満天の星空が見たい!

温泉旅がメインの生活。酒とグルメとミステリ小説、ごくたまに失恋の話。

あの飯島愛さんの啖呵が好きだった!

2015-12-21 12:30:27 | 日記


今、俺の仕事場は業界のビッグイベントの最中で、
毎日、有名ゲストが参加している。きのうはあの坂上忍が来て場内を沸かせたし、
今日は鈴木亜美が舞台で歌っていた。担当スタッフはてんやわんやの忙しさで、
声も掛けられないほどだが、そのスタッフの中にもミーハーがいる。



「鈴木亜美ですよ。あの、亜美ちゃんです。舞台見に行きませんか?というより、
我々は関係者なんだから、楽屋に行ってサインもらいましょう」と、誘われるのだが、
「何が悲しくて、俺が鈴木亜美にサインをもらわなあかんねん!」と断った。
「ほんとМさんはいつもクールですね!」と、その男は言うのだが、
俺は以前から芸能人、有名人に対しては、ほとんど何も感じることはない。
クールと言うより、関心がないだけである。



初日(12月18日)、仕事が終わって通用門を出ると、3人の若い女性たちが
ビニールシートを敷いて、座り込んでいた(17時ごろ)。明日の漫才イベントで
一番前にに座りたいのだと言う。「9時半開門だから、8時ごろ来ても大丈夫ですよ」と、
ガードマンが諭したそうだが、「いや、絶対一番で入りたい」と言って
聞かなかったそうだ。その日は、強めの寒風が吹いており、
これから明日の開門(9時半)までどう堪えるのだろうか?と、心配した。
もちろん、防寒着を着て、その他、いろいろな防寒グッズを用意してはいたが…。



そのエネルギッシュさに驚く。自分は、どんな有名料理店でも絶対並ばない。
意地を張っているわけではなく、他に選択肢があるからだ。しかし、
この女性たちに、やめとけやとか、家に帰りなさいとか、おせっかいをすることもない。
彼女たちにとっては、それが現在の生き甲斐であり、無上の喜びなのだ。



以前、今は亡き、飯島愛さんが、ゲスト出演するということで、
記者席に挨拶に来たことがある。その時に言った彼女の言葉には
感心した。いわく、「私と一緒に写真を撮りたいとか、サインしてくれとか、
絶対お断りですからよろしく!」、顔がウゼエんだよ、お前たち!と言っていた(笑)。



その啖呵に皆は唖然としていたが、俺はひとり拍手を送った。「ええぞ、それでこそ飯島愛や!」と。

忘れられない、「子分達の歓声!」

2015-12-14 23:55:47 | 日記


貧乏だった。その話をすると、会社の同僚は、『あの頃は誰もが貧乏だった』と、
言う。本当にそうだろうか?と思う。


小学6年生の時、俺は祖母と二人暮らしだった。両親は離婚し、
俺を見捨てて一家離散、祖母がパチンコ屋の飯炊きに行き、
朝鮮の中の、粗末なあばら家に住んでいた。朝鮮人は親切ではなかったが、
嫌な思いをしたこともなかった。おたがい、毎日を生きるのが精いっぱいだったのだ。


そういうわけで、5人の子分はみな朝鮮人だった。「お前ら、朝鮮人だから、
学校へ行ったらいじめられるだろう。だから、喧嘩に強くなれ。でも、
喧嘩が強くても、他の奴をいじめたらいかんぞ」と、いつも言い聞かせていた。


当時は、俺はスポーツ万能だった。それで体育委員になっていた。しかし、
恥ずかしい思いもした。夏になるとプール授業がある。体育委員なのに、
プールの時はいつも見学していた。泳げないから?ノーノー、海水パンツを
買えなかったからだ。それほど家は貧乏だった。朝5時から家を出て
一日中働いているおばあちゃんに、海水着を買ってくれとは言えなかったのである。


冬の学校行事のひとつにマラソン大会があった。自慢ではないが、
3.4.5年と自分は3連覇していた(200人中)。
6年で勝てば、学校創設以来、2人目の完全制覇と言う。俺は、これに賭けた。
3か月前から、子分5人を引き連れて、いつもより30分前に家を出て、
遠回りをし、走って学校に通った。


その成果は顕著に表れた。子分どもがいずれも学年の10番以内に入って
いたからである。最後に6年生のスタートである。実はこの日の朝、
おばあちゃんから渡されたものがあった。それは、「リポビタンD」だった。
その栄養剤が当時からあったんだ…と思うと苦笑するしかないが、
それを飲んで来た。「負けるはずがない!」と、俺は自信満々だった。


スタートから俺は飛ばした。足は軽やかで、機関車のようにスピードは
落ちなかった。やがて周囲には誰もいなくなり、折り返し地点で後続を見ると、
200メートルぐらいの差がついていた。それでも気は緩まなかった。
自分の吐く息だけを聞きながら、どんどん飛ばしていった。


そして、校門に入った瞬間、待ち構えていた子分ども5人の歓声が聞こえた。
「やった、大将が一番や!」、「ええぞ、大将、ぶっちぎりや」と、
5人は手を取り合って喜んでいた。俺は彼らに手を振って応えた。
今考えても胸が熱くなる、人生の忘れられないシーンだった。


それから30数年経ったある日、俺は久しぶりに大阪から山口県の
田舎に帰った。中学校の友人と飲み会を開き、そのあとサウナへ行った。
そこで昔の子分の一人に会った。

「正男、マサじゃないか!」と言うと、周りの4.5人が俺を囲んだ。
「こら、誰がマサじゃ、うちの親分にその口はなんじゃ。お前なめとんのか~」、
その連中は、全員がもんもん(刺青)を入れていた。



マサは、最初は目を細めて、俺が何者か…という感じで見ていたが、すぐに
「お前ら、待て、この人は、わしの大恩人じゃ。いつも話をしとるじゃろ。
マラソン完全制覇のあの大将じゃ!」と、俺の手を取って頭を下げた。
「懐かしいのお、こっちへ帰ってくるんなら連絡してくれたら、
いつでも迎えに行ったのに」と、彼は貫禄十分、どすの利いた声で、
嬉しそうに言った。


結局、この夜はお互いに用事があり、酒も飲まずに別れた。そして、
再会を約束したにもかかわらず、その後は一度も彼と会っていない。、
彼はその道しかなかったような感じでやくざ屋さんになったと言うが、
当時は道端の草を食べるほど貧しかった。だから、何になっていても俺は驚かない。
ただ、あの時はみんな子供で純粋だった。

あのゴールした時の歓声が、今も耳に残っている。