川で、何度も堤防等の改修がされている点を考慮すると、「人々を苦しめる大蛇」が蛇行する境川で、それを淵野辺義博が治めた、抑え込んだと言うのも考えられるかと。

河川改修だったり、溢れる寸前の境川を配下を率いて抑え込んだとか・・・。

その際使用した物とか、その際にその地に有った物を記念に奉納した(祀った)のが3カ所有り、その話が大蛇の頭と胴体と尾の話になったのではないかな?
 色々想像したり、考えると楽しいものです。

 龍像寺坂を登って帰路に就きます。
道路の反対側に石柱が2本見えます。
この龍像寺坂を上り、大山詣でへ行ったり、相模川近くに有る当麻山無量光寺へ参拝に向かったとの事。
当麻山だと、この地域の人は日帰り参拝かな?
7~8km位有るのだけれど・・・。

 右は道標、左は道祖神。
ここは『古淵一本松跡』との事。
「古淵一本松は、古淵と嶽之内との間で、龍像寺表参道入口の門柱にある所の坂上にあり、武州から来る木曽街道(別名 磯部街道)のかたわらに高くそびえ立っていました  大野北公民館」
との事。

 徳川家康は、当初駿府に葬られ、その後日光東照宮に葬られたのですが、その際に相模原市の磯部、麻溝台等を通っています。
その道には一里塚が築かれたと記録が有るものの、麻溝台の一里塚は未だに場所が特定されていません。
この木曽街道(磯部街道)を通ったのではないかと思うのだけれど、そうだとすれば、家康の遺体の搬送となると、護衛もしっかりしていただろうし、亡き家康に失礼が無い様にと、一行の人数や出で立ちもきちっとした物だったのではないかと。
そう言った一行が東海道等の五街道ではなく、こう言った街道を通ったと言う事に驚きを感じるし、ひょっとしてこの場所を・・・と思うと。
麻溝の一里塚か・・・。
何らかの痕跡残ってないかな?





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